第20話 霧の中の巡礼


 クリニックを離れてからも、わたしの足取りは相変わらず覚束なかった。

 浮かれ顔で週末の街をゆく人々の中で、自分だけがずれているような違和感に、わたしは知らず駆け足になっていた。


 いつもは何とも思わないネオンの光や、パチンコ店から流れるCMの音楽が耳に、目に突き刺さり、まるで内面を蝕まれてゆくように思われた。


 気が付くとわたしは避難場所を求めるように近くのカフェのドアを潜っていた。だがそこでわたしを待っていたのは、さらなる強烈な拒絶だった。


 セルフカウンターの列に並ぶと、前に立っている男性の背が強烈な悪意を放っているかのように思え、わたしは思わず顔を背けた。


 ――ここにはわたしが逃げ込む場所がない!


 わたしがひるむ気持ちを抑えられずにいると、ふいに背後でドアの開く音がした。入ってきた女性が誰かの名前らしき物を呼ぶと、わたしの前にいた男性が肩越しに振り返った。


 ――やあ、待ってたよ。……あ、ここに「異物」がいるから気をつけて。


 ――あらいやだわ。いったいどこから入りこんだのかしら。


 ――なるべく見ないように、近づかないようにした方がいいぞ。


 ――何とか追い払えないかしら。なんだか気分が悪くなってきたわ。


 わたしは耐えきれず、身体の向きを変えると、そのままドアがら外に飛び出した。


 往来に出ると、歩道を行きかう人たちが、わたしを見て代わる代わる嫌悪の表情を浮かべるのがわかった。


 ――いやっ、もう放っておいて!

 

 気が付くと、わたしは交通量の多い車道に飛びだしていた。けたたましいクラクションの音があたりに響き渡り、わたしは足を止めて目を瞑った。


 同時に誰かがわたしの腕をつかみ、乱暴に歩道側に引いた。よろけたわたしの傍らを、急ブレーキの音と共に何かが掠めていった。腕をつかむ力がゆるんだ瞬間、わたしは目を開けて横にいる人物の顔を見た。


「……鋭二さん」


 事故に遭いかけたわたしを助けたのは、驚いたことに埴生鋭二だった。


「どういうつもりなんだ、車道に飛びだしたりして。死ぬつもりか」


 わたしは「わからない……自分でも」と頭を振りながら言った。


「仕方ないな……ここは人目が多い。気分が落ち付くまで、どこかに避難しましょう」


 鋭二がやれやれというように肩を竦めて言い、気力を失ったわたしは黙って頷いた。


                 ※


 連れていかれたのは、雑居ビルの地下にあるもつ鍋屋だった。


 運ばれてきた鍋を前に、湯気の向こうの目がわたしを射抜くように見つめていた。


「何があったんです?」


「別に……」


 わたしが押し黙ると、鋭二は渋面をこしらえた。


「何もないってことはないでしょう。こう見えても人を疑うことで飯を食っている人間です。目の前の人間が本当のことを言ってないことぐらい、わかります」


 わたしは観念すると、自分の身に起こった異様な出来事を包み隠さず打ち明けた。


「新井戸さんが……それで、あなたは彼女の言うことを信じたんですか?」


「よくわからないわ。そういわれればそうかなと思った程度よ」


「……いいですか、松井さん。彼女の言っていることは、すべてでたらめです。逸見さんはともかく、僕が来栖さんや美生君を狙っているなんてことは、神に誓ってありえません。僕の目的はあくまでも暗堂の口から香を殺したかどうかを聞き出すこと。それだけです」


 鋭二はこれまでになく強い口調で断じると、鼻から太い息を吐き出した。


「……言われてみればそうですね。どうかしてました」


「もう彼女には、近づかない方がいい。暗堂のことを「同志」と呼ぶような人です。どんなことを企んでいるかわかったもんじゃありません」


 わたしは素直に頷いた。確かに、あのクリニックで奇妙な誘惑に駆られた時から、すべてがおかしくなっていったのだ。


「こうなったからというわけじゃありませんが、あなたには言っておきます。暗堂は今、無名のアーティスト達が拠点にしている「ノーバディ・ハウス」という建物を根城にしているようです。僕は数日中に訪ねてみるつもりでいましたが……行ってみますか?」


 わたしは一も二もなく、頷いた。決着をつけるなら早い方がいい。まだ暗堂を追い詰めるには材料が乏しいが、これ以上、悠長に構えていては敵につけ入る隙を与えるだけだ。


「行きます。居場所がわかっているのなら、急ぐに越したことはありません」


「わかった。じゃあ後で日時と場所を連絡しましょう。くれぐれも身辺には気をつけて

「そうするわ。あなたも気をつけて」


 余裕を見せようとこしらえたわたしの笑みは、どこかぎこちないものになった。


 ――怪しい人は、いくらでもいるのよ。見方を変えたら別な絵が見えてくるんじゃない?


 本当に「敵」は暗堂なのだろうか。南美の声がふいに脳裏に蘇り、鋭二と別れた後も、わたしの頭を支配し続けた。


              〈第二十回に続く〉

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