[3] 確地戦略

 1944年6月当時、中央軍集団(ブッシュ元帥)は第3装甲軍(ラインハルト上級大将)と第4軍(ティッペルスキルヒ大将)、第9軍(ヨルダン大将)、第2軍(ヴァイス上級大将)が所属していた。4個軍麾下の総兵力は兵員88万人8000人、戦車・自走砲900両、火砲9500門、航空機6000機が1000キロ近い前線に展開していた。

 白ロシアの持久という任務を遂行するため、中央軍集団はドニエプル河より東方の橋頭堡に3本、ポロツク=ボリソフ=ボブルイスクの線に1本、ポスタヴィ=バラノヴィチ=ピンスクの線に1本、ウテナ=ヴォルコヴィスク=コブリンの線に1本、合計6本の陣地線を構築していた。突出部からの縦深は450キロに達していた。

 6個大隊編成の歩兵師団が受け持つ防御正面は各32キロ。各大隊の境界には広い間隙があり、それを埋めるものは通信線と定時の警らだけだった。前線の縦深を補うため、多くの師団は障害物や塹壕、防空壕の網を前線から数百メートル後方の第二防衛線に構築していた。

 しかし、中央軍集団の防衛戦略は「死守命令」を前線部隊に徹底させるという決意を固めていたヒトラーによって制約を受けていたのである。

 3月8日、ヒトラーは「総統指令11号」を下達した。以下がその内容である。

「作戦上の重要地点を『確地』と定義し、戦意の高い将官をそれぞれの『確地』司令官に任命する。『確地』は敵に包囲されても決して撤退せず、そこに多数の敵兵力を誘引して消耗させ、反撃の機会が到来するまでそこを死守すること」

 この指令は、ヒトラーが東部戦線で幾度も発してきた「死守命令」の集大成ともいえるものだった。中央軍集団戦区にあるヴィデブスク、ボブルイスク、スルーツク、モギリョフ、オルシャ、ポロツクと北ウクライナ軍集団(3月31日、南方軍集団より改称)戦区のコヴェリの計7都市は総統指令で「確地フェステプレッツェ」に指定され、同地の死守を明文化されていた。中央軍集団司令官ブッシュ元帥はヒトラーに絶対的な忠誠を誓う人物であり、将兵の損失を無視した死守命令に抗命する気は起こさなかった。

 またヒトラーは4月12日付の作戦命令において、中央軍集団と陸軍総司令部直轄の機動予備をプリピャチ沼沢地の西端部に近いコヴェリ、テルノポリの周辺へと集中的に配備するよう指示していた。これはソ連軍の戦略案における「第二の選択肢」―ウクライナからバルト海へと電撃的に突進し、中央軍集団と北方軍集団の退路を断ち切るという計画を、ヒトラーが現実の脅威と認識したことによる措置だった。

 この措置によって中央軍集団に配備されていた機動予備のうち、8個装甲師団と2個装甲擲弾兵師団が中央軍集団の南翼に展開する北ウクライナ軍集団(モーデル元帥)の第1装甲軍(ラウス上級大将)と第4装甲軍(ハルペ上級大将)へと編入された。これらの装甲部隊はドニエプル河の橋頭堡から500キロ、ミンスクから300キロも離れた地点に配置されることになった。

 中央軍集団の後方地域に残された装甲部隊は、わずかに1個装甲師団と3個装甲擲弾兵師団のみ。このうち、フェルトヘルン・ヘレ(FHH)装甲擲弾兵師団はスターリングラードで壊滅した第60自動車化歩兵師団から再編された部隊だった。まだ一度も本格的な戦闘に参加しておらず、同師団の戦闘力は未知数だった。

 このように中央軍集団は兵力面と運用面の双方に不安を残す状態で、ソ連軍の白ロシア攻勢を正面から受け止める形となったのである。

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