声は霖雨に掻き消され

未空

二人の幸せ

 その日は、朝から雨が降り続く薄暗い日だった__。




 二〇十八年の六月の初め。俺達の幸せな日常は終わりを告げられる。

 俺__天倉 涼介りょうすけとその妹、天倉梨乃りのは両親を交通事故で亡くし、二人で暮らしていた。だが、梨乃ががんにかかっていた事が発覚した。今まで十七年間一緒に過ごして来たが、梨乃が癌になる一度も考えた事はなかった。

「貴方の妹さんは、癌にかかっています」

「癌、ですか」

 コンピュータや書類の置かれた机。その横に座る医師に告げられる。床や壁は真っ白で俺の黒の服がより一層目立っていた。

「えぇ、肺癌です。」

 それは、癌の中でも良く聞く__俺の記憶では、死亡数がかなり多い癌。

「そして、非常に申し上げにくいのですが、妹さんはステージ四だと思われます。余命は、後一ヶ月程かと」

 梨乃と一緒に過ごせるのは、あと一ヶ月。

 その日の後の事は、あまり覚えていない。癌の事を梨乃に伝えた後、病室を離れ、独り、泣いた。一番辛いのは梨乃だとわかっていた。でも、梨乃が居ない世界は考えたくもなかった。




 次の日、六月八日。梨乃の入院が決まった。

「ごめんな。癌に気付かなくて」

 真っ白な壁で出来た個室の病室。ベッドの上に梨乃は座っている。

 梨乃は昨日の夜、呼吸困難になり倒れた。病気で検査を行ってもらうと、診断の結果肺癌となった。

「お兄ちゃんは悪くないよ。お見舞い来てくれるんだよね?」

「一緒に居たいけど、仕事があるからな。でも毎日来るから」

「うん。楽しみにしておくね」

 俺は普通の会社員。妹の癌で仕事を休む訳にもいかない。

「天倉さん。一度診察しますね」

 一人の看護師がドアを静かに開け、誰も座っていない車椅子を押しながら入ってくる。

「座れますか?」

「はい。大丈夫、です」

 梨乃は車椅子に移るのも辛そうだった。

「お兄さんは待たれますか?」

「今日はもう帰ります」

 明日は何時も通りに仕事だ。梨乃と一緒に病室を出た後、梨乃をその場で見送った。その背中は、何故か寂しく感じた。




 その後、毎日梨乃のお見舞いに行った。その日にあった事、梨乃が病院で思った事などお互いに様々な話をした。話を聞いていると、楽しく過ごしているようで安心した。梨乃が辛そうにしている時は、見守る事しか出来ない自分を恨んだ。でも梨乃は、俺の前では一切辛い所を見せなかった。俺の前では何時も笑っていた。その笑顔はとても可愛らしく、見ていて嬉しいものであったし、辛く、見たくないものでもあった。




 七月一日、病室に今までなかったものが飾られていた。

「七夕の笹、ですか」

「はい。もう七月になりましたからね」

 俺が病室に入ると、看護師さんが梨乃の昼ご飯を持って病室に来ていた。

「どうです?折角ですから、短冊に何か書いて飾りましょうか?」

「折角ですからそうしましょうか。梨乃もする? 」

「うん! 短冊とか久し振りだね」

 看護師さんからベッドの横の棚の上に置いてあった短冊を貰い、ペンを貸してもらった。俺は、『大好きな梨乃と一緒にもう一度旅行が出来ますように』と書いた。約四年前、俺たちは二人で旅行に行った。俺はその時の事が忘れられず、ずっともう一度行きたいと思っていた。

 梨乃は直ぐに書き終わったらしく、此方を見つめている。

「お兄ちゃんは何を書いたの?」

「梨乃ともう一度旅行に行けますようにって書いた。あの時は本当に楽しかったからな」

「旅行?……あぁ、あの時の。うん、もう一度行きたいね」

「因みに、梨乃は何を書いたんだ?」

「教えないよ。飾っても見ちゃ駄目だからね?あ、看護師さんもだよ?」

「そうか、分かったよ」

「私もですか?わかりました」

 梨乃の願い……気になるが、見ないでと言われたら見るわけにはいかない。

 看護師さんに短冊を渡す。看護師さんは嬉しそうに俺達を見ながら、短冊を笹に付けた。その後、笹は病室の小さなベランダの様な場所に飾られた。




 その後も、俺は毎日お見舞いに行った。土曜は病室に泊まる日もあった。だが、お見舞いに行っても梨乃が辛い所を見せる事は殆ど無かった。

 しかし、日が経つにつれて症状は悪化していった。咳や痰、胸や背中の痛み等も頻繁に起こるようになっていた。呼吸困難になる事も少なくは無かった。




 いつも通り病室に入ると、梨乃がベッドの上で読書をしていた。

「おはよう、梨乃。その本、本当に好きだね」

 その本は、梨乃が中学校一年生の時に俺が買ってあげた本だった。

「え、あぁ、うん」

「どんな内容なんだ?」

 質問しながら、ベッドの横の椅子に座る。

「えっと……主人公が誘拐された親友を助けるお話?」

「なんで疑問形なんだ?っていうか、それ面白いのか?」

「うん。面白いと思うよ」

「そっか。梨乃が好きな事をして過ごせてるなら安心だ」

 その後も暫く二人で話していた。

 約一時間後。突然、病室の扉が二回ノックされ、開けられた。

「えっと、梨乃ちゃん居ますか……?」

 その声の主は、梨乃のクラスメイトで友達の露崎灯つゆざきあかりだった。

「あ、灯ちゃん!久しぶりだね」

「先生が急に入院って言うからびっくりしたんだよ」

「あはは。ごめんね」

「あぁ、二人で話した方が良いよね。俺は一旦出て行くから、座ってて良いよ」

 椅子から立ち上がり、灯ちゃんに譲る。

「わざわざすみません。此処に居ても良いのに」

「いや、俺の事は気にせずに二人で話してて良いよ。あ、それと、わざわざお見舞いに来てくれてありがとう」

「ありがとうございます」

 灯ちゃんが椅子に座り、梨乃と会話を始める。俺は荷物を持ってベッドから離れ、扉に向かって歩き出す。ふと、二人の会話が耳にさわった。

「もう、今年の夏は二人で旅行しようって言ってたじゃん」

「ごめんね。私も楽しみにしてたんだよ?」

「また四年前みたいに二人で楽しく過ごせると思ったのになぁ……」

「四年前、かぁ……」

「四年間って早いね……あの時の事、覚えてる?」

「あの時?……え、うん。覚えてるよ」

 扉を閉めると、話し声は聞こえなくなった。




 その後、数日が経った。




 迎えたくなかったその日は、直ぐに来た。

 梨乃はとても辛そうだった。でも、最後まで俺に笑顔を見せようとしてくれた。その笑顔に、無理はしないでと言う事は俺なんかには出来なかった。

「……お兄ちゃん……ずっと、大好き……だからね……今まで、本当に……ありがとう……」

梨乃が声を振り絞りそう言ってくれた。俺は泣くのを辞め、笑顔で話しかけた。

「俺が梨乃と変わってやれたら良かったのに……いや、そんな事を言っても仕方ないか……梨乃。俺こそ梨乃に感謝してる。今まで、本当に、本当に、本当にありがとう。世界で一番、大好きだよ。梨乃」

 梨乃に顔を寄せてそう言った。梨乃が笑ったのが分かった。



 梨乃は俺の手の中で、最後を迎えた。




 ずっと泣いたし、拒絶から吐いたりもした。その日は一日中、気持ち悪い位に呻き声を上げていた。




「天倉さん……」

 俺のかけがえのない存在がいなくなった次の日。俺は病室のもう誰もいないベッドの横で、床に座って下を向いていた。誰もいない、空っぽの病室。

「すみません。見っともないですよね」

「いえ……」

「ずっと病室ここにいるのも迷惑ですよね」

 下を向いたまま会話を続ける。今の顔を看護師さんに見せる気にはならなかった。

「夕方まで此処に居てもらって構いませんよ。梨乃ちゃんの物も幾つかありますし、お持ち帰り下さい」

「すみません」

「何かあったらお呼びくださいね」

 看護師さんは静かに出て言った。




 ふと窓の外を見ると、外は薄暗くなり、酷く雨が降っていた。雨音に気付かないくらい泣いていた自分がみっともなく感じた。

 ふと、ベランダにある七夕の笹が視界に入った。そういえば梨乃の願いは……今はもういない、梨乃の願い。

 窓の外を観て、病室に雨が入らない事を確認した後、窓を開けて手を伸ばした。笹を病室に寄せる。自分の短冊を取ろうと必死に手を伸ばし、掴む。取れる、と思った瞬間、短冊は直ぐに破れ、雨に流された。梨乃の短冊は破れないようにと、ゆっくり慎重に笹から外した。短冊を右手に持ったまま、笹を戻し窓を閉めた。梨乃願いが書かれた短冊を見る。

『お兄ちゃんがこれを見ている時、わたしはこの世に居ないと思う。だから、一つだけ伝言です。ベッドの隣の棚の一番上の引き出しを開けてみてください』

「なにこれ……?……伝えたい事?」

 まさか、梨乃が手紙を遺していたなんて。訳も分からなかったが、引き出しを開け手紙を見つける。

『私の大好きなお兄ちゃんへ』

手紙は茶封筒に折り畳まれて入れられていた。止めてあるシールを剥がし、手紙を取り出す。一度深呼吸をし、手紙を開けた。

『早速本題に入るね。お兄ちゃんに黙っていた事を伝えたいと思います。私は、記憶が無くなってきています。

 書いている今は七月六日。今の私には四年前の記憶も無い。黙っててごめん。お兄ちゃんの前では元気な梨乃でいたかった。記憶が無くても、それは変えたくなかったの。看護師さんたちには私が口止めしたの。怒ったりしないでね?

 最後に。私はずっと側に居てくれたお兄ちゃんが大好きです。お兄ちゃんの妹になれて良かった。本当にありがとう。私は記憶が無くなって、もう忘れてしまった事も多いけど、お兄ちゃんが一生覚えててくれるよね?今までの私と過ごした時間、大切な思い出、私という妹の存在。

 今までありがとう。これからも頑張ってね。

妹の梨乃より」

 手紙には幾つかのシミがあった。




 なんで俺は気付かなかった?

 四年前の旅行の話をすると、梨乃は笑って誤魔化しているようだった。灯ちゃんが来て居た時も、同じ。




 俺は気付かなかった。厭、自分から気付く努力をしなかった。梨乃が癌になっていた事も。記憶を無くしているという事も。一人で、ずっと独りで悩み、苦しんで来た事も。




病院には奇妙な呻き声が響き、手紙は更にシミを作るように濡らされていた。

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