第21話 汝の真心をささげよ


 暗堂との直接対決を前にわたしはもう一度、香が撮った映像の内容を改めることにした。


 わたしは「オスカー」の電源を入れると、のっぺらぼうの「顔」に向かってぼやいた。


 ――ねえ、オスカー。もう彼と「対決」していいと思う?自白を引き出すのに十分な材料はあるかしら?


 わたしの問いかけに、唇だけの白い顔は何の反応も示さなかった。やがてディスプレイの画面上にかつて見た「灰色の肖像」の一場面が映し出された。


 暗堂が半裸の女性に口移しで酒を飲まされている場面だった。記憶では間もなく暗堂の表情が一変し、画面がブラックアウトするはずだった。


 暗堂の長い指が女性のうなじをなぞり、女性の唇から葡萄色の滴が耐えかねたように滴り落ちる……前回は、ただの悪趣味な演出としか思えなかった暗堂のパフォーマンスを、わたしは食いいるように眺めていた。


 ――この中に、何か暗堂をやりこめるヒントが隠されているかもしれない。


 そう思った時だった。暗堂の表情がふいに苦悶に歪んだかと思うと、画面が暗転した。


 わたしは画面に光が戻るのを固唾を呑んで待ち受けた。やがて画面上に階段の踊り場が現れた。蹲っている暗堂にカメラがズームし、顔をこちらに向けた瞬間、わたしは思わず画面に顔を近づけた。


 大映しになった暗堂の顔にはいたるところに深いしわが刻まれ、以前見た時と同様、老人のような印象をわたしに与えた。


 わたしは暗堂がこちらを向く瞬間の映像を、何度となくリピートして見返した。するとある瞬間、ふとわたしの脳裏にひらめくものがあった。それは、暗堂の顔から受ける印象の変化だった。顔の皮膚には折り畳まれたような皺が見られるものの、その目の光は若々しく、髪の放つ光もつややかだった。


 わたしは違和感の原因をつきとめるべく思考を巡らせた。ブラックアウトから暗堂の「変貌」までは数分足らずだ。メイクにしてはあまりにも早すぎる。そこまで考えた時、記憶の中のある場面が一瞬、蘇った。暗堂の変化と記憶との間にある共通点があったからだ。


 だが――とわたしは思った。この閃きはまだ、突飛すぎて説得力のある形を成していない。わたしは考えるのを一時中断することにした。


 わたしは「灰色の肖像」の再生を終えると、少し後に撮られたという文乃のPVを再生することにした。

 シャッターの降りた商店街でギターを抱え俯いて歌う姿は、以前、見た時と印象は変わらなかったが、よく見ると前髪の間に見え隠れする目が何かに挑むように鋭い光を放っているのだった。


 同じように淡々とアルペジオを奏でる指先の動きも、何かに戦いを挑んでいるかのような力強さと美しさがあり、わたしはいつしかその動きから目を離せなくなっていた。


 ――あの人の身体はここにある でも「鉛の心臓」はここにはない


 ――この世で最も自由で純粋な宝物 求めてもこの手には入らない


 歌詞を聞いているうちに、わたしは文乃の心情が朧げに理解できたように思った。


おそらく結婚はしていても、暗堂の心は文乃の元にはなかったのだろう。自由を求める野蛮で美しい魂――それを自分の元に置いて置きたくて一緒に暮らし始めたのに、身体はそばにあっても暗堂の「鉛の心臓」はどこかに逃げてしまい、手に入ることはなかったのに違いない。


 わたしは映像を再生し終えると、「オスカー」の電源を落とした。


 ――事件の謎を解く鍵は、暗堂と文乃の関係の中にある。わたしはそう確信していた。


                 ※


「ノーバディ・ハウス」は、廃校になった古い小学校の校舎をリフォームして再利用した施設だった。


 待ち合わせて合流した鋭二と連れ立って玄関をくぐると、建物に染みついた埃の匂いがぷんと鼻先に漂った。


 わたしと鋭二は暗堂が利用しているという二階の部屋を目指した。廊下をつきあたりまで進むと、鋭二があらかじめ入手したという番号の部屋にたどり着いた。


 わたしと鋭二はドア越しに、中の気配をうかがった。ドアの前で息を殺し耳を澄ませてみたものの、物音らしきものは一切、聞こえずじまいだった。

 わたしたちは無言で顔を見合わせると引き戸に手をかけ、思い切ってドアを開けた。


 わたしたちの目の前に現れたのは、拍子抜けするほどがらんとした眺めだった。


 だだっ広いリノリウムの床の上には石膏像や額絵、木管楽器など雑多な物品が脈絡なく転がり、どんな活動をしていたのかを窺い知るのは困難だった。


「いませんね」とわたしが言うと鋭二は「そのようですね」と、落胆を含んだ返答を寄越した。


「どうします?他の部屋も探してみます?」


「……いや、この部屋にもしかしたら暗堂の秘密に繋がる何かがあるかもしれない。職業病かもしれないが、僕はもう少し調べてみようと思う」


「じゃあわたしは一応、他の部屋を見てみますね」


 鋭二にそう言い置くと、わたしは奥の部屋を離れてあたりを調べ始めた。職員室を思わせる広い部屋の手前でふと、耳が何かを捉えた気がしてわたしは立ち止まった。


 あらためて耳を澄ますと、音は右手の小さい部屋から聞こえてくるようだった。わたしは意を決すると「放送室」と書かれたドアをそっと手前に引いた。


 足を踏み入れるなり、わたしは部屋が奇妙な形をしていることに気づいた。左手の壁が奥まっていくに従い、右側に迫ってくるような形になっていた。つまり部屋全体が歪んだ台形のような形状になっているのだ。


 わたしは戸惑いつつ、奥へと進んでいった。左の壁は一部が大きな窓になっており、隣の部屋がうかがえる仕様になっていた。つまり大きな部屋を斜めに仕切っているのだった。


 窓の下には色とりどりのつまみがたくさん並んだ機械があり、いかにも放送室という印象を与えた。そして窓から隣の部屋を何気なく覗き込んだ瞬間、わたしの足はその場にピンで止められたように動かなくなった。


 ガラス窓の向こう側に、見覚えのある人物が立ってこちらを見ていたのだった。


 ――暗堂。


 わたしが思わずつぶやくと、人物――暗堂は、ゆっくりと手の平を上に向け、指先で私に「来い」という仕草をした。わたしは何かに誘われるようにふらふらと移動すると、間仕切りのドアを引いた。


 四畳半ほどの空間で私を待っていたのは、前回とはまるで印象のことなる暗堂だった。白いシャツにスラックスという出で立ちに身を包んだ暗堂は仮面も付けず、整った顔を私にまっすぐこちらに向けていた。


 暗堂が再び手招きをすると、わたしはその指の美しさに魅入られたように暗堂の前へと進み出ていた。


「よくここがわかりましたね、松井さん」


「どうしてわたしの名前を?」


「名前くらい、とっくの昔にわかっています。それより、ここまで追ってきたということは僕を疑っているんでしょう?埴生香君と、文乃を殺したのは僕に違いないと」


「そうじゃないんですか」


「それは単に鋭二君がそう言っているにすぎない。以前にも言ったと思いますが、僕には文乃たちを殺す理由がない。香君が撮ったビデオを見ればわかるはずです。あそこには僕の自由への渇望と、文乃や他の人たちへの「愛」が記録されているはずです」

「愛……」


「僕の身体はある種の「病」に冒されています。だから僕の中の「時」が止まる前に、すべての衝動を実現させなければいけないのです」


「いったいどんな衝動です?」


「今のあなたにはおそらく理解できないでしょう。心を開いて僕のすべてを受け入れなければ真実に辿りつくことはできない」


「真実……」


 暗堂の言葉にはどこか、脳髄を痺れさせるような響きがあった。わたしはまずい、と本能的に思った。これは南美から受けたあの催眠術のようなささやきにそっくりだ。


「たしかに鋭二君の言う事は一応、筋が通っている。……だからといって全面的に信じていいわけではない。あなたが信じていいのは僕だけです。……いいですね?」


 驚いたことに、わたしは暗堂の言葉に素直に頷いていた。


「わかったらもう一度、僕の「息子」に会ってください。そうすればおのずとすべての「謎」は解けるはずです」


「……はい」


 わたしがまるでロボットのように感情のない言葉を返した、その時だった。


「松井さん……松井さん!……どこです?」


 鋭二の呼ぶ声が壁越しに聞こえ、わたしはなぜか許しを請うように暗堂を見た。暗堂は目尻を下げ、口角をゆっくりと持ち上げると「行きなさい」とわたしに告げた。


 わたしはくるりと踵を返すと隣の部屋へ、そして廊下に出る扉の前へと移動した。


「松井さん……松井さん!」


 再びわたしを呼ぶ声が聞こえ、わたしはドアの取っ手に指をかけると、向こう側に向かって押し開いた。


「……松井さん、そんなところにいたんですか」


「ごめんなさい。声がすぐには聞こえなくて」


 わたしは悪戯を見咎められた子供のように、身をすくめて詫びた。


「どうやら暗堂は来ていないらしい。僕の見込み違いだったようだ」


 鋭二はそう悔し気に呟くと、自分の拳を手の平でぴしゃりと叩いた。


「そちらはどうです?何か奴の痕跡と言えるようなものに出会えましたか?」


 わたしは思わず「いいえ、何も」と首を横に振った。


「……仕方ない、出直すとするか。……それにしても松井さん、あの部屋から出てくるのに随分と時間がかかりましたね」


 鋭二の取り調べを思わせる問いかけに、わたしは思わず「ちょっと変わったつくりの部屋だったもので、廊下に出るのに時間がかかってしまって……」と言い訳を並べた。


「そうでしたか。……お互い、空振りだったようですね」


 鋭二は項垂れ、玄関の方に引き返し始めた。建物を出て鋭二と別れた後、わたしは目に見えない衝動に突き動かされるように、マンションとは別の方角に向かって歩き始めた。


 その先に一連の出来事の「真相」が待っている事に、気づいたとでもいうかのように。


             〈第二十二回に続く〉

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