第10話「渾身の力で跳ね返せいま鮮やかに…」

—とあるバッティンセンター—


 月が高くのぼる深夜0時に、ともこはいつもかよっているバッティングセンターに入り、160キロの硬式球が設定してある打席の扉を開いた。

 店主はともこの姿を見ると、何も言わずにネットに掲げてあるホームランと書かれた的のベルを切った。彼女が来たときはいつもそうするように、レジ横に置いてある椅子に腰掛け、タバコに火をつけて、彼女の打席を眺めていた。

 まず、ともこは右打席に入り、きっちり10球分バットを振ってから、左打席に入って、もう10球分バットを振った。

 店主はともこの様子に首を傾げた。なぜなら、ともこはほとんどのボールを空振りしていたからだ。当たっても力のないゴロかライナーになっていた。いつもなら、左右の打席に関わらず、全てのボールをホームランの的の真ん中に寸分狂わず当てるのに……。


—とある公園—


「話を聞こうか?」

 教職員の男は背後から女子高生に話しかけられ、振り向いた。

「君が噂のともこ13?」

「そう呼ばれてる。あまり気に入ってはないけど」

 ともこが興味もなさそうに吐き捨てる様子を見て、男は驚いた。ともこ13がバッティングにおいて右に出るものはないと噂に聞いていたが、まさか、女子高生だったなんて…。

「依頼。話してくれないと帰るよ?」

「待ってくれ。君にしかできない依頼なんだ」

 男はともこに依頼を切り出した。

「僕の中学校の野球部で臨時コーチをお願いしたいんだ…

—1人の新入部員がいる。彼は小学校の時にサッカーをやっていたのだが、中学に上がってからは野球を始めた。しかし、その野球が全然上手くいかなくて、そのうち、顔を出さなくなってしまった。彼は運動神経は抜群にあるため、バットにボールさえ当たるようになれば、野球の楽しさを理解して、再び取り組んでくれるはず—

…だから、その少年にバッティングを教えてあげてほしいんだ」

 ともこは木を背に腕を組んで話を聞いていた。

「野球を始めた経緯を詳しく話して」

 男はともこの質問の真意を測りかねたが、言葉を続ける。

「上原将太という子なんだが、将太はもともと、小さなころからやんちゃで、不良グループとつるんでいたんだ。そのグループの先輩の一人が野球を将太に勧めたんだ。最初のうちは熱心に取り組んでくれて、それで生徒指導の先生も安心していたのだが…」

 ともこは男の言葉にふんと鼻を鳴らした。

「その依頼は引き受けられない」

「まさか、どうして?」

 男は首を傾げた。

「バットにボールが当たらないから」

 ともこはそう言って立ち去った。

 バットにボールが当たらない? それは才能がないから諦めろってことなのか? でも、その少年は運動神経が抜群にあるのに、諦められるわけがない。仕方ない、自分が根気強く教えるしかないか…。

 男はともこの後ろ姿を黙って見ていた。


—とある別荘—


 ともこは車を駐車場に止めて、トランクから大きな荷物を取り出した。

 玄関を開けて、真っ直ぐに台所へと向かい、冷蔵庫の扉を開けて、空の棚に買ってきた食料品を並べた。荷物をリビングのソファに放り出した後、寝室に向かい、ベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。しばらくじっとしていた。やがて仰向けになって、天井を眺める。日の光が外にある海に反射して、天井に光の波を映していた。ともこは窓の外にある海に視線を移した。めずらしく水平線上をタンカーが横切っていた。


……どうしてあの時、狙いが外れたのだろう?


 あの仕事の後、バッティングセンターで調整をしようと打席に入ったけど、先の仕事の失敗で動揺していて全くボールに当てられなかった。バットは握れるのに、打席に立っても落ち着いていられるのに、ボールを打とうとすると、突然、腕が震え出し、いつものスイングができなくなる。

それはともこにとってはじめての経験だった。

 自分のバッティングの腕に自信のあるともこは、珍しく依頼を断った事にも腹を立てていた。

 自分のバッティングの腕が良くないから仕事を断るなんてプロとしてありえない。


 庭に出たともこはバッティングマシンを引っ張り出して、角度とスピードを調整した。打席に入り、放たれたボールを見逃した。いつも練習で打っている軌道だ。次のボールを打とうと、スイング動作に入った瞬間、腕の感覚が無くなり、いつものスイングができなくなる。力なく振られたバットは、ボールに当たって、芝生の上で弱くバウンドしてから止まった。

 ともこはため息をついた。打席を外してバットを振るといつものスイングができるのが余計に腹立たしかった。

「あの駐車場に置いてる盗難車のディスカバリー2、ともこが贔屓にしている窃盗グループのリーダーが捕まったみたいだから、早く廃車にしたほうがいいよ」

 突然、話しかけられたともこは振り返るとバッティングケージの後ろに千尋が立っていた。

「あれは中古で買ったやつ。昔のやつじゃない」

「でも、あんた無免許じゃん」

「そんなの関係ない」

 ともこは無表情で吐き捨てた。

「……バットにボールが当たらないんでしょ?」

 ともこは千尋の質問に答えない。

 千尋はともこの反応を見て、乾いた笑い声を上げた。

「ははっ。そんなことだろうと思ったよ」

 千尋はバッティングケージの中に入り、落ちていたボールを拾いあげ、

「久しぶりにキャッチボールしようよ」と言った。

 ともこは庭のポーチに置いていたグローブを2つとりあげて、1つを千尋に投げ渡す。

 千尋は大きく振りかぶって投げた。ともこがグローブを構えたところにボールがすっぽりとおさまる。

 ともこは千尋が投げるボールの軌道を見て懐かしい気分になった。

 千尋が投げるボールはともこにとって最も打ちにくいボールだ。はじめて対戦したときはバットを折られたっけ。

「1打席勝負しようよ」

 千尋はボールを指の先でスピンさせながらともこに提案した。

 ともこは何も言わず、グローブを外してバットを手に取った。


 ともこは打席に入って、軸足の穴を掘り、足場を安定させた。千尋の方に向かって左手を突き出し、バットを立てた。右手を下に下ろして握って開いてからバットを構えた。前に勝負した時みたいにホームランを打ちたいとともこは思った。

 千尋はセットポジションから1球目。大きく外に曲がるパワーカーブ。ボール。

 ともこは落ち着きながらボールを見逃した。千尋はそういうやつだ。一番自信のあるムービングファーストをいきなり見せるわけがない。

 2球目、シンカー。ストライク。

 すっぽ抜けてど真ん中に入ったボールは、体が勝手に反応するが、打つべきボールはこれではないと敢えて見逃した。

 3球目、千尋はいきなりクイックモーションに変えた。数々の打席に立ってきたともこの勘が働いた。千尋が投げるボールは変化量の少ない方のムービングファーストだ。彼女からボールが放たれたのと同時に、足から腰へ腕へと体全身を捩り、バットが勝手にスイングする。

 ともこの勘は当たり、ムービングファーストだが、ストライクゾーンから外側のやや高めに外れていた。バットはボールの下半分を叩き、ファーストフライになった。

「私の勝ち」

 千尋は満面の笑みでともこにむかってピースサインをする。

「……ふふっ」

 ともこは思わず笑みが溢れる。

 ともこは自分の落ち度に気づいた。

 仕事柄、今まで無意識に狙ったところにボールを打ち込むバッティングになっていたけど、私がしたいのはそういうバッティングじゃない。

 ホームランを打ちたいのだ。

 あのボールがもう少し低めにきていれば、ライト方向のホームランになっていたはずだ。だから、体が勝手に反応して、腕も震えずにスイング出来たのだ。

「千尋」

「何?」

「ありがとう」


—とある墓地—


 ともこはスーパーで墓前に備えるための花と線香を買ってから、父の墓へと向かった。

 ここにくるのは父が死んだ時以来だ。空を見上げると、父の骨を納めた時と同じ色をしていた。

 線香をあげようと封をきると、ライターが無いことに気づいたともこはそのまま線香を香炉にさした。

 火をつけた線香をあげること自体に意味はない。父を思い出すことに意味がある。

 ともこは墓前に話しかける。

「父さん。私、バットを振り続けているうちに、自分を見失ってた……」

「………………」

 墓石の下で骨になった大志は黙ったままだ。

「父さんはどんな気持ちでバットを振ってたの?」

「………………」

「まあ、いいや。私はホームランを打つ為に仕事を引き受けてきたけど、知らない間に仕事の為にバットを振ってた」

「………………」

「それで、この前にはじめて失敗してから、腕の震えが止まらなくなった」

「………………」

「千尋と勝負した時に、いろいろわかった」

「………………」

「私は父さんよりすごいホームランを打つから」

「………………」

「それだけ」

「………………」

「これから仕事があるから」

「………………」

「じゃあ、行くからね」

「………………」

 ともこは墓前から立ち去った。


—京都府警本部、とある会議室—


「で? 話って何?」

 警察庁から着任してまもない本部長はともこの話し方に驚いた。まるで相当の場数を踏んできた殺し屋のような冷徹さを感じたからだ。それはある意味信頼できる証拠になると思い、本部長は話を切り出す。

「依頼があるんだ」

 本部長は一枚の写真をともこに渡した。それは1人の男の顔写真だった。

—この男を捕まえるために協力してほしい。この男は上原雄太といい、裏社会では覚醒剤の売買でのし上がったやり手だ。最近になって、彼が仕切っている覚醒剤の製造工場を特定し、近々総力を上げて踏み込む段取りをつけている。彼はそこから逃げ出すだろうから、ともこの打球で足止めをしてほしいとのこと—

「是非とも君に引き受けて欲しいんだ」

「別に私じゃなくても、ライフルを使える人間に脚を狙わせればいい話じゃない?」

「万が一犯人を殺してしまう可能性がある。我々としては上原を生きたまま確保して、他に握っている情報を聞き出したいんだよ」

「ボールだって当たりどころを間違えたら死ぬ」

 本部長は依頼を快諾してくれないともこの態度に少し苛ついた。

「この世界で隠し事はよくない。自分の身を滅ぼしかねないから。私は依頼の理由を正直に話してくれる人しか仕事をひきうけていないんだ」

 ともこはそう言って立ち去ろうとした。

 本部長は待ってくれと言って、表情に少しだけ悔しさを滲ませる。

「……精確な技術が必要なんだ」

「ライフルを使ってうっかり犯人を殺したり、周りの警官に被害が及べば現場指揮を執っているあんたの責任になる。そのことで今まで歩いてきた出世街道から外れるのが嫌だから、私にお願いしにきたんでしょ?」

 ともこはとくに興味もなさげに話す。

「ふん。お前に何がわかる…」

 本部長はともこの様子に腹が立ち、舌打ちして吐き捨てた。

「俺はタイミングが悪かっただけだ。世界が平和そのものだったら、何にも面倒ごとを抱えず、出世街道を歩むはずだったのに、まさか、こんなことになるなんて…」

 本部長はともこを睨みつけた。この俺がどうして女子高生に金を払って大切な仕事を頼まなくてはいけないのか。自分のことが情けなくなってくる。

「そう。依頼金の振り込みが確認でき次第、仕事にとりかかるから…」

 ともこはそう言って立ち去った。


—とある山中—


 生い茂った木のせいで陽の光りがまばらにしか入って来ず、絶えず湿っているアスファルトの舗装路から二股に分かれる砂利道があった。そこには『私有地につき立ち入り禁止』と書かれた錆びついた看板が置かれていた。ともこは車を止めて看板を退けてから、再び車を進める。

 やがて道が尽きたところで車を止めると、そこから歩いて5分ほどのところに開けた場所があった。そこから、80メートルぐらい先を見下ろせる位置に、廃工場のような古びた建物があり、隣に不釣り合いなぐらいに真新しい一戸建てと、扉の空いている物置が建っていた。その隣は芝生が整えられた区画があって、小さなサッカーゴールが置いてあった。

 ともこはいつものようにユニフォームを羽織り、バットを取り出す。

 千尋は1球のボールをポケットから取り出し、双眼鏡で工場の視察をはじめた。

「あそこが覚醒剤を作っているところか…」

 千尋は興味深く工場を観察した後、工場の設計図を確認する。出入り口は正面と裏口だけだ。警察は正面から入ってくるから、必然的に裏口しか逃げ道がなくなる。再び双眼鏡を覗いて注意深く工場の周りの窓と窓の近くを観察するが、特に変わった様子はない。

 しばらくすると、一戸建てから女と少年が出てきた。少年はまだ中学1年生ぐらいの身長の高さで、女に手を引っ張られて出てきたところを見ると、親子らしい。彼らは何か言い合いをしながら駐車場に止めてあった青い車に乗って、何処かへ走り去った。

「上原雄太の妻と息子ってところかな…」

 千尋は双眼鏡を覗いたままともこの方をみた。

「あれから、バットにボールが当たるようになったの?」

 ともこに話しかけるが、ともこは何も答えず、素振りをしていた。

 あの様子なら大丈夫だ。いつものともこに戻っている。

 千尋は腕時計を見た。警察が踏み込むまで15分も時間がある…。


 やがて複数の警察官が工場の正面をかためて、そのうちの一人が工場の玄関のインターホンを押した。

 ともこはいつものように片手でバットを狙いの方角へ立てて、開いた方の片手を、水滴を払うように軽く振ってから構えた。

 玄関から出てきた一人の男は警察の何か言い合いになり、取っ組み合いになった。警察の男が銃で撃たれ、工場から出てきた仲間と警察の間で銃撃戦になった。その争いに乗じて一人の男が工場の窓を突き破って出てきた。上原雄太だ。彼は裏口の駐車場に用意していた車へ走り出した。

「ありゃ? そっちから出るか」

 千尋は短く呟いたあと、いつものようにともこにボールをトスした。ともこは上原が裏口から出て来なかったことに動じず、狙っている方角を素早く微調整し、バットを振った。バットは鞭のようにしなり、ボールを精確に捉えた。ボールは鋭いライナーになり、上原の足に当たった。彼は足をもつれさせ、派手に転んだ。彼に当たったボールは勢いを持ったまま物置に飛んで壁にぶち当たり、派手な音をならす。衝撃でサッカーボールが物置から転がって出てきた。

 ともこはプロゴルファーのように体をしならせたまま、打球の行方を見届けた後、物置かから出てきたボロボロのサッカーボールを見つけた。

「さすが」

 千尋は目の上に手を当てて庇を作って上原が転ぶ様子を見届けていた。

「千尋。双眼鏡貸して」

 ともこは千尋から双眼鏡受け取り、サッカーボールを見た。

「……そういうことか」


 ともこと千尋は車に戻り、工場にサッカーボールを取りに行くために来た道を戻っていると、すれ違いそうになった警官が車を止めた。

 ともこはウインドウを下げて、警官の方を見た。

「ちょっと免許証を見せてくれるかな? ドライバーさん、かなり若く見えるからね」

 警官は感じよく促したが、ともこは明らかに免許を取れる年齢に達していないと思っていた。しかも、学校の制服を着ているともこを見て、疑いを強める。

「…………」

 ともこは黙ったまま、警官を見つめ返す。

「うん? 免許証、持ってないのかな? ちょっと車から降りてきてもらえる?」

 警官が降りるように促しても、ともこは応じず、警官を見つめ返す。

 警官はともこの様子をみて、首を捻りながら、

「どうして黙ったままなのかな?」と訊ねると、ともこは不意に視線を外した。警官もつられてともこの見た方をみると、本部長がやってきた。

「その子を行かせなさい」

 本部長は警官に言った。

「どうしてですか?」

 まがったことが許せない警官は本部長の言葉に眉をしかめる。

「どうしてもだ。君には関係のない話だ」


—とある中学校—


 上原将太は転校のための挨拶をクラスメイトに済ませた後、母親の車に乗り込んだ。親父があんなことにならなければ、あの仲間達とつるんで遊んでいられたのに、どうしてあんなことに…。

 将太はやり場のない気持ちを抱えながら、後部座席の窓を開けて、風にあたりながら考えに耽った。

 結局、先輩に誘われて入った野球部はつまらなくて辞めようと思っていたけど、まさかこんな形で辞めるなんて思わなかったな。転校した先で野球を続けようとも思えないし……、今更サッカーは……どうしようかな……。

 少年はスマホの画面を見た。壁紙にはサッカー選手のロナウドが設定してあった。時間は11時10分だ。


—とある中学の近くにある山—


「準備はオッケー?」

 千尋が訊ねるとともこは首を縦に振った。いつものようにユニフォームをきて、ストレッチをする。

 千尋は双眼鏡を覗き、中学校から青い車が出てきたのを確認して、ともこに合図を送る。

 ともこは強めの助走をつけて、サインペンで将太と名前の書かれたボロボロのサッカーボールを蹴り上げた。サッカーボールは曲がりながら、青い車の後部座席に入った。

「ナイスシュート。サッカーもいけるじゃん」

 千尋はボールの行方を見届けた。

「完全にスランプから抜け出してるね」

 千尋ともこはフッと鼻で笑う。

「なんか違うけど…まあ、いいや」

 ともこは足についた土を払った。

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