第19話 接吻か、さもなくば死を
美生の容体は幸いなことに、病院到着後ほどなく安定を取り戻した。
それから二日後、わたしは奇妙な興奮と共に新井戸南美の勤務するクリニックに足を運んだ。
人気がなくなった待合ロビーでぼんやりしていると、診察を終えたらしい最後の外来患者が姿を現した。やがて支払いを済ませた患者が消え、受付カウンターの職員以外、人気は完全に消え失せていた。
わたしが居座っているのを見咎められはしないかとそわそわしていると、ふいに廊下の奥から南美が姿を現した。
「お待たせ、松井さん。……どうぞこちらにいらして」
南美はそう言うと、廊下の突き当りにある「カウンセリング室」と書かれた扉の向こうにわたしを誘った。
今までの装いとは異なる白衣の南美と向き合って座ると、南美は「診察じゃないんだから、どうぞ楽になさって、松井さん」と落ち着いた声音で言った。
「美生君の容体はどう?沙羅さん」
「おかげさまで、病院についてすぐ症状が収まったようです」
「そう。それを聞いて安心したわ。……ちょっと待ってて」
そう言うと南美はドアの方に移動し、取っ手の上についているつまみを回転させた。
「よし、これで邪魔されることはないわ。話の最中に入ってこられると困るでしょ?」
南美はそう言って悪戯っぽく笑うと、再びわたしと向き合った。
「……で?わたしに聞きたいことがあるのよね?」
「はい。南美さんはたしか、暗堂さんとお友達なんですよね?暗堂さんって、あなたから見てどんな方です?」
「そうね……プライベートでは美意識のよく似た、趣味仲間ってとこかしら。同志と言ってもいいかもね」
「同志?」
「そう。普通の人……例えば逸見さんのような人からすれば、足を踏み入れ難いって思うような変わった遊びが、二人とも好きなのよ」
わたしはふと、暗堂と会った「VIPルーム」の様子を思い返した。あのような「遊び」を、目の前の綺麗な女性が好むということが、俄かには信じがたかった。
「昔の話だけど、若い女の子を十人くらい集めて、お酒を入れたグラスを百個くらい並べた部屋でパーティをしたの。グラスの一つには毒が、別の一つにはその解毒剤が入っていて、ゲームで負けた人はグラスを選んで呷るの」
「……それって事故が起きたりしないんですか?」
わたしが尋ねると、南美はふふっと意味ありげに笑った。
「もう忘れちゃったわ。かなり昔の話だし」
「つまり、変わり者同志でつるんでいたということですね」
「そうなるかしらね。……ねえ松井さん……沙羅さんて呼んでもいいかしら……沙羅さんはなぜ、暗堂のことを調べてるの?」
「それは……」
わたしは一瞬、返答に窮した。いつもならすらすらと出てくるはずのでまかせが、なぜか喉の奥に引っかかって出てこなかった。
「わたしは……「王」の……」
口を突いて出たのは用意した言葉ではなく、「裏」の事情に関する単語だった。
「王?……王って?」
南美は調子の狂い始めたわたしの様子を、面白がっているようにも見えた。
「わたしの依頼者……詳しいことは知らない……」
気がつくとわたしは「王」や「災厄の王子」のことをかいつまんだ形で打ち明けていた。
「ふうん……なんだか不思議なお話ね。それであなたは、暗堂が美生君と来栖さんを狙っていると考えているのね」
わたしは「それは……まだわかりません」と頭を振った。それにしても普段なら「極秘」にするはずの内部事情をなぜわたしはこんなにもあっさりと打ち明けてしまったのだろう。
「たしかにあなたが暗堂のことを疑うのはよくわかるわ。正体不明で悪趣味、自分のやりたいことを妨げられるのを嫌う……でもね、よく考えてみて。暗堂に人を殺す動機があるなら、同じくらい怪しい人はいくらでもいるのよ」
「……どういう意味です?」
「見方を変えたら、別の絵が見えてくるってこともあるんじゃない?……たとえばほら、逸見さんはどう?」
「逸見さんが?……どうしてです?」
「彼は暗堂の感性に、心底ほれ込んでいるわ。だから何とかしてもう一度「ポートレイツ」に戻ってほしいと思っている。彼にしてみれば、彼の心を奪った文乃さんも、彼のドキュメンタリーを撮って生の姿をさらそうとした香さんも同じように邪魔な存在だったわけ」
「だから二人を殺したって言うんですか」
「あくまでも可能性の話だけどね。……で、文乃さんが亡くなった後は、美生君と顔なじみになって自分の方に引きよせようとした。いずれ来栖さんを自殺に見せかけて始末すれば、暗堂と美生君、自分を中心とした家族のような「ポートレイツ」ができるってね」
「そんな……」
飛躍しすぎだと言おうとしたが、なぜか言葉が喉の奥で絡まり出てこなかった。
「それだけじゃないわ。鋭二さんだって……香さんを殺したのが暗堂だと思いこむあまり、暗堂と彼に関わる全ての人を殺したいと思っているかもしれない」
「でも、それだと……」
わたしを殺そうとした理由が不明だ。そう言いかけてはっとした。誰が犯人にせよ、事実を白日の下にさらそうとする人間は邪魔者だ。恨みのあるなしは関係がない――
「わかった?確かに暗堂君は容疑が一番濃い人間かもしれない。でも、これまでにあなたが関わってきた人たちは皆、多かれ少なかれ、危険な人物かもしれないのよ?」
「……だったら、あなたはどうなんです?」
わたしは思わず目の前の南美に対し、挑むようなまなざしを向けていた。
「私?……どっちだと思う?……さあ、あなたの聡明な目でよく見て。私という人間を」
南美はそう言うと、椅子を動かしてわたしの方に近づいてきた。ふと落とした視線の先に美しく白い脚があり、わたしは不意に胸が苦しくなるのを覚えた。そして気が付くとわたしは南美の肌理の細かい脚に口づけをしていた。
「素敵よ、沙羅さん。そうやって自分の肌で確かめるの。誰が味方で、誰が敵なのかを」
わたしは熱に浮かされたように、南美の二の腕や首筋に唇を押し当てていた。
いったい、わたしは何をしているのだろう。頭の片隅でそんな疑問が瞬いたが、痺れるような心地よさがわたしから冷静さを奪っていた。
「そうよ、その調子。自分を委ねられる相手以外は、何も信じてはいけない――」
気が付くとすぐ近くに南美の顔があり、艶めいた唇が触れそうなほどの距離にまで迫っていた。南美の声が頭の芯につき刺さり、僅かな理性が蕩かされかけた、その時だった。
――これはいったい、なんなの?
はっと気づいて目を瞠ると、南美は会話を始めた時と同じように、一定の距離を保ってわたしと向き合っていた。
――今のは……夢?
「どうしたの、沙羅さん。お化けでも見たような顔をして。私の説があまりに突飛すぎて、疑わしくなった?……混乱させてごめんなさい。私はただ、色々な可能性が考えられるって言いたかっただけなの」
思いもよらない展開にうろたえつつ、わたしは必死で理性を取り戻そうとした。
「あんまり難しいことを一度に考えると、神経がすり減ってしまうわ。続きはまたの機会にしましょう」
南美の言葉にかろうじて頷きながら、私は自分自身に夢じゃない、と言い聞かせた。話の最中に「何か」が起きたのだ。
「あの……お忙しいところ、ありがとうございました」
わたしが椅子を立って一礼すると、南美が「とんでもない」と笑みをこしらえて言った。
「こちらこそ、こんなところでごめんなさい。今度はもう少しましな場所を用意するわ」
まだどこかもやもやした何かを頭に残したまま、わたしはカウンセリング室を後にした。
――今までに会った人の中で、いったい誰が本当のことを言っているのだろう?
クリニックを出て帰宅ラッシュの雑踏に飲みこまれながら、わたしは自問自答を続けた。
〈第二十話に続く〉
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