第12話 汝の敵と契約せよ


「インディゴ・チューン」は、古い商社ビルの地下にあった。


 午後八時、残業を終えて退社するビジネスマンたちをかいくぐるように、わたしは地下へと降りる階段に向かった。


 地下の飲食街は数件の居酒屋とバーが辛うじて賑わっているだけで、全体に人気が少ない様子だった。わたしは通路の突き当りにある青い扉の前に立ち、掲げられているプレートに英語で「インディゴ・チューン」と記されていることを確かめた。


 扉を押し開けると中は暗く、ありきたりのバーのように思われた。わたしがカウンターに腰を据えると、額の秀でたマスターが話しかけてきた。


「ご注文は?」


「……その前にちょっと、いいかしら。実は人を探してるんだけど、暗堂さんっていう男性、こちらによくいらっしゃる?」


 私がストレートに尋ねるとマスターの顔から拭われたように表情が消え、目が値踏みするように細められた。


「……来ることは来ますけど、今日は来てませんね」


 木で鼻を括ったような返答に、わたしは警戒されたなと直感した。


「いつもは何時くらいにいらっしゃるのかしら」


「さあ……まちまちじゃないでしょうかね。お客さん、暗堂さんのお知り合い?」


 牽制するかのように声を低めるマスターに、わたしはあえて笑顔で「ええ、ちょっと」と答えた。


「ご一緒の時をお見かけしたならともかく、他のお客さんの事をみだりに話すのは控えたいのですが……」


 もっともな対応だった。わたしは謝り、ジントニックを注文した。もう少し、粘ってみるか。今のところ店内にそれらしい姿は見受けられないが、暗堂が金曜日の八時前後にこの店をよく訪れるというのは、実は確認済みだった。


 わたしはジントニックを舐めながら、背後の気配をうかがった。時折、客の出入りする音が聞こえたが、会話の中身から察するに同じビルのビジネスマンが大半のようだった。


 ――今日は無駄足だったか。


 私が二杯目を注文するかどうか迷い始めた、その時だった。


 ドアがやや乱暴に開け放たれる音がして、大股の足音がまっすぐに近づきてくる気配があった。やがてわたしのすぐ隣に背の高い男性の姿が現れると、いきなりカウンターに身を乗り出し、マスターに不躾な問いを投げかけた。


「今日、暗堂がここに来ているだろう」


 わたしははっとして男性の方を見た。鋭い眼差しの、頬がそげた横顔がすぐ隣にあった。


「何のお話です?」


「とぼけるなよ、暗堂がVIPルームに入ったことはわかっているんだ。案内してもらおうか」


「お客さん、警察の方ですか?」


「警察であってもなくても案内してもらうよ。こっちも切羽つまってるんでね」


「こんな小さな店に、個室なんてあると思いますか?」


 マスターが厳しい口調で異を唱えると、男性は無言で大きく頭を振った。


「いいのかな、そんな強気で。こっちは知ってるんだぜ。国際的にやばいペットをこちらでしこたま、飼ってるってことをさ」


 男性がそう言うと、マスターの表情がにわかにこわばった。


「なんなら、保健所に通報したってかまわないんだがね」


 わたしは男性とマスターのやり取りを、興味深く聞いた。なぜ男性はこの店にVIPルームとやらがあることを知っているのだろう。そしてそこに暗堂がいると断言できるこの人物は、暗堂と一体どんな関係にあるのだろう。


「……仕方ありませんね。そうまでおっしゃるのならご案内しましょう」


「ということは、やはり暗堂は来ているんだな」


 マスターは険しい表情で頷くと「いらっしゃってます。こちらへどうぞ」と言った。


 わたしは意を決すると、半ば強引に二人の会話に割りこんだ。


「ごめんなさい、ちょっといいかしら」


「……どちら様です?」


 男性はいきなり口を挟んできた見知らぬ女に、煩わし気な態度を露わにした。


「すみません、ついお話が耳に入ってしまって……実はわたし、暗堂さんを探してこのお店に来たんです。居場所をご存じなら、わたしもご一緒させてもらえません?」


 わたしは図々しくも男性にそう申し出た。


「あなたが?……失礼ですが、暗堂とはどう言ったご関係ですか」


 男性はわたしに対しあからさまな警戒心を見せた。無理もない、暗堂に用があるということは、この男性も少なからず「わけあり」に違いないからだ。


「暗堂さんの……亡くなられた奥さまの知り合いです」


 わたしはいつものように出まかせを口にした。


「文乃さんの?……それにしては、お見かけしたことがないな。それに、失礼ながら僕にはあなたのために便宜を図る理由がない」


 男性はやんわりとわたしの頼みを拒絶すると、そそくさと背を向けようとした。


「お願いします。文乃さんの伝言があるんです、どうしても暗堂さんに伝えて欲しいというメッセージが」


 わたしが懇願すると、いったん背を向けかけた男性が、再び体の向きを変えた。


「……どういうことです?」


「暗堂さんを映したビデオを見た文乃さんが、生前、こう言っていたんです。「気になるシーンがある。暗堂にあったら尋ねてみようと思っている」と」


「気になるシーン……」


 わたしがビデオという単語を口にした瞬間、男性の目つきが一段と険しくなった。


「わたしは彼女の代わりに暗堂さんに会って、ビデオについて聞くつもりです。そして彼女の墓前に報告するんです」


 わたしはさも、文乃という女性と親しかったかのような口調で言った。


「それはどんな内容です?話によっては僕が代わりに聞いてあげてもいい」


 わたしは大きく頭を振ると「結構です、自分で確かめます」と言った。簡単には引きさがりませんという意志表示のつもりだった。


「……仕方ないな。ビデオのことまで知っているのなら、こうしましょう。お互い手のうちを明かし合った上で、一緒に暗堂に会いに行く。……どうです?」


 わたしは頷いた。望むところだ。


「わたしは松井沙羅。先ほども申し上げたように、文乃さんの友人です」


「僕は埴生鋭二はぶえいじ。職業は警察官だが、この捜索は仕事とは無関係だ」



「埴生……というとあの、ビデオを撮ったという埴生香さんの……」


「香は僕の妹だ。僕が暗堂を追っているのは、暗堂が妹を殺した犯人かもしれないからだ」


「暗堂さんが……」


 わたしの頭の中で、今までに見聞きした出来事の断片が目まぐるしく回り始めた。


「……で、松井さん、あなたが知りたいのは、ビデオのどの部分についてです?」


「わたしが知りたいのは、ビデオの中で一瞬、映像が真っ暗になる部分についてです」


「真っ暗?」


「そうです。その真っ暗な画面の後で、暗堂さんの外見にある変化が生じているように見えたんです。つまり、真っ暗な画面の部分に何があったのか、それが知りたいんです」


「――なるほど、それなら僕の目的と重なる部分がないでもない」


「……というと?」


「香が殺された理由の一つとして、暗堂の「秘密」に触れたためだという見方がある。……つまりその「まさか」が事実かどうかを、これから確かめに行くわけだ」


「ご一緒させていただくわ。どうせ目的が一緒なら、あなたにデメリットはないでしょ」


 わたしが強く出ると、鋭二はやれやれというように肩をすくめて見せた。


「ついて来るならどうぞご自由に。ただし、あなたの身の上に何が起ころうと、僕は一切関知しない。いいね?」


「もちろん」


 わたしは強く頷くと、再び背を向けた鋭二の後に続き、席を立った。


              〈第十三話に続く〉

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