第17話 第五章 水の守護者の願い①
「やめてくれ! どうしてだ? どうしてこんなことを」
目に映る全ての景色が焼ける。音は断末魔と怒号、そして誰かが嘲笑う声だけで満たされている。昨日楽しそうに天気の話をしていた少女は、自身の足元に物言わぬ肉となって転がり、冗談をよく言って笑わせてくれた老人は、原形が何だったのか分からないほど殴打されてしまった。
空に立ち上る黒煙。暖を取る時や料理をする時に見れば、人の営みを感じ心温まるその煙も、今は恐れと恐怖以外、何も感じられない。
「殺す必要があったのか?」
目の前で笑う男に問いかけた。男は血みどろの棍棒を肩に担ぐと、邪悪さを顔に張り付けてよく聞こえる声で答える。
「あるさ。お前ら邪神に与する異物は、人の形をしているだけの魔物だ。殺さねば、世が終わる。災いが起きて、人は腐って死ぬ」
災いが起きる? すでに起きている。人の形をした魔物? それはお前だ。
「ウアアアアアアアアアアアアア、アアアアアアアアアアアアアアアアアア」
誰の声だ? ――俺だ。俺の喉が震えている。いや、震えているのは喉だけか? ――心だ。心も酷く震えて、止めようもない。どうすれば震えは収まる? どうすれば……ああ、そうだ。こうすれば良い。
「え?」
何かが宙を飛んで、地に跳ねた。男は崩れて、首から紅の果実を潰した時のように赤い液体が零れた。心なしか、少しスッとした。胸に手を当てると、黒い炎が渦巻き、声を発している。
――殺せ。排除しろ。人という病魔を滅せよ。滅せよ。滅せよ。滅せよ。滅せよ。滅せよ。
「滅せよ」
いつしか胸の中だけに響いていた声は、口をついて出た。震えはもう止まっている。後は、心に従って行動するのみ。
――さあ、行こう。殺戮の平野を見に行こう。俺には力がある。大丈夫。どうにかなる。
体中に魔力を漲らせて、地を蹴る。怯え、逃げ惑う魔物達。決して逃がしはしない。
「遅い」
腕を振り上げて、下ろす。地面は、赤く染まった。
※
「ヌウ!」
閉じた瞼ごしに光を感じる。男は眠気を吹き飛ばすように勢いよく体を起こすと、周りを確認する。森の景色は昨日と代わり映えはなく、木々の隙間から陽光が降り注いでいた。
「カリム様。お目覚めですか?」
真っ黒いマントを被り、目以外の全てを黒い布で覆い隠す男が、カリムの傍に来て膝をついた。
「見れば分かるだろう。昨夜は何かあったか」
「いいえ、特に異常はありません」
「よろしい。では、皆を集めよ」
「すでに六人全員揃っています」
男の背後には、同じ格好をした五人が控えている。カリムはそれらの面々を流し見ると、左端にいた男に話しかけた。
「セーム。前に出ろ」
低く寒気のする声に、セームと呼ばれた男は全身を震わせながら従う。カリムは懐からナイフを取り出し、ゆっくりと歩み寄る。
「お、お待ちください。次こそは、あのような失態はいたしません。挽回するチャンスをお与えください」
「そうか。そうだな。あの男は人間にしてはかなり強かった。良いだろう。もう一度チャンスをやろう」
「あ、ありがとうございます。必ずや……」
続きの言葉を男は紡ぐことができなかった。鮮血が宙に舞い、男だったものは細切れの肉片となって周囲に散らばった。
「死んで生まれ直せ。そうすれば、次こそは失態を冒さずに済むだろう」
「カ、カリム様。何も殺す必要はなかったのでは?」
「俺に指図するな人間風情が。いいか、貴様ら。次、一撃で倒されるなどの失態を冒してみろ。ただ、殺すのではない。貴様自身と家族、友人、知人に至る全ての人間を徹底的に痛めつけ、辱める。分かったか?」
五人の配下は、深く頭を下げる。
濃厚な血の臭いは、木々の隙間を縫うように漂う。五人の配下にとっては、恐れと吐き気、嫌悪だけを感じさせる臭いだが、森に住まう獣にとっては食欲を刺激する良き匂いだ。低い唸り声を上げながら、カリム達を包囲するように集まる。カリムは楽しそうに笑うと、散らばっている肉片を拾い上げ、獣に向かって放り投げた。生い茂った木々に隠れて見えにくいが、嬉々と食べている様子が咀嚼音から察せられる。
「おい。美味しいか? そうかそうか。役立たずな男もやっと何かの役に立ったな」
優雅に、それこそ貴族に見えるような動きで五人の前を横切ると、カリムは和やかな声で命を下す。
「アクア・ポセイドラゴンを説得するのは難しそうだ。で、あれば殺す。そして、ドラゴニュウム精製炉をヤツの体内から抜き取り、本国へと帰還する。お前達は情報を収集して、アクア・ポセイドラゴンの居所を掴め。ああ、あとお前らと交戦した人間の男を発見したらすぐに報告しろ。恐らく長い黒髪の女も側にいるはずだ。では、散れ」
音もなく黒マントの五人は立ち去り、カリムと獣だけがその場に残された。肉片一つ残さず食べ終えた獣達は、まだ腹を空かせているのか、カリムへと近寄る。彼は、それでもなお慌てる様子はない。口元は慈愛すら感じさせるほど穏やかに笑っており、鼻歌交じりに周りを眺めた。
「まだ、腹を空かせているのか。だが、止めておいた方が賢いだろうな。貴様達の力では、俺を狩るにはあまりにも脆弱すぎる。多少栄養を摂取できたのだから、それで良しとしろ」
真横に線を引いたような細いカリムの目が、わずかに開く。その瞳には殺意だけが宿り、体からどす黒いウロボロスが燃え上がる。獣達は理解した。自分達が獲物にしようとしていたのは人ではない。絶対的な捕食者であると。ならば、ここで取るべき行動など一つしかない。
「おお、良い逃げっぷりだ。やはり人よりも純粋な分、獣の方が可愛げがある。……さて、そろそろ俺も動くか。フハハハハハ」
男はひとしきり笑うと、森の中を飛ぶように移動する。
空には地を恐れる鳥達が、太陽を覆い隠すように風を切って飛んでいた。
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