声は霖雨に掻き消され
未空
二人の幸せ
その日は、朝から雨が降り続く薄暗い日だった__。
二〇十八年の六月の初め。俺達の幸せな日常は終わりを告げられる。
俺__天倉
「貴方の妹さんは、癌にかかっています」
「癌、ですか」
コンピュータや書類の置かれた机。その横に座る医師に告げられる。床や壁は真っ白で俺の黒の服がより一層目立っていた。
「えぇ、肺癌です。」
それは、癌の中でも良く聞く__俺の記憶では、死亡数がかなり多い癌。
「そして、非常に申し上げにくいのですが、妹さんはステージ四だと思われます。余命は、後一ヶ月程かと」
梨乃と一緒に過ごせるのは、あと一ヶ月。
その日の後の事は、あまり覚えていない。癌の事を梨乃に伝えた後、病室を離れ、独り、泣いた。一番辛いのは梨乃だとわかっていた。でも、梨乃が居ない世界は考えたくもなかった。
次の日、六月八日。梨乃の入院が決まった。
「ごめんな。癌に気付かなくて」
真っ白な壁で出来た個室の病室。ベッドの上に梨乃は座っている。
梨乃は昨日の夜、呼吸困難になり倒れた。病気で検査を行ってもらうと、診断の結果肺癌となった。
「お兄ちゃんは悪くないよ。お見舞い来てくれるんだよね?」
「一緒に居たいけど、仕事があるからな。でも毎日来るから」
「うん。楽しみにしておくね」
俺は普通の会社員。妹の癌で仕事を休む訳にもいかない。
「天倉さん。一度診察しますね」
一人の看護師がドアを静かに開け、誰も座っていない車椅子を押しながら入ってくる。
「座れますか?」
「はい。大丈夫、です」
梨乃は車椅子に移るのも辛そうだった。
「お兄さんは待たれますか?」
「今日はもう帰ります」
明日は何時も通りに仕事だ。梨乃と一緒に病室を出た後、梨乃をその場で見送った。その背中は、何故か寂しく感じた。
その後、毎日梨乃のお見舞いに行った。その日にあった事、梨乃が病院で思った事などお互いに様々な話をした。話を聞いていると、楽しく過ごしているようで安心した。梨乃が辛そうにしている時は、見守る事しか出来ない自分を恨んだ。でも梨乃は、俺の前では一切辛い所を見せなかった。俺の前では何時も笑っていた。その笑顔はとても可愛らしく、見ていて嬉しいものであったし、辛く、見たくないものでもあった。
七月一日、病室に今までなかったものが飾られていた。
「七夕の笹、ですか」
「はい。もう七月になりましたからね」
俺が病室に入ると、看護師さんが梨乃の昼ご飯を持って病室に来ていた。
「どうです?折角ですから、短冊に何か書いて飾りましょうか?」
「折角ですからそうしましょうか。梨乃もする? 」
「うん! 短冊とか久し振りだね」
看護師さんからベッドの横の棚の上に置いてあった短冊を貰い、ペンを貸してもらった。俺は、『大好きな梨乃と一緒にもう一度旅行が出来ますように』と書いた。約四年前、俺たちは二人で旅行に行った。俺はその時の事が忘れられず、ずっともう一度行きたいと思っていた。
梨乃は直ぐに書き終わったらしく、此方を見つめている。
「お兄ちゃんは何を書いたの?」
「梨乃ともう一度旅行に行けますようにって書いた。あの時は本当に楽しかったからな」
「旅行?……あぁ、あの時の。うん、もう一度行きたいね」
「因みに、梨乃は何を書いたんだ?」
「教えないよ。飾っても見ちゃ駄目だからね?あ、看護師さんもだよ?」
「そうか、分かったよ」
「私もですか?わかりました」
梨乃の願い……気になるが、見ないでと言われたら見るわけにはいかない。
看護師さんに短冊を渡す。看護師さんは嬉しそうに俺達を見ながら、短冊を笹に付けた。その後、笹は病室の小さなベランダの様な場所に飾られた。
その後も、俺は毎日お見舞いに行った。土曜は病室に泊まる日もあった。だが、お見舞いに行っても梨乃が辛い所を見せる事は殆ど無かった。
しかし、日が経つにつれて症状は悪化していった。咳や痰、胸や背中の痛み等も頻繁に起こるようになっていた。呼吸困難になる事も少なくは無かった。
いつも通り病室に入ると、梨乃がベッドの上で読書をしていた。
「おはよう、梨乃。その本、本当に好きだね」
その本は、梨乃が中学校一年生の時に俺が買ってあげた本だった。
「え、あぁ、うん」
「どんな内容なんだ?」
質問しながら、ベッドの横の椅子に座る。
「えっと……主人公が誘拐された親友を助けるお話?」
「なんで疑問形なんだ?っていうか、それ面白いのか?」
「うん。面白いと思うよ」
「そっか。梨乃が好きな事をして過ごせてるなら安心だ」
その後も暫く二人で話していた。
約一時間後。突然、病室の扉が二回ノックされ、開けられた。
「えっと、梨乃ちゃん居ますか……?」
その声の主は、梨乃のクラスメイトで友達の
「あ、灯ちゃん!久しぶりだね」
「先生が急に入院って言うからびっくりしたんだよ」
「あはは。ごめんね」
「あぁ、二人で話した方が良いよね。俺は一旦出て行くから、座ってて良いよ」
椅子から立ち上がり、灯ちゃんに譲る。
「わざわざすみません。此処に居ても良いのに」
「いや、俺の事は気にせずに二人で話してて良いよ。あ、それと、わざわざお見舞いに来てくれてありがとう」
「ありがとうございます」
灯ちゃんが椅子に座り、梨乃と会話を始める。俺は荷物を持ってベッドから離れ、扉に向かって歩き出す。ふと、二人の会話が耳にさわった。
「もう、今年の夏は二人で旅行しようって言ってたじゃん」
「ごめんね。私も楽しみにしてたんだよ?」
「また四年前みたいに二人で楽しく過ごせると思ったのになぁ……」
「四年前、かぁ……」
「四年間って早いね……あの時の事、覚えてる?」
「あの時?……え、うん。覚えてるよ」
扉を閉めると、話し声は聞こえなくなった。
その後、数日が経った。
迎えたくなかったその日は、直ぐに来た。
梨乃はとても辛そうだった。でも、最後まで俺に笑顔を見せようとしてくれた。その笑顔に、無理はしないでと言う事は俺なんかには出来なかった。
「……お兄ちゃん……ずっと、大好き……だからね……今まで、本当に……ありがとう……」
梨乃が声を振り絞りそう言ってくれた。俺は泣くのを辞め、笑顔で話しかけた。
「俺が梨乃と変わってやれたら良かったのに……いや、そんな事を言っても仕方ないか……梨乃。俺こそ梨乃に感謝してる。今まで、本当に、本当に、本当にありがとう。世界で一番、大好きだよ。梨乃」
梨乃に顔を寄せてそう言った。梨乃が笑ったのが分かった。
梨乃は俺の手の中で、最後を迎えた。
ずっと泣いたし、拒絶から吐いたりもした。その日は一日中、気持ち悪い位に呻き声を上げていた。
「天倉さん……」
俺のかけがえのない存在がいなくなった次の日。俺は病室のもう誰もいないベッドの横で、床に座って下を向いていた。誰もいない、空っぽの病室。
「すみません。見っともないですよね」
「いえ……」
「ずっと病室ここにいるのも迷惑ですよね」
下を向いたまま会話を続ける。今の顔を看護師さんに見せる気にはならなかった。
「夕方まで此処に居てもらって構いませんよ。梨乃ちゃんの物も幾つかありますし、お持ち帰り下さい」
「すみません」
「何かあったらお呼びくださいね」
看護師さんは静かに出て言った。
ふと窓の外を見ると、外は薄暗くなり、酷く雨が降っていた。雨音に気付かないくらい泣いていた自分がみっともなく感じた。
ふと、ベランダにある七夕の笹が視界に入った。そういえば梨乃の願いは……今はもういない、梨乃の願い。
窓の外を観て、病室に雨が入らない事を確認した後、窓を開けて手を伸ばした。笹を病室に寄せる。自分の短冊を取ろうと必死に手を伸ばし、掴む。取れる、と思った瞬間、短冊は直ぐに破れ、雨に流された。梨乃の短冊は破れないようにと、ゆっくり慎重に笹から外した。短冊を右手に持ったまま、笹を戻し窓を閉めた。梨乃願いが書かれた短冊を見る。
『お兄ちゃんがこれを見ている時、わたしはこの世に居ないと思う。だから、一つだけ伝言です。ベッドの隣の棚の一番上の引き出しを開けてみてください』
「なにこれ……?……伝えたい事?」
まさか、梨乃が手紙を遺していたなんて。訳も分からなかったが、引き出しを開け手紙を見つける。
『私の大好きなお兄ちゃんへ』
手紙は茶封筒に折り畳まれて入れられていた。止めてあるシールを剥がし、手紙を取り出す。一度深呼吸をし、手紙を開けた。
『早速本題に入るね。お兄ちゃんに黙っていた事を伝えたいと思います。私は、記憶が無くなってきています。
書いている今は七月六日。今の私には四年前の記憶も無い。黙っててごめん。お兄ちゃんの前では元気な梨乃でいたかった。記憶が無くても、それは変えたくなかったの。看護師さんたちには私が口止めしたの。怒ったりしないでね?
最後に。私はずっと側に居てくれたお兄ちゃんが大好きです。お兄ちゃんの妹になれて良かった。本当にありがとう。私は記憶が無くなって、もう忘れてしまった事も多いけど、お兄ちゃんが一生覚えててくれるよね?今までの私と過ごした時間、大切な思い出、私という妹の存在。
今までありがとう。これからも頑張ってね。
妹の梨乃より」
手紙には幾つかのシミがあった。
なんで俺は気付かなかった?
四年前の旅行の話をすると、梨乃は笑って誤魔化しているようだった。灯ちゃんが来て居た時も、同じ。
俺は気付かなかった。厭、自分から気付く努力をしなかった。梨乃が癌になっていた事も。記憶を無くしているという事も。一人で、ずっと独りで悩み、苦しんで来た事も。
病院には奇妙な呻き声が響き、手紙は更にシミを作るように濡らされていた。
声は霖雨に掻き消され 未空 @mia_avenir
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