事故~Verhindern!
3. 1415926535 8979323846 2643383279 5028841971 6939937510 5820974944 5923078164 ――円周率。
2015年に7万30桁を暗唱したインド人、スレシュ・クマール・シャルマの記録には遠く及ばないが、集中し、記憶を振り絞って数字を搾り出す。
――だめだ。次。
水素(H)、ヘリウム(He)、リチウム(Li)、ベリリウム(Be)、ホウ素(B)、炭素(C)、窒素(N)、酸素(O)、フッ素(N)……
――あ――――――っ! だめだ。
信濃の頭の中で、忙しく数字や記号が動き回る。
しかし、それは決して彼の頭脳の明晰さを誇示するためでも、なんらかの試験のためでも、ましてやそれ以外の実利的な目的のためでもなかった。いや、ある意味において実理性を狙った行為ではあったが。
――20分前。
LPB本部ビル地下/集中治療室でも通常の入院用の部屋とも違うテレーザの城=
手足の違和感を調整するために、腕及び脚部を取り外し、ベッドの上に寝ている信濃。身体の上には白い毛布がかけられているが、その下は無防備な格好である。
しかし、テレーザの配慮により室内の暖房はしっかり効いており、飾り気のない殺風景な室内で、手足ともはずされて何もできない状態=眠気。信濃の瞼は、閉じかけている。
その間、テレーザは、取り外した手・脚の単体テスト。コンマ数秒の
機械部は本質的にはテレーザの守備範囲外。しかし、機械部のプロはオーストリアから連れてきていないため、とりあえずのマニュアル通りの処置をテレーザが行う。
人口皮膚、人口筋繊維部分をいったん剥離。金属でできた接合部に不純物等がついていないか確認。念のため洗浄。
金属洗浄用の薬品=硫酸。棚の上のほうにある瓶にテレーザが手を伸ばしたとき――瓶が倒れ、中身がテレーザの身体にかかる。
「!」
声にもならない悲鳴。驚愕/衝撃/驚倒/仰天。ぼんやりしていた自分のうかつさに。皮膚に刺激。薬品による火傷=緊急事態。
大慌てで服を剥ぎ取り、シンクに向かい、硫酸がかかった箇所にとにかく水をぶっかける。多量の流水で洗い流す=劇薬によるやけどの重症化を防ぐマニュアル通りの対応。
ガタガタ・バシャバシャと大騒ぎをしているテレーザから、2メールあまりの距離にる信濃が、まどろみから引き剥がされて音源のほうを見ると――その黒瞳を射抜いたのはテレーザのあられもない姿。
滑らかな白い肌/豊かな胸のふくらみ/その先端の淡いピンク色の突起/ヴァイオリンのようなウエストのカーブ――それらに水がかけられ、あわただしく動き、なんかもう、すんごいやらしい感じ。
これらが、信濃の瞼に激烈な残像となり、脳のある部分を直撃する。
――どかん!
信濃の頭の中で何かが爆ぜた。
頭に血が上る/心拍=急上昇/頬が熱を帯びる/口の中がカラッカラに乾く/血流量=増大。その後、その血流は下半身の一点に集中。足の付け根に常ならぬ感覚。身体にかけられている毛布の一部分だけが、盛り上がってくる。
信濃=自分自身の身体の変化に驚愕/衝撃/驚倒/仰天――のち、羞恥。
通常であれば、何らかの甘やかな感情、あるいは切なさ、または自尊心といった感情とともに起きるその生理現象が、今はただただ不意打ち的に見せ付けられた異性の裸体によって条件反射的に起きてしまい、ひたすらその持ち主に焦燥感と羞恥心をもたらしている。
あわててその部分を隠そうとして――ない! 腕がない!
隠すための手/腕=メンテナンス中につき取り外されている。
すみやかに人目のないところへ移動しようとして――ない! 脚もない!
逃走用の足/脚=メンテナンス中につき取り外されている。
――絶体絶命。さらに――
ビープ音。機械=無慈悲。信濃の心拍の急上昇を受け、テレーザに信濃の身体に異変が起きたことを伝えてしまう。
テレーザ、その音にあわてて振り向きかけて――改めて自分の格好に気づく。
こちらでも、驚愕/衝撃/驚倒/仰天。
信濃から見えないように物かげに身を隠し、声だけで安否確認。
「……ちょっと、今、事故があってそっちに行けないんだけど、大丈夫かしら?」
「……大丈夫です」――むしろ来ないでください。絶対に。
「……あの、本当に大丈夫?」
「はい」――あなたがいなければもっと大丈夫ですが。
「……ところで、ちょっと目をつぶっててもらえる?」
「はい」――もう、すでにつぶっています。
従順そのものといった信濃の返答に安心して、劇薬がかかった服の代わりを探すテレーザ。
その横で、テレーザが服を着終わり、自分のほうへ歩み寄ってきた後のことを想像して、絶望的な気分になる信濃。
残っている脚の付け根でなんとかそれを挟み込んで隠そうと、じたばたしてみる。毛布がだんだんとずれてくる。致命的なものが見えそうになり、努力を中断。信濃の額に、汗と血管が浮き出る。
――もう、死にたい。いや、待て。待て待て待て。この状態で死んでどうする? 死に恥をさらすことになるのでは? むしろ、何が何でも、今死ぬのを避けなければならない!
信濃の中で、生まれてからこのかた、かつてないほどに生への執着が高まる。
――今、この瞬間だけは絶対に死ねない! まずは、これを何とかしておさめなければ!
という経緯を経て、信濃は今、脳内で数字や記号をめまぐるしく展開し、頭の中を何かしらの数理的なものあるいは学術的な知識などで埋めつくすことで、生理現象と必死で戦おうとしている。
円周率、元素周期表がだめなら……シェイクスピアの全作品名、歴代ローマ法王の名前、ユーロ加盟国の旧通貨名、ユークリッド原論における定義/公理/公準/命題を展開したその時――
ノックの音。せわしない。
テレーザと信濃、二人揃って心臓が止まりそうなほどの驚愕。
「すいません、緊急で……」
声と同時にドアが開く。間髪入れず、テレーザが手近にあったすんごい分厚いファイルを投げつけて叫ぶ。
ずば――――――――――ん!
「今、着替え中だから入らないでっ!」
テレーザの悲鳴よりも先に、分厚いファイルが、ドアを開けたリーツの顔面を直撃。遅れて、彼の脳がテレーザの発した言語を理解。と同時に、分厚いファイルの攻撃をまともに受けた身体は1メートルばかり後方に押し倒され、鼻からは夥しい血が流れ出ていた。
「あ……」
急いで手近にあった着られるもの=クリーニングしたての白衣を羽織ったテレーザ、自分の投げたものが与えたダメージが予想外に大きかったことに気づく。
「すいません……大丈夫ですか?」
「らいへんれふ。れもらいがひて……」
夥しい鼻血が、リーツの発音をさえぎって何を言っているのかわからない。
「え?」
「デモ隊が……暴徒化したデモ隊が、本部ビルに投石をして、怪我人が……」
リーツに続いて、額から、手から、血を流した隊員がやって来る。
「すいません、そう大した怪我じゃないんですが、包帯を……」
「私もちょっと絆創膏を……」
テレーザ、怪我した隊員たちを急いで治療室へ。ついでにリーツも鼻血の手当てのためにそちらへ。
ぽつんと残された信濃――大きく息をつく。
自分の身体に起きてしまった変化、そして、それが思い出させた子供時代の不愉快な出来事=心身の痛み。
さきほど湧きたった生への執着が、一転して生と性への否定に変化。
「首から上も全部機械になっちゃえばいいのに――」
ぽつんと吐き出すと、身体の変化も徐々に落ち着き、全身が脱力。あとに残ったのは、「見ちゃった」という後ろ暗い秘密のみ。
★みなさんも劇薬の事故には気をつけてね。薬剤によるやけどは皮膚に浸透するのでとっても危険です! 劇薬は棚の下段に保管、が基本ですよ。
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/yakushouyakedo.html
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