第29話 瑠美(8) 麗しき者よ、宴の始まりを告げよ


 部屋の様子が露わになった瞬間、私たちの目の前に現れたのは信じがたい光景だった。


 地下とは思えない凝った調度の応接間で私たちを待ち構えていたのは、小さな人影を膝に抱いた人物だった。


「美生君……来栖さん!」


 椅子に座った人物――来栖が手にしている物を見て、私は悲鳴を上げた。

 来栖の手には大ぶりのナイフが握られており、鈍く光る刃先は膝に抱かれている少年――美生の首筋にあてがわれていた。


「来栖さん……一体何をする気だ」


 逸見が押し殺した声で尋ねると、来栖は私たちを威嚇するように睨んだ。


「動かないでもらおう。誰か一人でも動いたらナイフを引く」


 来栖は感情のこもらない、ぞっとするほど冷徹な声音で言った。


「正気か、あんた。自分の子供だろう」


 鋭二が厳しい口調で咎めると、来栖は眉一つ動かさず「時には自分の子どもが殺意の大将になることもある」と言い放った。


「馬鹿な真似はよすんだ、来栖さん」


 鋭二が前に一歩進み出ようとしたその瞬間、美生につきつけられたナイフの刃がぐっと首の肉にめり込んだ。


「動くなと言ったはずだ」


「来栖さん……いったい、何があったの?私と美生君を助け出すんじゃなかったの?それともあれは全部嘘だったの?」


 私が訴えかけると来栖の目がすっと細くなり「ここでは誰一人、信じてはいけないんだ……そう、自分さえもね」と言った。


 だめだ、もはやまともに説得できる状況ではない。自体が絶望的であることを私は悟りつつあった。


「どうしても美生君を手にかけるというなら」


 鋭二がそういうと、おもむろに手をポケットに滑りこませた。次の瞬間、鋭二の手には黒光りする拳銃が握られていた。


「埴生さん!……何をするつもりですか」


「子供の命が危機にさらされていて、相手は説得に応じない。やむを得ないだろう」


 鋭二はそう言うと、来栖の額に狙いを定めた。


「やめてください、鋭二さん」


「……もう遅い」


 鋭二が引鉄に指をかけた、その時だった。


「……ううっ!」


 突然、来栖が胸を手で押さえ、苦しみ始めた。両目が大きく見開かれ、顔面から血の気が失せたかと思うと、両手がだらりと力なく下がった。同時に意識のない美生が膝から床へと転がり落ち、ナイフが床の上で硬い音を立てた。


「美生君!」


 私は美生の元に駆け寄ると、咄嗟に抱きあげて来栖の前から遠ざけた。


「……まずいな、これは」


 鋭二がポケットに拳銃を戻すと、身体を折ってぐったりしている来栖に駆け寄った。


「塚本さんは美生君を連れて一階に戻っていてくれ。僕は応急措置を試してみる」


 鋭二はすでに意識のない来栖の身体を床の上に横たえると、私に言った。


「何かの発作か?それとも、あんたが拳銃を向けたからか?」


 逸見の問いかけに、鋭二は頭を振った。


「……わからない。とにかく意識を取り戻してもらわないことにはどうしようもない」


 鋭二はそう言うと両手を重ねて来栖の胸に当て、心臓マッサージを始めた。私は美生の身体を抱きかかえたまま、階段の手前で躊躇していた。すると、上の方からとんとんとこちらにむかって階段を降りてくる足音が聞こえた。


「その人は私に任せて。……大丈夫、死にはしないわ」


 いきなり言葉をかけられ、私は驚いて声のした方を見た。気が付くと私のすぐ近くにバッグのような物を手に携えた女性が立っていた。


「……南美さん」


 私は白い部屋着に身を包んだ南美を前に、呆然と立ち尽くした。南美は私たちの前を無言で通り過ぎると、来栖の傍らに屈みこんだ。


「……少し過呼吸気味だけど、脈はしっかりしてるわ。鎮静剤を打っておきましょう」


 南美はそう言うとバッグから注射器を取り出した。


「瑠美さんは美生君を連れて上に行って。男性お二人は彼を階上に上げるのを手伝って」


 南美は周囲の人間にてきぱきと命ずると、注射の準備を始めた。


「……とうとう、館の女主人のおでましか」


 鋭二が手際よく来栖に処置を施す南美を見ながら、疲労のにじんだ声で言った。


                 ※


 がらんとしただだっ広いフロアに、美生を含む六名の男女が、互いにけん制し合うようにたたずんでいた。


「さて、ようやく晩餐の準備が整ったと言いたいところだけど、まだゲストが足りないようね」


「……沙羅さんがいないわ」


「そうだな。僕らをここに呼んだ張本人がいないっていうのは、どうにも納得がいかない」


「そうね。でもじきに姿を現すと思うわ」


「なぜそんなことがわかるんだ?」


「わかるわ。なんとなく……彼女、他人のような気がしないのよ。……そう、言ってみれば古くからの知り合いみたいなものね」


 南美が謎めいた言葉を口にした、その時だった。キッチンの方から引きずるような足音が聞こえてきたかと思うと、呻き声と共に人影が姿を現した。


「……あっ」


 幽霊のような足取りで現れた人影の正体を見て、私は思わず声を上げていた。私たちの前に立っていたのは、二階で目撃した怪人物だった。


「……出て来てしまったのね。まあいいわ。あなたも最後の審判が下される瞬間に、立ち会いなさい」


 南美がそう命じると、驚いたことに怪人物は抗いもせず手近な椅子に大人しく収まった。


「いったい、この人は誰なんですか」


「さあ、誰かしらね。逸見さん、あなたならご存じでしょう?」


 南美が問うと、逸見は思い詰めたような表情で「この人は……暗堂だ」と言った。


「暗堂だって?」


 逸見の言葉に鋭二が驚きの声を上げた。私は脳天を殴られたような衝撃を覚えた。


 この人が暗堂さん?……じゃあ二階の窓から逃げた人は誰なの?


「おかしいわよね。暗堂が二人……そしてもう一人の「美しい暗堂」がなぜかいない」


 南美が歌うように言った、その時だった。玄関の扉が勢いよく叩かれ、男性の声が響き渡った。


「誰か……誰かいませんか!……いたらここを開けてください!」


 私がぎょっとして扉の方を見ると、南美が当然のような顔で玄関に向かい、扉のチェーンを外し始めた。開け放たれた扉の陰から現れた人物を見て、私は思わず叫び声を上げそうになった。


「……参ったよ。こんな時間にご招待とはね」


 入り口の所に濡れそぼって立っていたのは、逸見だった。


「逸見さん……」


 私が思わずそう呟いた時だった。誰かの駆け出す足音と、鋭二の怒号が背後で聞こえた。


「逸見さん!……いや、たった今、カーテンの陰に逃げ込んだ奴!おとなしく姿を見せろ」


 鋭二の手には再び拳銃が握られていた。しばしの沈黙の跡、カーテンが動き、物陰から一人の人物が姿を現した。


「……暗堂」


 窓を背に立っていたのは逸見ではなく、二階で美生と向き合っていた男性――暗堂だった。


「諸君、晩餐前の余興は終わりだ。私は一足先に、舞台から降りるとしよう」


 暗堂と思しき男性はそう呟くとどこからか取り出した小瓶を開け、中の液体を呷った。


「暗堂!」


 鋭二が拳銃を降ろし、駆け出した。が、鋭二の手が届く直前に暗堂はがくりと身体を折り、糸の切れた人形のようにその場に崩れた。


「畜生……何がどうなってやがるんだ」


 鋭二が忌々し気に吐き捨てた瞬間、床の上に伏した暗堂の身体の下から、くぐもったような声が聞こえ始めた。


「……これが再生されているということは、私の身体は現在、仮死状態にあるのだろう」


 鋭二がはっとしたように目を見開くと、暗堂の身体を揺すった。すると力を失った身体の下から、小型のレコーダーが姿を現した。


「私は数時間前、そこにいる美生の身体にある薬物を投与した。投薬から一定の時間が経つと致死性の毒に変わる物質だ。解毒剤の在処は、私しか知らない。そして私を仮死状態から蘇生させる方法も、簡単にはわからないだろう。私の完全なる勝利というわけだ」


 レコーダーが再生を終えると、フロアを重苦しい沈黙が支配した。


 ――やはり、すべての黒幕は、ここに倒れている暗堂だったのか?ではもう一人の暗堂は、いったい何者なのだ?……お願い、誰でもいいから早くこの悪夢を終わらせて。


 私が疑問ではちきれそうな頭を両手で抱え、蹲ったその時だった。


 カン、カン、カン。


 階上から、誰かが降りてくる足音が聞こえた。


「誰だ?二階には誰もいないはずなのに」


 鋭二が驚愕に見開かれた目で、階段を注視した。やがてその場の全員が固唾を呑んで見守る中、足音の主が優雅な足取りで姿を現した。


「君は……」


 私たちの前に現れたのは、紫のオリエンタルな民族衣装を身にまとった、沙羅だった。


「沙羅さん……」


 沙羅は手に携えた銀色の四角いケースを胸の前に掲げ、厳かな口調で言い放った。


「冥界の七つの門を開くときが来た。さあ、王の名の元に宴を始めよう」


            〈第三十回に続く〉

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る