嫌悪~Vergessen!

 同日・19時05分。

 空腹を刺激する匂い/食器の触れ合う音/椅子を引く音/話し声/笑い声――会議が終わり、その参加者がいっせいに夕食を食べに降りて来たため、いつもよりかなり混んでいる1階食堂。

 トレイを手にした三人の少年達、空いている席を捜し求めてうろうろ。

 4人がけのテーブルが空く。要領のいい雪風が、さっ、とトレイを置く。


「さすがだな」×2。

 追従してうろうろしていた秋月と信濃、それぞれ雪風の隣、向かい側に座る。


 本日の夕食アーベンテッセンのメニュー。極めてシンプルなキャベツとベーコン、ソーセージの煮込み。

「なんか、今日のメニュー、シンプルだな」

「食堂のおばちゃんも、デモ対策会議に出ていたからな」

「なんで?」

「食材の搬入のときに、デモ隊と搬入業者の間でモメたりとかないように……」

「マジかー。そんなとこまで影響が……」

 3人、というより主に秋月と雪風の二人が、どーでもいい話をしつつ、食べ進める。


「ところで」

 急に雪風が顔を上げ、信濃に向かって

「お前、テレーザ医師センセーと何かあった?」

「……」

 ブフ――――――ッ!と、信濃の口から盛大に、キャベツとベーコン、ソーセージの煮込みのスープが吹き上げ、雪風の顔にかかる。

「……ビンゴだな」

 雪風、紙ナプキンで顔を拭きながら、決めのひと言。秋月は、テーブルの上を拭きながら、信濃の顔を伺う。顔面蒼白+瞳孔拡張+手に震え=わかりやすい動揺。秋月=心配+イヤな予感。

「あ……」

 声を上げた秋月の視線の先=信濃の後方にテレーザ。秋月と目が合い、にこりと微笑みを返し、近づいてくる。

 雪風の唇の端がにぃっと持ち上がる。

医師センセー! あのさー、信濃が入院して……」


 ぱちィ――――――ん!


 雪風の声をさえぎる高く鋭い音――平手打ち。なかなかの本気。結構な威力。かなりの衝撃。


 し――――――ん。


 食堂全体が水を打ったように静まりかえる。

 雪風=頬を押さえて目を丸くしている。

 秋風=驚愕で凍り付いている。

 信濃=甚だしい動揺。

 その場に居合わせた全員、いつも冷静かつ論理的な行動を見せる信濃行動にびっくり――「どうしたの? 何があったの?」


 雪風の頬を張った自身の右手を下ろすことすらできず、自分の行動と、それが引き起こした周囲の注目に、精神の恐慌をきたす。


 を、みんなが知っているような気がして、そうやって冷静さを失えば失うほどに自分に何があったか知られているかのように思われて、他人の視線が自分の気力も体温も奪うかのように思われて、いたたまれない。

「ごめ……」

 言い残して、その場を走り去る信濃を、その場の全員が口をぽかんと開けて見つめているだけだった。


――1時間後。

 ライン川沿いの小さな公園/外灯の下にベンチ/ぽつねんと座る信濃。ベンチの座面に足を乗せ、長い脚を窮屈そうに縮めてひざを抱えて体育座り。いつもの大人びた容貌とは打って変わって、頼りなく見える。

「優等生が初めての挫折を経験しました」――といった風情。


 人影が近づく。探しに来た秋月。無言で隣に座る。

「寒くないか?」

「うん……」

「悪気、ないんだよ。雪風。あいつ、ふざけているだけだから」

「うん……」

「帰ろうか」

「うん……」

 言ったまま信濃は動かない。どうしたものかと、考えて会話を繋ごうとうする秋月。

「えーと。あのさ、お前、テレーザ先生と何か……」

「……」

「うん」すらなくなった上に、窮屈に丸まった身体が、さらにひと回り縮こまった気がする。

「ああ……ごめん」

 理由はわからないが、信濃にとって「テレーザ=地雷」であることを理解した秋月、とりあえず謝罪。


 一方の信濃、テレーザの裸を見てしまったことと、その際のについては、死んでも話したくない。とはいえ、自分の反応が過剰気味であり、そのために余計に他人の目に奇妙に映ることは自覚している。


 子供工場キンダーヴェルクで目にした、を普通に口にして、なんだったらエロ本やアダルトビデオを見せ合っていた雪風のような少年たち=自分が距離を置いていた普通の子たち。


 彼らと自分の違い。


 もちろん、英国で上流階級の人間として受けた「紳士たるものかくあるべし」という教育の賜物とも言えるが、それだけではない、もっと心の深遠とも言うべき、普段は見ないように、触れないように、仕舞いこんでいた――長年、目をそらしていた事実からくる思考と行動の制動機ブレーキ

 祖父の存在、そして自ら闇に飛び込んだあの日――。

 手探りで掘り起こす、闇の中に葬った記憶――。


 屋根裏の子供部屋/机の上に乗せられた自分の手のひら/振り下ろされる鞭/シャツを脱ぐように命じる祖父のしわがれ声/背中に感じる衝撃と痛み/鋭い、高い音。


 現実世界に戻り、隣に座る友人に解説。

「僕は、3歳から9歳まで祖父と一緒に暮らしていたんだ」


 ただの体罰なら耐えることができた。むしろそれがあったからこそ、今の自分の高い知性があるとも言える。けれども――。

 たるんだ瞼の下から覗く、白濁の始まった、よどんだ眼。シャツを脱いだ自分の身体に向けられた、嘗め回すような視線。


「今考えると、彼は、ある種の小児性愛者ぺドフィルだったんだと思う」

「え……」

 ちらと確認した隣に座る友人の顔=驚愕。しかし、かまわず続ける。


 振り下ろされる鞭。白く縮れた髭に覆われた口から発せられるしわがれ声。ズボンと下着を下ろすように命ずる。

 言われるままにズボンを下ろしながら、何かの気配に気づいて、ちら、と斜め後ろに立つ祖父を見る。彼の手は自身が身に着けていたベルトにかかっていた。

――次はベルトか。

 さらなる痛みを覚悟して息を止め、下着をおろす前にもう一度、祖父の方を見た。彼の手は、ベルトの下のズボンのボタンをはずしていた。

――あ。

 言い知れぬ恐怖が身体を突き動かした。ありったけの力で祖父の身体を突き飛ばし、ズボンを上げ、部屋を飛び出した。逃げた。走った。そのまま屋上まで上って――。


 回想を中断し、秋月の顔を見た。驚き/心配/憂慮/衝撃。友人に与えるショックを配慮し、つなぐ言葉を注意深く選択。


。いや、度を越した体罰はあったけど。ただ、その罰を加えながら、僕をじっと見る目が……なんていうか。説明しにくいんだけど」

「あ。うん、わかるよ」

 おそらく思い出すのもつらいであろう体験を話すことを強要してしまっている気がして、申し訳ない気持ち。あわててさえぎる。さえぎった後で、それが正しいことだったのかわからず混乱。

「あ、ごめん、さえぎって。あ、いや」

 腫れ物扱いをするのが余計に相手の神経を逆なでしている気がして、さらにパニック。唐突に始まってしまった衝撃的すぎる告白に、どう対処していいのかわからない。

「えーと。なんていうか雰囲気で、そういうの、わかるってことだよね? 相手が自分に対してそういう感情を持っている、というのが」

 人のよさがにじみ出る秋月のあわてぶり。信濃の表情が少し和らぐ。


「うん。子供のときは、何が理由で嫌な感じがするのかわからなくて、ただ混乱していたんだけど、だんだんと色んなことが理屈でわかるようになってきて……頭の整理はついても、でも、嫌な感覚だけは消えないんだ」

「そうか……」


 頭に浮かぶ、雪風の顔。あいつに言っても、理解できるか――いや、そもそも言うのもどうか――。

「あのー。あの馬鹿が、今度なんか言ったら、なるべく俺、止めるようにするから」

「ありがとう」

 切れ上がった眦がやわらかく下がった信濃の笑顔。異性愛者ヘテロの秋月の目にも美しいと感ぜられる。

「イケメンもそれなりに大変だなー」とぼんやり思いながら、ふと、浮かぶ疑問。


――親は?

 口に出しかけて、飲み込む。聞く前から答えが出ていた。

「守って欲しかったのだろう。そして、それは叶わなかったのだろう」と。


 胸をよぎるトミヅカボートスクールでの日々。守ってくれるはずの両親はおらず、ただ、暴力と不安と混乱に満ちた毎日。来る日も来る日も、待ち望んだ助け。期待を裏切られ続けた日々。


 相変わらず、長い脚を抱えてひざに顎を乗せている姿勢の信濃の横顔からぽつりとこぼれる言葉。

「星、きれいだね」

 眼を上げると、晩秋の澄んだ夜空に星がきれいに瞬いていた。その星をじっと見つめる友の横顔がだんだんとにじんで見える。


 ああ、きっとこいつも、俺と同じ思いをしてきた。怒りとも悲しみともつかぬ、とげとげしい心持ちを抱えたまま、それを今まで口に出さず、いや口にすることもできないままに生きてきたのだろう――と推測。

 自分も星を見上げながら。


「大丈夫だよ、俺達は。もう」

「うん……」


 昼間、窓外に見た両親の悲しげな顔を思い返しながら、秋月は思う。

「嫌悪の裏にあるのは悲しみだ」と――。

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