第16話 偶然を呼ぶ女
わたしは事件の全貌を、わたしなりにもう一度洗い直すことにした。
「オスカー」の唇型のポートに体温計を模したメモリーを挿すと、わたしはこれまでに会った人物に関する記録を吟味し始めた。
来栖父子が何者かに狙われている?
これは単なる嫌がらせである場合と、何か他に最終目的がある場合とにわかれるだろう。
美生が標的なのか、そうと見せかけて実は来栖の方が標的なのか。いずれにせよ、父子と関係のある人物の仕業に違いない。
……とすればまず思い浮かぶのは暗堂だ。なにしろ美生の実の父親だ。実の父親が息子と継父を狙う……何か特殊な感情でもない限り考えづらいが、なにしろ暗堂は普通の感覚の持ち主ではない。わたしの想像を超える異常な動機がないとも限らない。
さらに美生の母、文乃の死の状況は、諏訪の話を聞く限り殺人の可能性が高い。だとすれはこれらの事件は一続きと考えて良いのではないか。そしてこの場合もまた、もっとも疑わしいのは文乃の夫だった暗堂なのだった。
わたしは思考を、文乃が暗堂と結婚したころに馳せてみた。当時、暗堂のことをよく思っていなかった人物がいたとする。……埴生香だ。彼女の死がもし、暗堂にとって不都合な「何か」を知ってしまったことによるものだとすれば、これらの一連の出来事の犯人はすべて暗堂ということになる。
他に来栖父子や文乃とかかわりのある人物と言えば逸見くらいしかいない。だが、いまのところ逸見の周辺に怪しげな情報はない。せめて誰かもう一人「ポートレイツ」の周辺に詳しい人物がいなければ、事件全体の絵を浮かび上がらせる事はできそうになかった。
そんなことを考えていると、不意に机の上の携帯電話が鳴った。
胸騒ぎを覚えつつ電話口に出ると、相手は鋭二だった。
「もしもし、突然、驚かせてすまない。実は一昨日、逸見が事故に遭ったらしい。以前、香の話を聞かせてもらった恩もあるし、僕は病院に行こうと思うが、君も来るか?」
「ええ、もちろん」
わたしは即答した。逸見がいったい、どんな事故に遭ったというのだろう。わたしは鋭二との通話を終えるとそそくさと身支度をし、マンションを出た。
※
逸見が運ばれたのは、この界隈では知られたKという総合病院だった。
わたしが鋭二に聞いた病室を訪ねると、出迎えたのは見舞いに来た鋭二と、包帯だらけの痛々しい顔をした逸見だった。
「やあ、松井さん。これはお見苦しいところを」
逸見は腫れた唇を曲げ、わたしに向けて笑みをこしらえた。
「あの、事故に遭われたそうですが……ご無事だったんですね」
「無事と言っていいかわかりませんが、一命はとりとめました。まさか自分が借りているスタジオの看板が頭の上に落ちてくるとは思いませんでした」
「看板が?」
わたしの背筋を戦慄が駆け抜けた。またしても「偶然」の事故だ。逸見は何も感じていないのだろうか。
「あと数センチ、僕が前に進んでいたらこうして皆さんとお話することもできなかったでしょう。そういう意味では間一髪、ラッキーでした」
恐ろしい可能性から目を背けているのか、 逸見はことさら屈託のない口調で言った。
「本当に、ラッキーだったのかしら」
ふいに背後で声がして、わたしは思わず振り返った。入り口の所に立っていたのは、眼鏡をかけた長身の女性だった。
「
逸見が名前らしきものを呼ぶと、女性はすっとわたしの横をすり抜けて逸見の傍らへと移動した。
「だから忠告したでしょ。身の周りに気をつけなさいって。下手をすればあなたも香さんや文乃さんと同じ運命をたどっていたかもしれないのよ」
新井戸と呼ばれた女性はそう言うと、口の両端をきゅっと吊り上げた。わたしは背中に流れる黒髪と、スカートの裾からのぞく綺麗な脚に思わず目を奪われた。何者かはわからないが、この人もまた、暗堂と同様に人目を惹きつける不思議な力を持っているようだ。
「そんな……考えすぎじゃないですか?僕は誰からも恨みなんか買ってませんよ」
「どうかしらね。……でも良かったわ。思ったより元気そうで。退院したらまた、クリニックにいらっしゃい。どうせこの近所だし、ちょうどいいわ」
そういうと、新居戸という女性はさっと身を翻して病室の外へと立ち去った。
「逸見さん、今の方は?」
「
「どんなお知り合いなの?」
「元々は暗堂の友人で、暗堂が睡眠障害で悩んでいた香君に紹介したようです。それがきっかけで「ポートレイツ」の舞台なんかも見に来るようになって、僕らと知りあったわけです。文乃さんも一時期、彼女のいるクリニックに通っていたようですね」
逸見はそう言うと、起こしていた体をベッドに横たえた。
「どうも色々と謎の多い女性のようだね」
それまで黙っていた鋭二が、声を低めてわたしに言った。
「あの人には、聞きこみしないんですか」
わたしが聞くと、鋭二は「だいぶ前にしたよ。でも、香の精神が不安定だったことを強調されて、うまく丸め込まれてしまった」と肩をすくめた。
「暗堂さんのお友達なら、一筋縄ではいかなそうですね」
わたしが言うと鋭二は「たしかにね」と口の端を歪めた。
わたしは病室を後にすると、いったんマンションに戻ることにした。歩き出してほどなく、携帯が鳴った。見ると珍しい事に瑠美からメールが来ていた。
――美生君が「沙羅お姉ちゃんと遊びたい」んだそうです。聞いてみると約束したので、お暇な時にでも連絡ください 瑠美
わたしはふっと笑みを漏らした。美生君か。このへんで気分転換も悪くないな。
〈第十七回に続く〉
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