第27話 瑠美(6) 罪びとよ闇に集え
「もう何年前になるか……ちょうどこんな雨の日の午後でした。たまたま通りがかった商店街の閉ざされたシャッターの前で、文乃がギターを弾きながら歌っていたんです。その歌声を聞いた瞬間、僕はその場から動けなくなりました。彼女の歌と姿には、僕のような平凡な人間を虜にする強烈な魅力があったんです」
来栖の目は前方の闇ではなく、今まさにシャッターの前で歌っている文乃を見ているかのようだった。
「彼女は女性にしては言葉数が少なく、背も僕より高くて凛々しい印象でした。ですが僕はそこに好ましいものを感じ、彼女に惹かれていきました。虚勢を張ったり大人ぶったりすることに疲れていた僕を、 彼女は黙って受け入れてくれたんです」
助手席のシートに背を預けて来栖の語りを聞いていた私は、まるでこれから人の世界を抜けだして黄泉へと続く道に吸い込まれてゆくかのような錯覚を覚えた。
「彼女の声、指使い、すべてが魔法のようで、気づくと彼女が歌う「鉛の心臓」が頭から離れなくなっていました。……でも、彼女にのめり込めばのめり込むほど、彼女が求めているものが僕には与えれらないことに気づき、胸が苦しくなっていきました」
「それが暗堂……そういう事でしょうか」
私がおずおずと問うと、来栖は険しい表情のまま頷いた。
「ええ。暗堂と別れて一人になってもなお、彼女は暗堂のことを歌い続けていたんです」
「でも美生君がいるじゃないですか」
「そうですね。……僕との結婚を承諾してくれた時には、天にも昇る気分でした。……実際、一緒に暮らし始めてから一年ほどは幸福の絶頂でした。ですがそれは所詮、つかの間の夢にすぎなかったのです。
僕の知らない間に、文乃は逸見さんに請われてしばしば、美生を連れて歌いに行っていたのです。そのことを質した僕に、文乃は一度はこう言いました。「本当は逸見さんの元に行くのは気が進まない。あそこに行くと美生がどんどん変わっていく気がする」と。
実際、美生は暗堂や逸見からもらったアングラ系の本を隠し持っていました。僕は「このままではいけない」と思いました」
来栖はまるで、何かに取り付かれたかのように喋り続けた。セダンは市街地を抜け、郊外の丘陵地へと入って行った。住宅の数がまばらになり、左右に見える生活の灯が目に見えて減っていった。
「このあたりから、ちょっとした上りが続きます」
来栖はそう言うと、アクセルを踏みこんだ。エンジンの回転数が上がり、ギアの切り替わる気配があった。
「……もう少しで到着しますよ、ほら」
しばしの沈黙の後、来栖が再びタブレットを取りだして私に手渡した。画面に目を落とすと目的地を示すマーカーまで、あと一キロ足らずであることがわかった。
「このあたりなんでしょうか……全然、別荘地らしい風景は見えませんけど」
わたしは正直な感想を口にした。窓からうかがえる外の景色はうっそうとした雑木林のみで、この先に開けた場所があるようには思えなかった。
「少なくとも目的の建物はあるはずです。私有地に続く道がどこかで現れると思うので、注意していてください」
ほぼ闇に飲みこまれた視界を見据えながら来栖が言った。
それから数分ほど走行したところで、セダンが突如として減速を始めた。
「おかしいな、このへんのはずなんだが……」
「……来栖さん、あれ」
私は左手に見えた物体を指で示しながら、隣の来栖に呼びかけた。
「え?」
来栖はセダンを路肩に停めると、私が示した方向を見た。そこには木立の間に、遊歩道のような小道がうっすらと見えていた。入り口に当たる地点には、ブルーシートで覆われたバリケードのような物体があり、部外者の侵入を阻んでいた。
「……入っていいんでしょうか」
「どうでしょうね。……でも見て下さい、バリケードの向こうに看板みたいなものがある」
来栖がそう言いながら、黒っぽい立札を指さした。目を凝らすと「トワイライト・カフェ」という文字が黒く濡れそぼっているのが見て取れた。
「ここのようですね」
「……行きましょう。歓迎はされていないようですが、僕らには十分な大義名分がある」
そう言うと来栖はバリケード-を乗り越え始めた。私はどんどん先に進んでゆく来栖の後を、湿った地面を踏みしめながら追った。
「車は置いて行って大丈夫なんですか」
「ええ、こんな山中でレッカーされることもないでしょう」
来栖は大胆に言い放つと、細い私道を奥へと分け行っていった。やがて、前方にぽつんと窓明かりらしい光が浮かびあがった。
「あれだ。あれが「トワイライト・カフェ」に違いない」
来栖の言葉に、私は改めて前方に視線を向けた。暗がりの中に、大きめのアパートくらいの規模の建物のシルエットが見えた。近寄ってみると、一階部分にはあちこち板らしきものが打ち付けてあり、玄関に続くアプローチの上には壊れた家具の一部や家電製品が山を成していた。
「どうやらカフェは閉店しているみたいだ」
そう言うと来栖は玄関の扉に掲げられた「CLOSE」の札を指さした。
「本当にこの中に暗堂と美生君がいるんでしょうか」
「うん、一階は電気が消えているから誰もいないだろうけど、二階には明かりのついてる窓がある。誰かがいる可能性は高いと思うね。なるべく気づかれないように開いている入り口を見つけ出そう」
私は二階部分を見上げた。来栖が言う通り、かなり高い位置に細長い窓があり、うっすらと明かりが灯っていた。私たちは身を屈めるようにして移動を開始した。
建物の裏手に回ると倉庫らしいプレハブがあり、その近くに通用口らしいアルミの扉があった。
「キッチンの裏口かな。ここから入れるかもしれない」
来栖は扉に近づくと、取っ手に手をかけ、力を込めた。
「しめた。鍵がかかってない。入れそうだぞ」
来栖が取っ手を手前に引くと扉は難なく開き、暗い穴がぽっかりと現れた。
「僕は入ってみる。ついてこれるかい?」
来栖が肩越しに振り返り、私に尋ねた。私は無言で頷くと、来栖の背に歩み寄った。
「敵に気づかれないよう照明はつけずに行くから、足元に気をつけてくれ」
来栖が懐中電灯で先を照らしながら、私に警告した。私は暗闇の中を来栖の後ろにぴったりとついて進んでいった。
「冷蔵庫がある。やはりここは厨房だな」
懐中電灯の光に照らされた銀色の物体を見て来栖が言った。
「この先は食事をするフロアだろうから、ここよりは多少、開けているはずだ」
来栖は厨房を突っ切ると、突き当りのドアを開けた。ドアの向こうもやはり闇だったが、そこが広い部屋であることは遠くに窓が見えることから漠然と把握できた。
「ここがカフェとして使われていた部屋だな。何もないところを見ると、どうやら完全な空き店舗になっているようだ」
来栖は部屋の中ほどまで進むと、そう感想を口にした。たしかにがらんとした空間だった。だが、私たちはすでに敵の縄張りの中にいるのだ。
「どうします?これから」
「とりあえず階段を探して二階に上がろう。そこでまた考えればいい」
そう言うと来栖はさらに奥へと進んでいった。さすがに私も闇に目が慣れ始め、玄関や階段らしきものの存在を捉えられるようになっていた。上に伸びる階段の手前で私たちは足を止め、何か物音が聞こえないか、耳を澄ませた。
「何も聞こえないな」
「行ってみましょう。ここまで来たら敵でもなんでも、出逢わないことには始まらないわ」
私は自分でも驚くような言葉を口にしていた。肚が据わったのかもしれない。
「よし、行こう」
私たちはゆっくりと階段を上り始めた。二階につくと、来栖は廊下を懐中電灯で照らした。二階はアパートのように左右にドアが並ぶ、これといって特徴のないつくりだった。
「どの部屋から調べます?」
「奥から行こう。後ろを頼む」
来栖がそう言ってそろそろと進み始めた、その時だった。悲鳴とも呻き声ともつかない声が、近くから聞こえてきた。
「どこだ?」
私たちが足を止めて周囲を見回した、その時だった。階段を上り切ったあたりの廊下に、人影らしきものが立っているのが見えた。
「く……くる……」
掠れた声を発している影に懐中電灯の光が当たった瞬間、私は思わず悲鳴を上げていた。
懐中電灯の光の輪の中に浮かび上がったのは、両目に憎悪を湛えた皺だらけの顔だった。
〈第二十七回に続く〉
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