第11話 不思議な子どもたち(続き)


 登一郎は、呼び出される前に部屋を出た。先刻、使いの青山が「旦那様、皆様がお揃いになられましたらお呼びいたします」と言っていた。だが、行くつもりもない。下らん。登一郎はそう思っていた。お前が来い、そんなに来て欲しければ。刑事への言い分はこれだ。この屋敷、あの門をくぐったその時から、国家権力も何も関係のない俺の領域だ。

登一郎は許せなかった。昔から誰にも頭を下げたことはなかった。代々受け継ぐ自分の土地を、高い地位からただ守り、周りの人間をひれ伏せさせてきた。都会になど興味はなかった。自分の城の中でいいから、ただ、頂点に立っていたかった。外部の人間が入り込んでくるこの数週間、そして今日。人生において屈辱の日々だった。この俺を、この俺の足を呼ぶっていうんだからな。俺は好きな場所へ行くんだ。行けるんだ。なぜなら俺は当主、この領域を治める者だ。


登一郎は、怒りを帯びた強い眼差しと足取りで、奥の間を歩いていた。

 ブーン……

なんの音だ? 「きしみ板」に足を踏み入れようとしていた登一郎の足が止まる。

 ブーン…… これは、扇風機の音だ。

それに気付いた登一郎の頭によぎったのは、「あいつら、あの部屋で寝泊まりする気か!」ということだった。登一郎の頭の中ではそれ以外にあの部屋で扇風機がまわっている理由がないからだ。登一郎は一目散にその部屋の襖を開けた。

 立ちすくむ登一郎。頭はうまく働かないが、歓喜に似た感情が心を震わせているのがわかる。白い布で覆われている顔。かよ子……。登一郎は溢れる涙を止めることができなかった。帰ってきてたのか……。

 だが、近づくにつれ、さすがの登一郎も気付く。慣れ親しみすぎた体とは違うんじゃないか? 不思議なことにもう涙は止まっていた。「違う」と感じたその瞬間から。

 登一郎は恐る恐る、顔にかぶさる白い布に手をのばす。だが、それを掴むと、手の震えは止まり、何を恐れているんだ、この俺が! といったプライドにより、勢いよくその布を払いのけた。

頭よりも体が先に反応した。大の男に突き飛ばされたかのように上半身は後ろにのけぞった。そしてそのまま腰から落ちた。声は出なかった。ただ、全身が震えていた。恐ろしかった。早くこの場から離れなければ! 「青山……」と登一郎は使いの名を呼んだ。誰かに助けて欲しかった。何をしているんだバカ者が……。こんな時にも登一郎の頭には罵倒しかなかった。

 開けたままの襖から外の光が入る。唯一の救いの光。このままここにいてはダメだ。本能でそう感じた登一郎は、畳を這いつくばるように光の方へと向かう。腰は抜けきっていた。こんなにも太陽の光が神聖なものに感じたことなどなかった。

「あぁ……はぁ……」となんとも表しようのない声を出して、ゆっくりと這う登一郎。手が光を捉えようとしたその時、その光は影へと変わり、登一郎の行く手を塞いだ。開けられた襖の前に男が立っていた。光はその男の背中までしか届かない。

「とんだ大ネズミがいたもんだ……」、その声はひょいと弾むような軽い声だった。あぁ……、登一郎は頭に血が、全身の血が上るのがわかった。「兄さん」とその男は言った。

「き……ぃさまぁー!!」

 不思議なことに登一郎は勢いよく立ちあがった。どうしても力が入らなかった足は力強く畳を踏みつける。登一郎は手を伸ばす。標的は紺色が鮮やかな夏用の着物を着ていた。その襟口を掴む。簡単に相手はひっぱられ、倒れ込んだ。もともと、ちょっと突いただけでもよろけそうな体格の、キツツキみたいな顔の男だ。

「貴様……、貴様がやったんだな!?」と叫ぶ登一郎の口元からはよだれが垂れ落ちる。

何事だ? さすがの清次も顔を歪ませた。今まで登一郎の醜い顔はいくらでも見てきたが、未だかつてないほどの形相だった。醜くて、恐怖を感じた。この世でこれ以上ない「醜さ」だ。清次はそう思うと、なぜだか少し余裕を持つことができた。こんな醜いモノには自分は負けない。負けるわけがない、と思った。この二人は、生まれてきたその時から、「人生」という単位で、ずっと勝負をしていたのかもしれない。

清次は何も言わなかった。だが、登一郎の顔を見ていると……、

「何笑ってやがるんだぁ……!」

 あぁ、笑わずにはいられなかった。しかし、清次は努めて真顔でいようとしていた。だからこそ、余計に苛立たせるであろう、病的で、ニヒルな口元になるのだ。ぴくぴくと、口の左端が震え、にやけた顔になる。あぁ、清次は思った。痛いことになるなぁ、敵わない。振りかぶられた登一郎の拳がしっかりと目に入る。今日のは特別痛そうだ。




 (秋島)



 僕が駆けつけた時にはその場は静まり返っていた。

「いいですか? 旦那様……」

 青山渡が登一郎さんの腕を掴んでいた。登一郎さんは、誰かを思いきり殴った後のような体勢だった。実際、その下には清次さんが倒れていた。しかし、顔を歪めている様子はない。両手を地につけ、上半身を起こしていた。

「お前は……俺の下僕ではないのか?」と登一郎さんが言った。僕はその言葉に眉をひそめる。

「下僕ですとも……。だからこそ、旦那様、いけません。どうか冷静になられて下さい」と渡さんは言い、登一郎さんの顔をしっかりと見つめ、掴んでいた手を離した。

 何が起こったんだ? 僕はいまいち状況を飲み込めていなかったが、開けられた襖が目に入った時、全てを悟った。鍵がない日本家屋ってのはやっかいだな。襖は開けられる運命だったわけだ。これをどう説明するんだ? 僕はボケっと開けられた襖から部屋の中を見ていた。何を見るわけでもなく漠然と全体を。

「りっちゃん!」、「旦那様!」

 二人の声が同時に聞こえたのは覚えてる。その声に振り返ろうとしたが、首が十五度ぐらいまで曲がったあたりで、後頭部に激痛が走った。後頭部って……。僕の視界はそのまま暗転だ。

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