第25話 瑠美(4) 父と子に似せし者よ


「すみません、領収書、お願いします」


 財布を取りだしながら私は、ポリ袋を器用に広げているコンビニの店員に言った。


「方書きは、どちらになさいますか?」


「学童保育施設・のびのび館でお願いします」


 店員がレシートに方書きを書きこんでいる間、私は見るともなくあたりを眺めていた。


 何気なく視線を入り口の方に向けた時、ふいに立ち止まった利用客と目があった。次の瞬間、私は心臓がぴくんと小さく跳ねるのを意識した。


 ――あの人――


 ドアの前で立ち止まってこちらを見ていたのは、黒いスウェードのジャケットを羽織った端正な顔立ちの男性だった。


 ――暗堂。


 出で立ちこそ地味だったが、独自の妖しい眼差しは、逸見から見せてもらった昔の写真の暗堂と酷似していた。


 ――まさか、こんなところに。


 訝る私の胸中を察したのか、男性はくるりと背を向ると、あっと言う間に外の往来へと姿を消した。


「はい、お待たせしました」


 私は店員から差し出された商品と領収書を受け取ると、胸のざわつきを抱えたまま、コンビニを後にした。


                ※


「初めまして、今日からボランティアをさせていただきます、青井早智絵あおいさちえと言います」


 寿子の隣でかしこまっていたふくよかな女性は。そう言って私に頭を下げた。


「どうも、はじめまして、塚本瑠美です。あの……どうぞよろしく」


 青井早智絵は私の一つ下、大学一年生だった。性格がおっとりしているのか、眼鏡の奥の細い目が始終、にこにこと笑っているような女性だった。


「今日は早智絵さんも加わったことだし、おやつは二人で作ることにするわ。瑠美さんは二階で五周年記念バザーの飾りつけを作っててくれないかしら」


 いつもとは違う展開に戸惑いつつ、私は「はい、わかりました」と答えた。


 休憩室として使っている二階の四畳半に足を運ぶと、座卓の上に作りかけの造花が並んでいた。私は階下から漏れ聞こえる早智絵の笑い声を聞きながら、造花づくりを始めた。


 それにしても、コンビニの店内で目があった男性は本当に暗堂だったのだろうか?


 そんな疑問を持て余しながら作業をしていると、下の方から子供たちの騒ぐ声が聞こえ始めた。


 そろそろ、おやつの時間だな。そう思って区切りのいいところで手を止めると、折よく階段の下から寿子の「瑠美ちゃん、おやつにしましょう」という声が聞こえてきた。


 階段を降りてゆくと、途中でバニラエッセンスのような甘い香りがふわりと鼻先を撫でた。居間のドアをくぐると、テーブルの上に大きな皿に盛られたクレープの生地が見えた。


「トッピングは皆さん、セルフでお願いしますね」


 テーブルに集まって来た子供たちに、早智絵が少し緊張気味の顔で指示を与えた。


「……はい、お姉ちゃん」


 そう言いながら、紅茶の注がれたカップを私の前に寄越したのは、美生だった。


「ありがとう、美生君。……学校は楽しかった?」


「うん。校庭でドッジボールをやったんだけど、逃げてばっかりだった」


 意外なほど器用な手つきでクレープ生地をたたみながら、美生が言った。


「……でもね、クラスの子が後で「変な男の人が校庭の隅からこっちを見てた」って言いだして、みんな怖がってたよ。どっから入ったんだろうって」 


 私は美生の話を聞いた途端、背筋が冷えるのを覚えた。変な男の人?


「それで、その男の人はどうしたの?」


「わかんない。いなくなったんじゃないかなあ」


 美生はそう言うと、口の端についたチョコレートソースを指先で拭った。


 私は素朴で優しい味のクレープを頬張りながら、二時間後にやって来る来栖のことを考えた。どうしよう、暗堂に会ったことを伝えた方がいいだろうか。それとも余計な不安を煽るようなことをわざわざ口にするのは控えるべきだろうか。


 皿の上の生地があらかたなくなり、子供たちはテーブルを離れて居間のあちこちに散らばり始めた。早智絵は満足そうな息を漏らすと「さて、洗い物に取り掛かりましょうか」と言って席を立った。


「あ、後片付けならわたしがやります」


 私が申し出ると「今日くらい、のんびりしてください。これくらいさっと片付きますから」と早智絵がやんわり断った。


「そう……何だか悪いわ」


 私は滅多にない気遣いをされ、微妙な気分で椅子に戻った。テレビから流れる情報番組を見るともなしに見ながら紅茶を啜っていると、ふいに強い睡魔が私を襲った。


 ――おかしいな。寝不足した覚えもないのに――


 そう思った途端、紅茶のカップを持っている指から力が抜け。カップがソーサーに当たって音を立てた。


「どうかしました?瑠美さん」


 洗い物に向かっている早智絵が、振り返って私に聞いた。


「ううん、なんでもないの」


 そう答えた直後、言いようのない眠気が波のように押し寄せ、考えをまとめることが困難になっていった。


 ――なんだか変だ。これは――


 状況を誰かに伝えようとしたその瞬間、私の意識は強い力で眠りの底へと引きこまれていった。


                  ※


――瑠美さん、瑠美さん!


 名前を呼ぶ声と共に揺り起こされ、私は目を見開いた。


 西日に染まった居間の風景を見て、私はテーブルに突っ伏したまま眠ってしまったことに気がついた。


「いやだ、私……寝ちゃったのかしら」


「きっと、お疲れなんですよ」


「どのくらい、眠ってました?」


「そうですね、二、三十分ってとこでしょうか」


「そんなに?」


 私は驚いて、思わずあたりを見回した。子供たちは迎えが来て帰ってしまったらしく、私と早智絵のほかに居間に人の気配はなかった。


「子供たちは全員、帰っちゃったのかしら」


「ええ。皆さん、お迎えの方がいらしてお帰りになりました」


「――美生君も?」


 私が尋ねると、早智絵は「はい。ご家族の方が迎えにいらっしゃいました」と言った。


 私が寝ている間に、来栖が来ていたのか。起こしてくれればよかったのに。


「何時ごろ?」


「十五分くらい前でしょうか。お父様が来られて」


 やはり。私は自分のふがいなさに思わず歯噛みした。


「でも美生君のお父様って素敵ですね。モデルみたいにすらっとして、スマートで」


 早智絵がそう印象を口にした瞬間、私の中でふと疑問符が浮かび上がった。


「その、お父さんって、どんな服を着てました?」


「ええと……黒っぽいスウェードのジャケットだったかな。それがまた、よく似あってて」


 私は愕然とした。来栖はそれほど背は高くないし、どちらかというとがっちりした体格だ。それに、職場に黒のジャケットなど着て行ったことはない。


 ――まさか、暗堂?


「早智絵さん、美生君のご家族がいらした時、寿子さんはいなかったの?」


 私は早智絵に、真っ先に浮かんだ疑問をぶつけた。寿子は来栖の顔をよく知っている。

 寿子がいれば、いつもとは違う人間が家族だと言って現れたら「何かがおかしい」と気づくはずだ。


「施設長はお家の用事があるとかで、早々とお帰りになられました。……あ、そうそう、美生君、なんでも、週末に仲良くしてるお姉さんの別荘に行くとかで、とっても嬉しそうでした」


「別荘?」


 私の背筋を、戦慄が駆け抜けた。


「早智絵さん、ちょっと早いけど今日はもう、閉めましょう。あなたも初日で疲れたでしょう?早目に上がってくださいな。戸締りは私がしておくから」


「そうですか?……わかりました。お疲れさまでした」


 早智絵はそう言うと、荷物のある二階へと姿を消した。私は携帯を取りだすと、すぐさま来栖の番号を入力した。


「……もしもし?来栖さん?塚本です」


「塚本さん?……どうしたんです?また美生がいなくなったんですか?」


「いえ、そうじゃなくて今日は……とにかく、こちらに早く来てください。説明はそれからします」


「……わかりました。これから電車に乗るので、二十分後くらいには着けると思います」


 私の口ぶりから事態がただ事でないと悟ったのか、来栖は早口で言うと通話を終えた。


 お願い、早く来てください……そう祈りながら携帯を握りしめていると、階上からとんとんと降りてくる足音が聞こえた。


「それじゃあ、お先に失礼します」


 そう言って頭を下げようとした早智絵に、私はふと気になったことを尋ねた。


「あ、早智絵さん、ちょっと変なことを聞くけど、さっきのおやつを作ってる時、台所から離れた時間って、ある?」


「私が、ですか?……ええと、そう言えばインターフォンが鳴って、宅配とか何とかいう男の人の声が聞こえたので一応、玄関まで出て行きました」


「宅配?」


「それが、変なんです。出て行ってみたら、誰もいないんです。いたずらかもしれません」


 しきりに首を傾げている早智絵を見ながら、私は誰かはわからないが、飲み物かおやつの材料に睡眠薬を仕込む時間はあった、と思った。


「あのう……」


 はっと気づくと、すぐ近くで早智絵が私を心配げに見つめていた。


「ごめんなさい。なんでもないの。……お疲れさま。これからもよろしくね」


 私がことさら明るく言うと、早智絵は「はい、失礼します」と言ってドアの外に消えた。


 無人になった居間で不安に耐えていると、やがてチャイムを鳴らす音が響いた。


「……遅くなりました。何かあったんですか」


 ドアのところに立っている来栖の姿を見た瞬間、私はその場で声を上げて泣き崩れた。


「塚本さん?……どうしたんです、一体」


 耳元で来栖の逼迫した声を聞きながら、私はどう説明したらいいのだろう、と考えを巡らせた。


              〈第二十六回に続く〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る