第19話 それぞれの愛のかたち(続きの続きの続き)
☆
それぞれの愛のかたち。愛とは一体なんだろうか。歪んでいても、「愛」は「愛」じゃないのか? 正しい愛と、正しくない愛があるのか? 目に見えないものはどう判断すればいい? 綺麗で優しくて、幸せなものだけが愛なのか? そもそも愛とは、善いものなのか?
私にはもうわからない。この汚らわしい感情をなんと呼べばいい? 私には「愛」としか呼べない。だけど、確かにこれは汚いものだし、間違っていて、正しくないものだわ。だけど、だけどこれを、「愛情」以外に言い表せない。
「愛してるわ」と光子は言った。
「ああ……。この家は俺たちの家になった。俺たちがつくっていこう。一旦は、あのガキが言う通り、外に出てもいい。だけど、この事件が落ち着いたらすぐに戻ってきて、またここで暮らそう。奥の間は全て潰してしまえばいい。悪魔は去った」
ベッドで抱きあう二人。男はそう言った。
「本当……? でもなんだか怖いの。結局私たちは一緒じゃないの?」、その悪魔ってやつと……。
「一緒じゃないだろう。だって、違うさ……」
違う理由を述べることはできなかった。違わないのか? 男は一抹の不安を完全に拭い去ることができない。
「あの子は……、あの子になんて言えばいいの? あの子はもう戻ってこないの?」
「諦めよう」
「見ているだけなんて嫌よ! あの女のことを母さんだなんて!」
光子は激しく言い放つ。涙も流れ落ちる。もう、自分を上手くコントロールできない。
「光子、あの子のためだろ? 離れなくては。もう、俺たちで終わりにしよう。俺たちは……、結局一緒なのかもしれない」
「違うって言ったじゃないの!」
「お前を慰めたかっただけだよ」
男は優しい目をして光子にそう言うと、光子のつやつやと光る長い黒髪を撫でた。
「でも、悪魔は去ったんだから、あの子は、私をお母さんと呼んでもいいんじゃないの?」
光子は諦めずに「あの子」に執着する。「母性」とはそういうものなのだろう。
「なぁ……、光子、俺たちは親に振り回されてきた。あの子が本当の親を知った時……、それは、死の宣告も同然だと思う」
「……!!」、光子は声にもならないショックを受けた。たとえそれが真実だとしても、言葉として現れてきて欲しくなかった。
「俺は、あの子がまともに育ってくれたらそれでいい。それには俺たちが関わってはいけないと思う」
「……愛してるのにっ!」と光子は叫んだ。「こんなにも……」
光子は、体中の水分を全て涙として外に放出するかのように泣いていた。
「俺たちは、生まれた時から狂っていたんだよ。光子、お前が生まれてきてくれてよかった。俺がこの世に感謝できることといえば、それくらいだ」
しっかりとした口調で男はそう言った。「愛」、確かに二人の間にはそれがあったのかもしれない。断定はできない。確かなものなど、ここにはないから。すべてはまやかし。確かに触れられるものしか、信用してはいけない。
「……夏樹……」と光子は呟いた。愛情深く、言ってはいけないその名を呼んだ。
「愛」なんてものは存在しない。信じないわ、やっぱり裏切られていたのね。瑠璃子は思った。この子だけは守り抜いてやったけど。
「ママ?」
瑠璃子は芽依の手を取る。「この家を出るのよ、芽依。もう二度と、ここには帰ってこないのよ」
諭すように、瑠璃子は優しく芽依に言った。
「パパは?」と芽依は無邪気に聞いた。
「パパは……この家にとりつかれているのよ……」と瑠璃子は憎しみを込めて言った。
一体私は何をしていたのかしら。あの人は始めから私なんて見ていなかったっていうの? なんて汚らしい一族なのかしら。あぁ、汚らしい!
瑠璃子は、自分だけは唯一清いものだと思っていた。夫の家がおかしいことぐらいわかっていた。結婚してから、しまったと思ったのは事実。だけど、彼が全て任せておけと言った。実際に実権を握っているのは母親だと言った。そしてその母親が、自分の父親を選んだから、この家の財産や権力は全て自分のものになるって、だから我慢しろって言った。だから、我慢していた。ここにいると自分がわからなくなってく。
だって、全ては演技だから! ずっと芝居していたのよ。そう、いつのまにか、抜けきれなくなっていた。真実はどこかに存在していたとしても、それを見抜けずにいた。
あぁ、あの人の異常さがわかってしまったのなら、私がここにいる理由なんてないじゃないの。あっちの嫁さえ落とせば終わりだと思ってたのに……、それももう、どうでもいい。
「芽依、あぁ、芽依、ごめんなさい」と言って、瑠璃子は芽依を抱きしめる。
芽依は不思議そうに首を傾げ、真っ直ぐ立ったまま母親に抱きしめられる。「何? ママ」
「もういいの。終わりにしましょう。あなたにも、ずっと変なことさせていたわ。知恵遅れなんて真似させて悪かったわね。これからは普通に話しましょう。だって、あなたと私は普通の親子だもの」
瑠璃子は芽依と同じ視線になるように少しかがんだ。
「ママ? 何言ってるの? ママ」と芽依は繰り返す。
その時、瑠璃子の背中に一筋の「恐怖」が走った。あら? この子は、演技をしているのよね?
「だから……、もういいんだってば、その……変なしゃべり方とか」
瑠璃子は少したじろぎながら言った。
「変? なんで? ずっとこうしてきたのに? 私のこと、ずっと変だって、思ってたの? ねぇ、ママ、あたし、変なの?」
瑠璃子は完全に芽依から体を離した。「芽依……? 私の子、あなたを、あの化け物のお義母さんから守るためにおかしくなったふりをさせていたのに……」
「ママ? 何を言ってるの?」
「お稚児趣味が酷いって。女の子を産んではダメだって、圭一に言われて……」
瑠璃子の頭は混乱していた。自分の目の前にいるのが誰なのかわからなかった。わからないはずはないのに。何が真実なの? この子は誰なの?
「ママ、ごめんなさい。私も、この家にとりつかれているみたい」
パパ、ママ、私のこと守ってくれたって? 私はこんなにもおかしいのに。おかしいフリですって? バカじゃないの? この家に来るのは年に一回なのよ、なんで外ででも私におかしいフリをさせていたのよ。パパは本当に私をおかしくさせたかったのよ。ママだって、私を愛してたんじゃないわ。この家の大きさとか、そんなものを愛していたの。だって、この家の外に出て育って、今までずっとおかしなフリですって?私もう中学生よ、バカにしないで欲しいわ。
悪いけど、私はすごく冴えてる。バカなフリしてたのは事実よ。だけどね、おかしいのはまるっきり真実だと思うわ。だって、私ももう、何が私かわかったものじゃないもの。
春香は、百合と由良に支えられながら部屋に着いた。毎年この家に来ることが嫌だった。はっきりと今なら言える。夏の到来が嫌だった。春香は、「長男の嫁」という故に、その努めを果たそうと必死だった。投げ出すには、あまりに他の人間が信用に値しなかった。自分のことだけ考えていれば、考えられる性分だったなら、当の昔に放り投げていた。
だけどなぜか、なぜだか、「綾北家長男の嫁」を他の人間に託すのは、人類全体から敵視されるような、そんな罪がある気がしてならなかった。「私しかいない」、その使命感が、春香をこの場所に縛りつけていた。「綾北家」というものには、それほどの呪縛があった。一度入ると抜け出せない。抜け出すには「命」が懸かるのではないかという不安。そう、警察も介入できないような、私の存在など、始めからなかったことのようにさえできるような恐怖があった。
だが、今やその根源は消えた。
春香は「夫の死」に対しても上手く向き合えなかった。向き合ったのならそれは、ただの「ほっとした」で終わることがわかっていたから。それは、春香のような「常識人」にとってはひどく罪悪感に苛まれることだった。
春香はベッドの上に横になる。そのベッドの脇にはかわいいわが子が二人。この子たちは綺麗な目をしている。なんてかわいいのだろう。綾北家の子どもたちは皆似てる。皆端正だ。そう、汚らわしくも美しいのは事実だ。私の子どもは美しい。綾北家の血のおかげでもあるのだろう。この子たちの美しさには、綾北家の血が必須であるように思えた。
「お母さん、大丈夫?」
百合は、母親の自分を見る瞳がいつもと違うことを察して、心配そうに寄り添っていた。由良も同じく、その隣で静かに母親を見守っていた。
「えぇ、心配しないで。あなたたちも混乱しているでしょう……」と春香は力なく言った。
「ううん、俺たちは平気だよ」と由良は百合と手を取り合って言った。
平気? 何を言ってるのかしら。春香は疑問に思った。父親が死んだのに? この子たち、なんとも思ってないっていうの? あの時、夫の死に真っ先に反応して庇ったのは流也さんだったわね。兄のことを決してよく思っていなかったけど、兄故に庇ったんだわ。
「今こそ、手を取り合っていかなくちゃね」と春香は言った。私がしっかりしないと。子どもが泣きたい時に、私が泣いてたらいけない。
「全てが終わって……、全てを手放すときだよ」
それはあまりにも冷徹な声だった。その声に春香は身の毛立った。由良が春香を優しく見ていた。由良?
「本当に、全て終わったのかしら……」と、春香はぼんやりと天井を見つめながら呟いた。
「どうしたの?」
百合はそんな春香の様子を純粋に心配した。
「百合、少し休ませてあげよう」
由良は百合を、優しく外へと促した。百合もそれに同意して立ち上がる。
「じゃあね、母さん……」と由良が言った。
春香は、優しい目をした由良に震えた声で言う。「……百合……」
百合はもうドアを開けて外に出ようとしているところだった。この声は百合には届いていない。百合に向けられた言葉ではないのだろう、百合の名を呼んでいたとしても。
由良はそのか細い声を聞いた瞬間に体が熱くなるのがわかった。
「由良っ?」
百合が外から由良を呼ぶ。血走った目は静かに閉じられ、由良はもう、春香を見ることなく無言で百合のもとへと歩いた。
全ては受け継がれていくのであろう。どうしようもなく、しかたなく。
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