第18話 その子に試練を与えたもう
「あ、新井戸さんもご一緒だったんですか」
「うん。新井戸君にはいつも助けてもらっているから、たまには食事でも奢らせてもらおうとおもってね」
江口がそう言うと、南美はわたしたちにぺこりと頭を下げた。
「来栖さんと松井さん、お知り合いだったんですね」
南美がそう言うと、今度は来栖が目を丸くした。
「松井さん……新井戸先生とお知り合いなんですか」
わたしは適当な答えを見つけられないまま「ええ、まあ」と言葉を濁した。
「松井さん、こちらは私の勤務しているクリニックの院長、江口先生です」
南美に紹介され、わたしは「はじめまして」とかしこまって一礼した。
「どうも、精神科のクリニックを営んでいる江口と言います。……まさかこんなところで皆さんにお会いできるとは思いませんでした」
江口は四角張った顔に柔和な笑みを湛えて言った。
「先生、今日は美生のリクエストで映画を見に来たのですが……こうして無理を言って女性の方たちまで誘おうとするところを見ると、やはり男親ではいろいろと物足りないのでしょうか」
来栖が自身なさ気に尋ねると、江口は即座に頭を振った。
「確かに女親の存在は大きいですが、大事なことは今日のようにみなさんで「今」を楽しむことですよ。子供が大人が思う以上に親の感情の動きに敏感です。お父さんが朗らかでいれば母親のいない寂しさもある程度紛れると思いますよ」
「そういうものでしょうか……」
来栖が不安げに美生の方を見やった、その時だった。突然、美生がフォークを取り落とし「うーっ」と絞り出すような呻き声を上げ始めた。
「どうしたの?美生君」
瑠美が立ちあがると、顔をしかめて首筋を掻きむしっている美生に語りかけた。
「痒い……顔が……熱い」
身をよじりながら訴える美生の顔と首筋に、赤い発疹が次々と現れ始めた。
「アレルギー?……美生君、今何か食べた?」
瑠美がテーブルに突っ伏した美生の背をさすりながら、訊ねた。しばらくすると今度は美生の口からぜいぜいと苦し気な息が漏れ始めた。
「まずいな。アナフィラキシーかもしれない」
江口がわたし達のテーブルに来ると、美生の顔を覗きこんだ。
「アナフィラキシー?」
「アレルギーの劇症ですよ。場合によっては呼吸停止に至ることもあります。……一旦食事を中止して、どこか近くの病院に運んだ方がいいかもしれない」
「先生、ここから目と鼻の先に小児科の病院があるみたいです」
携帯を手にした南美が、江口にそう告げた。わたし達のテーブルの周囲では、ウエイターや他の客たちが不安げな表情を浮かべ、わたしたちの様子を遠巻きに伺っていた。やがて美生の呼吸音が、ひゅーひゅーと笛を鳴らすような高い音に変化した。
「気管支閉塞を起こしてるな。……来栖さん、車で来ているのなら、すぐ病院に連れていった方がいい」
江口にうながされ、来栖は美生に「美生、歩けるか?」と尋ねた。
「来栖さん、美生君は私が車までおぶって行きます」
そう申し出たのは、瑠美だった。来栖は頷くとわたしの方を向き「すみません松井さん、今日のところはいったんお開きにして、映画はまた次の機会にあらためてお願いします」
「わかりました。わたしのことはどうぞお気にならないで下さい」
わたしがそう言うと、来栖は頭を下げ、美生をしゃがんでいる瑠美の背中へと誘導した。
来栖と美生をおぶった瑠美の姿が店外に消えると、わたしはテーブルの上の美生の皿を見た。わたしと美生は同じものを頼んだはずだが、美生の皿にはわたしの皿にはないものが乗っていた。
残ったパスタのソースの中に見えているのは、齧りかけの海老の身らしかった。
「どうして海老が……」
わたしは入り口近くにあるショーケースの前に移動すると、サンプルのパスタを見た。
――海老なんて、入ってないわ。
わたしはその場に立ち尽くした。いったいなぜ、美生のパスタにだけ海老が紛れ込んだのだろう。わたしが訝っていると、いつの間にか傍に南美が近寄ってきていた。
「どうかなさったの?」
「海老が……」
「海老?」
わたしが美生の皿に食べかけの海老があったことを告げると、南美は「誰かがいれたのかしら」と表情を曇らせた。
「まさかこんなところにまで、美生君を狙っている人間が入りこんでるなんて」
わたしが呟くと、南美が「美生君が狙われてる?……どういうことです?」と問いかけてきた。わたしは説明する代わりに、思い切ってずっと気になっていたことを口にした。
「新井戸さん、暗堂さんとのつき合いは長いんですか?」
唐突に暗堂の名を出され、南美は虚を突かれたように目を瞬いた。
「……そうね、長いとは言えないけど、彼のことならよく知っているわ」
「もしご迷惑じゃなかったら、暗堂さんのことを教えてもらえませんか」
「ええ、構わないわよ。……美生君の症状が落ちついたら、どこかで会って話しましょう」
南美はそう言うと携帯を取りだし、素早く指を動かし始めた。
「明後日の五時はどうかしら。ちょうど予約の患者さんも捌けて暇になる時間だし」
「患者さんって……クリニックでお話を伺うってことですか」
「嫌?うちなら平気よ。診察扱いにはしないから、安心して」
そう言うと南美は、口の両端を持ち上げて見せた。南美はクリニックの場所を書いた名刺をわたしに手渡すと「じゃあ、待ってるわ。もしわかったら美生君の容体も教えてね」と言ってその場を離れた。わたしははっとして、財布を取りだすとレジに急いだ。
――ゲストだから言って知らん顔をしているわけにはいかない。邪魔かもしれないが、美生君の様子を見に行かなければ。
わたしはそう自分に言い聞かせると、江口達に挨拶をして地下鉄の連絡通路へ急いだ。
〈第十九回に続く〉
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