浮遊アイデンティティ

真山あやめ

第1話 はじまり

八月十日


 僕にはわからない。かよ子おばあちゃんが死んだ。「自然死だったんだよ」と父さんは言った。

「自然死」?

 僕はおばあちゃんが死んだ日に警察の人が来るのを見た。それ以降は来ていない。だけど、また来る気がする。僕は、かよ子おばあちゃんの死に姿を見ていない。見るなと家族に止められたし、止められずとも、救急隊員の人がすでに白い布でおばあちゃんの顔を覆っていた。この家で「自然死」? そして、この時期に? 葬儀は身内のみで、ということだった。そうするしかない。だって、おばあちゃんは戻ってきていない。世間の目を気にしての見せかけの葬儀だった。僕たちは親たちには内緒でそのことについて話をする。

「あの二人のどちらか」が殺したんじゃないかって。

 そんな話で盛り上がってしまうけど、僕はひどく恐ろしいんだ。だって、「あの二人のどちらか」なんて、そんな簡単で単純な選択肢じゃないと思ってしまうから。





 (秋島)


 僕は今、長い廊下をひたすらに歩いている。コツコツ、と革靴の音がよく響く、ワックスできれいに磨かれた廊下だ。だが、きれいにしたところで、ここはほとんど人の目を浴びない孤独な通路に思えた。



「零課だ」と目の前の男は僕に言った。

「はい?」と僕は聞き返した。

 僕の上司、目の前にいる部長は、僕と目を合わすことなく、三日ぐらいは剃っていないであろう髭をぽりぽりと掻きながら言った。「ゼロカだ」と。

 はっきり言って、尊敬もできない気に食わない上司だった。いつも机に座ってぼけっとしている。僕は典型的なコネ出世ではないかと思っている。その部長の伏目がちの目が一瞬僕を見た。その視線はすぐにまた下に戻される。

「だから、零課だって」

『だから零課だって』? 僕の質問の答えになっていない。僕の知る限り、この警察署内に、「零課」なんて部署はないはずだ。僕は何も言えずにただ突っ立っていた。

「お前……」、部長が動かない僕を見て言った。「秋島だよな?」

刑事一課に配属され、部長の下についてから二年は経っていた。

「当たり前です」と僕は部長を軽視しているような冷たい声で言った。

「沖島の秘蔵っ子だろ?」

 その言葉に僕は目を細めた。部長が「沖島」と呼び捨てにしたことが癇に障った。

 沖島さんは、僕が小さい頃から何かと面倒をみてくれていた人で、僕をこの警察組織に送り込んだのも沖島さんだ。僕の憧れの人だった。男に生まれ、身近にかっこいい警察官がいたならば、それは立派な目指すべきヒーローだ。そして、沖島さんは今や立派に警視庁の上層部にいる。僕が七光りだと皆から陰で思われていることは知っているが、僕はそんなこと気にしていない。だって、僕はこの仕事を天職だと思っている。

「そうか……、零課を知らないのか。失敬したな」

 部長が鼻で笑いながら言った。部長も、僕のことを七光りだと思ってたんだな。

「知らないのが、悔しいか?」

 僕はその言葉に驚いた。部長が僕のことを明らかに馬鹿にした。僕にはそれがわかった。僕を見下ろすその嬉しそうな薄笑み。初めて見る表情だった。

「零課に行ってこい。どれほど自分が自惚れているかわかるはずだ。『博識だ』と思い込んでいること自体が、何も知らないことと同じだ」



 僕は、親指の爪を人差し指で掻きながら長い廊下を歩いていた。

 「カリカリカリ……」、頭の中で、僕はその行為に音をつけていた。僕がイライラしている時に無意識にとる行為だ。


『中央階段を降りて、そのままひたすら左の端まで進め。突き当ったと思ったら右を見ろ。ガラクタのラックに隠れて、壁と同化したような小さな扉が見えるはずだ。そして、その扉を開け、またひたすら進め。そして、そこから落ちていけ』


 部長が薄笑みを浮かべて僕に言った言葉だ。僕はなんだか復讐をされているような気分になった。まるで部長は僕を蹴落とす大義名分を得たみたいだった。

 落ちていけだって? 意味がわからない。僕が悶々とした思いを抱きながら歩いていると、いつのまにか廊下のつきあたりまで来ていた。周りにはもう何もないし、誰もいなかった。そして、今僕の目の前にはエレベーターがある。

「落ちていけ……か」

 僕は深く考えもせずにそのままエレベーターに乗り込んだ。ここは一階だ。そして、エレベーターは下へ下へと動く。動くと同時に、僕はすごい寒気に襲われた。僕は手に持っている今回の事件の資料を見た。嫌な予感しかしない。僕は怖かった。

 確かに僕は、落ちていっている。





 ゴウン、ゴウン、ゴウン……

「嫌だぁ……」と岡山光留は言った。

「ミツル、お前、タダ飯食いもいい加減にしろよ」

 光留はソファーに寝そべったまま、エレベータ―の音が嫌なのか耳を塞いでいる。それを見かねた彼の上司は心底うんざりした様子でそう言った。

「ふんっ、オッキーはいいよねぇ」と光留は言って、ソファーから起き上がった。

「よくねぇよ、暇で死にそうだぜ」

 ギラっとした目をしていた。それを見た光留は、「げ……」と誰にも聞こえないぐらいの声で言った。


 ゴウン……、大げさな音をたてる古いエレベーターは止まった。

 目を輝かせてそれを見つめる上司と、それとはまるで正反対の、面倒を通り越した無表情で見つめる光留。

 静かに、だけど重みを伴って、その扉は開いた。




 (秋島)


 エレベーターが開くと、そこはそのまま部屋に繋がっていた。ほぼ正方形の、決して広いとは言えない部屋だ。部屋の隅には鉄パイプでできた階段があり、一応の二階もあった。その二階は、この部屋をぐるりと囲むように、本棚がびっしりと詰められているだけのものであった。

 そして一階は、一つのデスクとソファーとテーブル。質素な、あまりに質素すぎるインテリアだ。僕はしばらくエレベーターの中で立ちすくんでいた。辿り着く心構えがいまいちできていなかったらしい。見ているものを見ていない。脳が反応していない。それは……、向こうも同じらしい。目は合っているのにお互い言葉が出てこなかった。僕はなんとか声を発そうと口を開けたが、相手の反応が一足はやかった。

「利一!」と相手は叫んだ。驚いているのは明らかにわかった。そして、その声に多少ビクついた少年がソファーに座っていた。

「お……、沖島さん?」と僕はやっと言えた。

「ひっさしぶりだな! まぁ入れや」

 沖島さんは僕の肩を乱暴に叩いて、僕をエレベーターの中から引っ張り出した。僕は為されるがまま中に通されソファーに座る。

「立派にやってるみたいだなぁ」

 沖島さんはそう言いながら煙草に火をつけた。僕は少しむせる。換気もクソもなさそうな部屋だ。

「はあ……」と僕はとりあえずの返事をした。

「……というか、なんでお前ここにいるんだ?」

 沖島さんは、急に我に返ったように聞いてきた。こっちのセリフですよ。

「部長が……」

「あんのヤロー!」

僕が言い終わらないうちに、沖島さんはそう言って乱暴に机を叩いた。あれ? こんな人だったかな。僕はただ戸惑うことしか出来なかった。だけど、部長に対する怒りには共感を覚えるところだ。

「俺になんの報告もなしに!」

 沖島さんはそう言うと電話をかけ出した。怒りの対象は僕の想像したものとは違う気がした。

「佐伯ぃ……」

 そこで僕は部長の名前を思い出した。その名を久しぶりに聞いた。沖島さんが部長に電話?

「一言ぐらい言えや。わざとだろ」

 沖島さんは、片方の唇を上に引きつらせ、嫌な笑みを浮かべていた。僕はここに来て、あっという間に自分を白痴だと悟った。部長の言葉が身にしみる。僕の知っている沖島さんはもう知らない人となった。こんな人は知らない。こんな所も知らない。

 僕はふと横に目をやった。その目に映った人物は、グレーのスウェットのズボンに、明らかにサイズの合っていないダボダボのホワイトシャツを着て、ソファーの上で体操座りをしていた。そして、目にかかる、少し長めの前髪を手でいじっていた。

 誰?

 お前ら誰だ? 僕は二人に心の中で問いかけた。





  八月十日


 日記さん。私は日記さんって呼ぶわね。アンネの日記を読んで、少し影響されちゃっただけなんだけど。名前はつけないでおくわ。無理やりつけるならね、やっぱりあなたの名前は「日記」よ。日記さん。私たちの一族って日記をつけたがるの。じゃなきゃ、大人になってすぐに忘れちゃうでしょ。そろそろ私も日記をつけ始めるわ。

 でね、日記さん、今、ものすごいことが家の中で起こってるの。ものすごおいことよ。あのね、おばあちゃんが死んだの。私がね、夜ねむってね、朝起きたら、死んじゃってたの。そりゃあ家の中は、大、大、大パニックよ。私たちはね、追い出されちゃったの。「離れ」へね。子どもはダメなんだって。すごく悔しかったわ。そりゃあ、はたちじゃないけど、「死」ぐらいわかるんだから。

そういえばね、誰かが言ってたわ。「おじいちゃんたちがすごいケンカ」をしてたって。おじいちゃん同士でね。すごいなぁ、あの歳でもケンカをするのね。私はおじいちゃんのこと嫌いなの。だからね、ざまあみろって感じよね。

 あ、あ、  あ、言っちゃおうかなー。  日記さん、私ね、   見てるのよ。

 いや、やっぱりダメ。これはまだ内緒よ、あなたにもね。初めての日記はこれでおしまい。なかなか楽しかったわ。じゃあね、日記さん。

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