第16話 第四章 契約③

 契約を交わすメリットとデメリット。黒羽の頭の中にある天秤は、どちらに傾くべきか決めかねていた。迷いは、まるで進むべき道を覆い隠す布のようだ。時間だけが黒羽を残して、速やかに流れていくように感じる。

(俺は、どうしたらいい?)

 そう思った時だった。昔祖父に言われた言葉が頭をよぎる。

「アキ。生きているとよ、迷うことなんて山ほどある。そういう時は、どっちを選んだら、死んだとしても後悔しないか考えなさい。たとえ死んだとしても、この道を選んで良かったと思えるものは、きっとお前にとっての正解だ。後悔だらけで死ぬのは……辛いぞ。爺ちゃんは、自分で胸張って生きれる道を選択してきた。だからさ、今、すごく満ち足りた気持ちなんだよ」

 真っ白い病室でベッドに横たわる祖父は、震える手で黒羽の手を握りながら、穏やかに笑っていた。

 後悔しない人生などないかもしれない。けれども、あんな顔ができる人生はきっと、辛かったとしても幸福だったに違いないだろう。であれば、自身がどう選択したら胸がスッとするだろうか。目の前にいる女性を見つめ、黒羽は問いかける。

「なあ。君は困っているんだよな」

「ええ、そうよ」

「俺が断ったら大変か?」

「大変ね。だって私、随分と長いこと眠っていたから、頼れる相手がほとんど死んじゃってるもの。ドラゴンの仲間はいたけれど、どこにいるのか生きているのかも分からないわ」

「そうか……そうだよな。俺も困っている。川の水が復活してムーンドリップフラワーが手に入らないと、夏季限定メニューを提供できない。俺はな、嫌なことばかりな世の中で生きる人達に、憩いの場所を提供したいんだ。誰かの笑顔を見るのが大好きなんだよ。花を手に入れて、楽しみに待っている人達にメニューを提供したい。そのために俺は……お前と契約する。そして、お客様もお前も水が不足しているフラデンの人々も笑顔になれば、俺も幸せだ。知っているか? 俺は欲張りなんだよ」

 溢れ出る想いに身を任せてみれば、答えは勝手に口から飛び出してきた。息を深く吸ってみる。先ほどまでは、胸に重い泥が沈んでいるような感覚だった。でも、今は違う。滑るように空気が肺を満たし、吐いた息は晴れ渡る青空に溶けていく。

「アハハ。何よそれ。でも素敵ね。スッゴイ良い顔しているわよ。秋仁」

 サンクトゥスは、心の赴くままに伸びやかに笑った。少女のような笑みは、黒羽の選択が勝ち取った小さな一歩。

 黒羽は歩み寄ると右手を差し出す。

「よろしくな。サンクトゥス」

「はい。私の方こそ、よろしくね」

 サンクトゥスも右手を差し出し、互いに強く握手を交わす。彼女はそのまま、左手を真上に上げると、

「我、サンクトゥスは黒羽秋仁と異種契約を交わす。種族違えど、交わされた契約がある限り、汝と我は家族よりも深き絆で結ばれた尊き存在。如何なる時も支え合え。さすれば、絆は種を超えてより強固に、離れがたきものになるであろう」

 と唱えた。

 ――その途端に、サンクトゥスの体から止めどなくウロボロスが溢れ出た。眩い純白の魔力は幾本もの帯となり、渦を描きながら空に舞って、複雑な模様の魔法陣を描いていく。そして、魔法陣は完成と共に、一層強く、気高く輝きが増した。

「おお」

「あら、綺麗ね」

 魔法陣はやがて、波打ち際に建つ砂の城のように、さらりと崩れた。ウロボロスは粒となって、緩やかに降り注ぐ。真夏の粉雪は、いつの間にか吹き出した風にさらわれ、彼方へと飛び去っていく。

 二人はそれを見習うかのように歩き、森を後にした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る