第22話 瑠美(1) その女は天使ではない


「みんな、ホットケーキが焼けたわよ」


 私が階段の下から二階に向かって呼びかけると、上の方から不揃いな足音がどたどたと聞こえ始めた。


「……あら?美生君もいなかったっけ?」


 私が一階に姿を現した年長の男の子に聞くと、男の子はやや太り気味の身体をぐっと前に乗り出して「さっきまでいたよ」と言った。


 私はふいに寒気のようなものを感じ、ホットケーキを切り分ける手を止めた。


「みんな、適当に分けて食べててね。最初は一人一切れよ」


 私はそう言い置くと、事務室へと下がった。奥の机で山積みの書類と格闘している丸い背中に声をかけると、施設長の師岡寿子もろおかひさこが老眼鏡を押し上げながら振り返った。


「……あら、もう三時?じゃあ私も一息入れようかしら」


 間延びした口調で返す寿子に私は「施設長、また美生君がいないんです」と言った。


「それは困ったわね。……でも迷子になる年でもないし、心配しなくてもいずれ戻ってくるんじゃないかしら」


「それはそうですけど……」


 私は口ごもりながら、施設長の示唆した危険とは別の懸念を抱き始めていた。



 ――逸見さんのところに行ったんじゃないかしら。


 来栖から、美生がどうも逸見のところにしばしば言っているようだと聞かされたのは、先週のことだった。どうやら美生はそこに行けば母親に会えると思い込んでいるらしい。


 ――この前のアレルギー騒ぎから、まだ数日しか経っていないのに。


 私は思わず溜息をついた。子供というのは体調不良から回復すると、途端に手を離したゼンマイのようにどこかに飛んでいってしまう。確かに今までも美生が保育中にどこかに行ってしまうことはあった。だが父親が迎えに来る頃にはいつもちゃんと戻っていた。


 私は美生が狙われたという来栖の話や、アレルギー騒ぎの際の苦し気な表情を思い返した。……やっぱり放ってはおけない。私はロッカーから上着を取りだすと、施設長に手を合わせて懇願した。


「すみません、ちょっとその辺を探してきます」


 最初は呑気な顔で「大丈夫よ」と言っていた寿子も、私のまなざしを見て頷いた。


「わかったわ。事故があってからじゃ、遅いものね」


 私は施設の建物を飛びだすと、自転車に飛び乗った。まっすぐに目指したのは以前、一度だけ前を通ったことのある逸見のレッスン所だった。


 ――でも逸見さんもたしかつい何日か前に退院したばかりのはずだわ。よりによって病み上がりの二人が同じ場所にいる、なんてことあるのかしら?


 息を切らしながら十分ほど必死で自転車をこぐと、ようやく目的のビルが視界に現れた。速度を緩め、自転車を止められそうな場所を探しかけたその時だった。


「あっ……」


 ビルの一階のドアが開いて、見覚えのある人物が姿を現すのが見えた。私は自転車から降りると、人物に近づいた。


「……沙羅さん」


「あら、こんにちは。この前は大変だったわね」


 私を見てにこやかに微笑んだのは、ひょんなことから知りあった年上の知人、松井沙羅だった。それにしてもこんな場所で何をしていたのだろう。


「随分、妙なところで会っちゃったけど……このあたりに用事?」


 沙羅はアーモンド形の瞳で私の顔を覗きこんできた。昼下がりの歩道という殺伐としたロケーションでさえ、沙羅の美しさは際立っていた。


「あ、いえ……美生君がどこかへ行ってしまって」


 私が正直に打ち明けると、沙羅は「まあ」と言って目を丸くした。


「それは大変ね。この間、あんなことがあったばかりなのに……」


 沙羅はそう言うと、周囲を見回す仕草をした。どうやらこのビルには来ていなかったようだ。


「沙羅さん、何か思いつきませんか。美生君の生きそうな場所」


「そうね……お父さんのところぐらいしか思いつかないわ」


 私ははっとすると同時に、それはいくら何でもないのではないかと思った。


「来栖さんの職場ですか?いくら何でも遠すぎませんか」


 来栖の職場は、ここからでも数キロはある。自転車で急いでも三十分はかかるだろう。私が否定的な感想を口にすると、沙羅が「違うわ、来栖さんの所じゃない」と首を振った。


「美生君の、本当の父親の所よ」


「本当の……父親」


「瑠美さんも来栖さんから聞いたことがあると思うけど、暗堂さんっていう人よ」


 私は絶句した。まさか、そんな。確かに一度、来栖から美生の生みの父親は別にいるのだと教えられたことはある。


「でもその人、どこにいるんですか。美生君が居場所を知っているなんてこと、あるんでしょうか」


「さあ、それはわたしにもわからないわ。……あっ、ちょっと待って」


 そう言って言葉を切ると、沙羅はポケットから携帯を取り出し、耳に押し当てた。


「……あら、来栖さん」


 私はどきりとした。なぜ、来栖から沙羅に電話がかかってくるのだ?にわかに動悸が早まるのを意識しながら、私は沙羅の受け答えする声に耳を傾けた。


「……美生君が?それで今、どこにいるんです?……えっ、クリニック?」


 会話の内容を把握し切れず、私は気分がざわつくのを抑えられなかった。


 ――なぜ、来栖は沙羅に連絡先を教えたのだろう?


「――瑠美さん」


「あ、はい」


 沙羅が通話を終えるなり、私を呼んだ。


「今、来栖さんから連絡があったわ。美生君、来栖さんが通院しているクリニックに来てるって」


「クリニック?」


 沙羅が口にした意外な場所の名に、私は困惑した。


「ええ。それで、今から二人で施設に戻るそうよ。わたしが瑠美さんと一緒だって言ったら、向こうで落ち合いましょうって。よかったわ、見つかって」


 私は「そうですか……」と気のない返事を返すのが精いっぱいだった。仕事を放っぽり出してまで探しに来て、結局、見つけたのが沙羅だったという現実が、私を打ちのめしていた。


「わたしは電車で行くから、あなたもすぐに引き返した方がいいわ」


 当然のように指示をする沙羅に、私は思わず「あなたも来るんですか」と言いそうになった。私はその一言を喉元で押しとどめると「わかりました」としおらしく答えた。


「じゃあ、後でね」


 そう言って背を向けた沙羅に、私は何とも言いようのない嫉妬を覚えていた。それは先に出会って親しくしていた私を差し置いて、いつの間にか来栖とねんごろになっていた沙羅への、やり場のない怒りでもあった。


 ――沙羅さん、私、あなたのことを信じていいのかわからない。


 奇妙に自信に満ちているように見える背中を見送りながら、私は小さくそう呟いた。


              〈第二十三回に続く〉

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