第6話 目覚めよと呼ぶ女あり
マンションの自室に戻ったわたしは、着替えるのももどかしく「オスカー」をチェックした。
「オスカー」の本体は球体で、全体が特殊シリコンで覆われている。真っ白な表面の一部に、人間の口に似たポートと、アクセスランプがあるだけの「のっぺらぼう」なPCだった。わたしは「オスカー」を立ち上げると、のっぺらぼうの口にメモリを押しこんだ。
体温計に似せたメモリのLEDが赤く点灯し、外部ディスプレイに一瞬、デバイスの検出を示すアイコンが表示された。が、次の瞬間、なぜかアイコンが画面上から消えた。
わたしは「オスカー」の本体を見た。押し込みが足りなかったのか、メモリがシリコンの弾力に負けて押し戻されていた。わたしは再びゆっくりとメモリを本体の「唇」に押しこんだ。メモリはすっと吸い込まれるようにポートに収まり、再びLEDが赤く灯った。
わたしは画面上に現れたフォルダを開くと、ひそかに記録していた来栖親子とのやりとりを本体にコピーした。メールボックスを覗くと「王」からのメールが届いていた。
わたしはメールに目を通すと、通信ソフトを立ち上げた。「王」から連絡せよとの指示があったからだ。カメラとマイクをオンにしてしばらく待つと、画面上に顔の上半分を黒いマスクで覆った男性の姿が映し出された。「王」だった。
「どうしたサロメ。かなりてこずっているようだな」
「王」のひび割れた声がスピーカーを通して聞こえてきた。サロメというのは「王」が通信の際に使用するわたしの呼称だった。
「そんなことはありません。わたしは丁寧に仕事を進めているだけです」
わたしは「王」の叱責に臆することなく、現状を告げた。
「ふむ……それならいい。どんなやり方でも構わないが「王子」にお前の存在を悟られることだけは避けるのだ。よいな」
「もちろんそれは毎回、十分に留意しています。追加情報はないのですか」
「まだだ。もう少し、お前が動かぬことには全体像がつかめぬ。とにかくキーマンの周辺を調べろ。調査の方法は一任する」
「王」の指示にわたしは素直に「わかりました」と応じた。来栖親子の印象を報告するには、まだ材料が足りない。今のところは瑠美と近づけただけで十分だとわたしは思った。
「進捗が見られたら逐一報告せよ。よいな」
「王」は簡潔に告げると、画面上から姿を消した。わたしはふうと息を吐き出すと、通信ソフトを閉じた。
わたしは続けてネットに接続すると、ブラウザ上にSNSを表示させた。瑠美が登録しているものだが、瑠美はどうやらその中でこっそり来栖と繋がっているようだった。
わたしは瑠美が閲覧し、リアクションしたトピックをあらためた。その中の一部が来栖にまつわる物であることを確信していたからだった。
その結果、来栖の人脈や興味がうかがえるコミュニティがいくつか見つかった。
ひとつは「ポートレイツ」という集団で、劇団のようなバンドのような、少人数のパフォーマンス集団だった。写真もいくつかアップされていたが、来栖が写っている物はない。つまりメンバーではないということだ。
次に気になったのは、ある女性アマチュアシンガーの動画だった。瑠美が感想を書きこんでいることから考えて、来栖がこの女性のファンであるという可能性は高そうだった。
わたしは動画から歌声の部分を抜き出すと、こっそり自分のメモリーにコピーした。
もう一つ「異端科学研究会」という奇妙な名前の集団の記事もピックアップされていたが、こちらの方は単に興味を惹かれただけなのかどうか、よくわからなかった。
わたしはブラウザを閉じると、本体からメモリーを取り外した。明日、来栖親子と動物園に赴いた際、この中のどのトピックに触れるかを検討せねばならなかった。重要なのはわたしが知りうるはずのない情報に触れぬよう、慎重を期さねばならないという事だ。
わたしはほとんど女性らしい調度の無い作業部屋を出ると、寝室へと移動した。
寝室のクロゼットを開けると、そこには「王」から支給されたわたしの「仕事着」が並んでいた。わたしは中身を眺めて思わずため息をついた。この中にわたしが着たくて着る服はない。探偵を続ける限り、わたしは常に別の「誰か」を装い続けなければならないのだ。
※
「ねえ、次は「レッサーパンダ館」見に行ってもいいかなあ」
つい今しがたよちよち歩き回るペンギンに歓声を上げていた美生が、ベンチで足を休ませているわたしたちのところへ目を輝かせてやってきた。
「いいけど、少しゆっくり歩いてくれよ。パパ、もうへとへとだよ」
泣き言を言いつつも嬉しそうな来栖を視野に収めながら、わたしはやはり動物園を選んだのは正解だっだ、と独りごちた。
遊園地だと連れ立って歩く時間が制限されるうえに、乗り物の待ち時間でストレスが溜まりかねない。その点、動物園であれば会話のきっかけも多く、親子の会話に多少、割りこんでも不自然な感じはしない。
「お姉ちゃんも、行こうよ。見たいでしょ、レッサーパンダ」
「うん、見たい。……でもそろそろお腹もすいてきちゃったな。美生君は?」
瑠美が暗に休憩をほのめかしたが、美生は即座に首を振った。
「まだすかないよ。それより午前のうちにあと三つ、見たい動物があるんだ」
瑠美は来栖と目で「仕方ないね」というやり取りをかわすと、ベンチから立ちあがった。
わたしは父親の手を引っ張って次の動物へ駆り立てる美生の姿を見ながら、どの話題なら抵抗なく話を聞かせてくれるだろうかと考え始めていた。
「レッサーパンダ館」は、天井近くに設置された二つの檻の間を、梁のように渡した丸太を伝ってレッサーパンダが行き来するつくりになっていた。檻と檻の間に金網はなく、丸太から下の観客を覗きこむレッサーパンダの愛くるしい姿に、歓声が飛び交っていた。
「可愛いなあ。うちでも飼いたいなあ」
声を弾ませている美生に来栖は「でも、獰猛な部分もあるはずだからね」と釘を刺した。
わたしはいつの間にか父子に寄り添うような位置を確保した瑠美を、少し離れた場所で微笑ましく眺めていた。
二人の大人を翻弄するように忙しなく居場所を変える美生の動きをぼんやりと追っていると、ふいに携帯が鳴った。表示を見ると「王」からの指令だった。わたしは来栖に駆け寄ると「すみません、電話が来たので入り口の所で待ってます」と告げた。
三人を館の中に残し、外に出たわたしは携帯で指令の内容をチェックした。それによると、一年ほど前に「災厄の王子」が体調を崩し入院していた事実があるとのことだった。
つまり、関係者の中に入院歴がある者がいるかどうかが新たな手掛かりとして加わったということらしい。
わたしは指令の内容をつぶさにチェックした。どうやら「ポートレイツ」についてのデータも「オスカー」に送られてきているらしい。
わたしは既読メッセージを「王」に送信すると、メールを閉じて音楽ファイルを開いた。わたしが開いたのは「AYA~鉛の心臓」という名のファイルだった。ヘッドフォンをしたままアプリを使って再生すると、生々しいギターの弦を弾く音が流れ始めた。
これは瑠美がリアクションした動画トピックから音楽だけを抜き出した物で、どうやら「AYA]というアマチュアシンガーの路上ライブを撮った物らしい。ゆったりとしたアルペジオのイントロに続いて耳に飛び込んできたのは、少しハスキーな女性の歌声だった。
――まだ気づかない 誰一人 あの人の心臓が鉛ということに
ざらついたような声で吐き出される言葉には、妙に惹きつけられるものがあった。
このアマチュアシンガーと来栖の関係は一体何なのだろう?瑠美は知っているのだろうか?そんなことを考えていると、突然、後ろから何者かがどんと背中を押した。
「あっ」
よろけた弾みに携帯が手から滑り落ち、ヘッドフォンのジャックが抜けて外に音声が漏れ出した。振り変えると、レッサーパンダのぬいぐるみを抱えた美生がばつの悪そうな表情を浮かべて立っていた。
「ごめん、お姉ちゃん。……携帯、壊れちゃった?」
「大丈夫よ、たぶん……」
そう言いながら携帯を拾いあげようとしたその時、ふいに来栖と目が合った。来栖は目に驚きの色を浮かべてわたしを見ていた。
「どうしてその曲を……」
わたしははっとした。まだ知り合って日の浅い私が、来栖のお気に入りの曲を携帯に入れて持ち歩いている……どう考えても不自然な話だった。
どうしよう、どう取り繕えば、自然な形でこの場を乗り切れるだろう……わたしが懸命に思考を巡らせていると、突然、瑠美が口を開いた。
「あ、その曲、わたしが松井さんに薦めたんです。アマチュアシンガーの歌で素敵な曲があるって。……ごめんなさい、来栖さんのお気に入りの曲だって知ってはいたんですけど、あまりにいい曲だったので、つい……」
瑠美の弁明に、それまで強張っていた来栖の表情がわずかに和らいだ。
「……そうだったんですか。いや、びっくりしました。どうして松井さんがこの曲を知っているんだろうと思って。……プロデビューしている人でもないのに」
なおも怪訝そうな顔をしている来栖を尻目に、瑠美がわたしのほうに一瞬、意味ありげな視線を寄越した。それは取りようによっては「一つ貸しができたわね」と言うようにも取れるまなざしだった。わたしは瑠美が初めて見せた「女の顔」に、図らずも胸が高鳴るのを覚えた。
面白いわ、こんな風になるなんて。どうやら退屈せずに「チョウサ」を始められそうね。
わたしは困惑顔の父親の周りでたたずむ美生と瑠美を交互に見遣ると、携帯をこれ見よがしにかざしながら「助かったわ、壊れてなくて」と朗らかな笑みをこしらええて見せた。
〈第七回に続く〉
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