第2話 現地へ


 「オッキー早く……」

 光留は長々と電話をする沖島に向かって小さく呟いた。呟きでも、その声は沖島にしっかりと届く。沖島は片手をあげて合図した。それを見ると、光留は前髪をいじるのをやめて、フンっと鼻で息をし、隣の男を見た。隣の男も光留を見ていた。不審そうな目で。

「融通きかなそー……」と光留は目線をその男から逸らし、ボソっと呟いた。

「なんだって?」

 当然この声は隣の男、秋島にも届いていた。

「第一印象ー」と光留はなんでもなさそうに言った。

秋島は思うように言葉が出せず、口をぱくぱくさせていた。それを見た光留は笑った。体操座りの膝の上をポンポンと叩き、屈託のない笑みを浮かべていた。秋島はそんな光留を見ていると、なぜか段々と冷静さを取り戻していった。今度はその様子を見て、光留が不思議そうに首を傾げた。

「あれ? どうしたの?」と秋島に問いかけた。

「いや……、別に」

 秋島はそのまま前を向き、それ以上何も語らなかった。怒りを覚えた頭は、少年の無邪気な笑みにより、すっかり冷めてしまった。

「よし、待たせたな」と、沖島は電話を乱暴に切って二人に言った。二人の視線は沖島に向く。「利一、事件を見せてくれ」

「こ……ここでですか?」と秋島は戸惑いながら言った。

「その事件は……」、沖島は、秋島の手元にある資料を指さす。「俺の課の事件だよ」

 秋島はごくりと唾を飲んだ。

「零課の事件だよー」

 光留がのほほんとした声で後に続いたが、秋島の緊張をほぐすには至らなかった。


二 現地へ




 (秋島)


 深い森を抜けていく。ここら一帯の広大な土地は綾北家のものらしい。隣家との距離はかなり離れている。普通に生活するには明らかに不便だ。どんな豪邸といえど、若いうちは住みたくない。まぁ、老後の隠居生活に使っているということだから、納得のいく話ではあるか。避暑地の別荘としては申し分ない。

 だけど、車一台がやっと通れるような未舗装の道に、僕は違和感を覚えた。もっと整備したっていいだろう。砂利道で車がガタガタと揺れる。石が車に当たっているのがわかって、なんだかイライラした。僕は常に車がピカピカじゃないと嫌なタイプなんだ。公用車であろうとそれは変わらない。この道は、人を遠ざける目的がある。

 文句しか頭に浮かばない道を走り続けるうちに、前方から光を感じた。森の終わりが近い。森の木々が日の光を遮断していたから、その光が一層眩しく感じられた。


「うっぎゃぁあ!」

 その時、隣からまぬけな悲鳴が聞こえた。

「なんだっ!?」

僕は反射的に叫んだ。助手席に座っている岡山光留は顔を手で覆い、必死に顔を光から守ろうとしていた。

「大丈夫か?」

何が起こっているのかよくわからないが、光留はじたばたと動き、苦しそうに見えたので、車を停めようかと迷った。

「サンッ、サングラス!」

「え?」

「サングラス忘れたぁ!」と光留は言って、僕の左手を力強く掴んだ。僕の左手はハンドルから滑り落ちる。

「うわっ!」、車体は左により、一般道ならなんてことないズレだったが、この道じゃ案の定脇の斜面に乗り上げた。

「お前っ、危ないだろ!」

僕は怒鳴ったが、光留は何も聞こえていなかったようにうずくまったままだ。

「りっちゃんのは?」

 丸まった体で、ボソっとそう言ったのが聞こえた。僕は溜息をつく。こいつにサングラスを渡さなければ話は進みそうにないので、僕は自分のサングラスを車のダッシュボードから取り出し渡してやった。光留は素早くそのサングラスをかけた。そして座席にだらんと体を預け、スーッ……と深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。

「助かった……」と言って光留は笑った。

僕は色々な感情を噛み殺し、とりあえず一言「良かったな……」と言った。思いっきり顔を引きつらせてやったけど。

「いやー、外出んの久しぶりすぎてすっかり忘れてたよ」

 さっきまで気持ちよく熟睡していた男の、大袈裟すぎる目覚めだった。

「俺って、太陽の光、ちょーダメなんだ」

「そうみたいだな」と僕は呆れて適当に返事をした。

身に染みて理解したよ、そう思いながら車を少しバックさせ、またゆっくりと走り出した。もう石ころが当たるのなんてどうでもいい。

「ごめんって、りっちゃん」

僕のサングラスにより、落ち着きを取り戻した光留が言った。僕はそれを無視したまま、トロトロと車を走らせる。登り坂の先が開けてきた。砂利道から人の手がかかった更地に変わる。目的地が見えてきた。

 再び、来た。

「りっちゃんごめんって!」

 僕の高鳴る感情を遮断する声。緊張感も何もない。生気のない死んだような目はサングラスで隠れたが、そんな目をしている割に、こいつは寡黙な人間ではない。

「もういいってば……」

「よかったー」と光留はすぐに安堵の声を出す。「ねぇ、りっ……」

「ちょっと待て」と、そこで僕は光留の言葉を遮った。開けた更地に車を停めた。バカでかい綾北家の門の前だ。「その呼び方はなんなんだよ」

「利一なら、リッチーか、りっちゃんで……」と光留が言う。

「いや、お前いくつなんだよ。目上の者に対してあだ名で呼ぶなんて、そんな非常識なことないだろ?」と、僕は自分の目の前にいる男に向かって強く言った。男っていうか、僕から見りゃ少年だ。そんな少年から慣れ慣れしく呼ばれるなんて。「ちゃん」付けはないだろ。「ちゃん」付けは。

「やっぱ融通きかねぇー」と、光留は上を向いて溜息混じりに言った。「りっちゃん、悪いけど、零課の仕事は俺が仕切っていいって、オッキーが言ってたろ?」

 僕はその言葉に、一気に強気な姿勢を崩されてしまった。それは確かだったからだ。

「まだ……、零課と決まってない」と僕は力なく言った。

「……零課だよ、悪いけど」と少し間をあけて光留が言った。

「なんで……」、僕は言いかける。

「わかるんだよ」となんとも言えない顔で光留は言った。笑っているのか……? 口は緩んでいたが、初対面の時に見せたあの邪気のない笑みとは違った。

「まあ、いいか」と僕は言った。もうどうでもよくなってしまった。面倒な奴だ。

「そうだよりっちゃん、常識なんてそんなもんは捨てなきゃこの先やってけないぜ」

 面倒で……、ムカつく奴だ。


「行くぞ」

 僕は光留の素行の改善を諦めて、乱暴に車のドアを開け外に出た。綾北家と向き合うために。

これは監獄の入り口だ。初めて来た時もそう思った。高い鉄の門。そこからぐるりと屋敷を囲むコンクリートの塀。少し、異常だ。塀を越えても密林。密林だからこそのこの高くて硬い塀か?

僕と光留はインターホンの前に立つ。ちらり上部を見る。しっかりとカメラが僕らの全体を捉えている。車でこの敷地内に入ってきた時からすでに捉えられていたのだろうか。なんたる巨大な密室だ。         

僕はインターホンを押した。




 (夏樹)


 ここの朝はとても静かだ。夏だというのに蝉の声さえも遠くに聞こえる。誰も寄りつかない屋敷。いや、寄りつけない屋敷、綾北家。僕は物心ついた頃からこの偏屈な家に閉じ込められている。綾北家に仕えることが、先祖代々から受け継がれてきた僕の「家業」らしい。なんて絶望的な未来だ。

 そんな僕の唯一の楽しみ、夏……。夏のこの時期だけは、みんなが帰ってくるから。だけどその夏も、今年は虚しく流れ去ってしまいそうだ。そう、おばあ様が死んだからね。

そういえば、今日は警察の人が来るって言われてた日だった。そろそろお呼びがかかりそうだ。


「夏樹」

予想通り母さんが僕を呼んだ。

「はい」と僕は襖越しに返事をする。

「お子様たちを集めてきて」

「はい」

 僕は畳の部屋で、死んだ様にごろんと寝そべっていた。自分の部屋では大抵そうしている。畳の匂いが好きだ。安心する。この部屋を出れば、やけに造られたものばかりを見るはめになる。自然は僕の聖域だ。だから、あの塀は大嫌いだ。僕は、あの塀を越えて、木々が身を寄せ合い自由に風に吹かれている中で、太陽の光を浴びて死にたい。

「夏樹?」

「はい、すぐ行きます」

 僕は立ち上がり、少し皺の寄ってしまったシャツを手で整えて部屋を出た。さあ、仕事だ。



 「百合、由良」

 二人は、綺麗に芝生が整えられた(僕が手入れしてるんだけどね)広い庭にある、白いテーブルセットで優雅にお茶を飲んでいた。

「夏樹!」と由良が僕に気付くと手を振った。「夏樹も飲む? 俺の特製だよ」

「え? 由良の?」

 僕はテーブルの上のティーカップを見る。そこから白い糸が見えた。

「……いや、遠慮する」と僕は呆れたように言った。ティーパック……。僕に言えばちゃんとした茶葉を使って用意してやるのに。

「なんだよ、だって百合がクッキーなんて作りだすから」と言って由良は百合を見た。

「へぇ、百合も料理なんてするんだ、なんか意外かも」

 百合の焼いたクッキーはおいしそうだったので一つもらった。ほんのりきつね色に焼けていて、真ん中に赤と緑のゼリーが可愛らしくついている。

「なんか失礼だなー」と百合は優しい笑みを浮かべて言った。

「おいしい?」

百合は可愛らしく頬杖をついていた。「おいしい」としか言えない。「ま、イケてる」と僕はなぜか照れて言った。本当はすごくおいしいんだけど。

「夏樹も座って!」

 由良が強引に僕をイスに座らせようとした。僕は完全に本来の目的を忘れていた。

「ねぇ、夏樹……」と由良が話しかけてきた時に思い出す。

「違った!」と言って僕は立ち上がる。二人の大きな目が同時に僕を見た。同じ瞳だ。「二人とも、大広間に集まってくれ」



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