第3話 逃亡

 そうして、答えを得られないまま次の狩りの報せが来て、三日と開けず大樹の元に走ることになったその日。

 光の塊のような果実が降る中を一つでも多く自分の腰袋に入れようと、誰もが血眼になっていた。だがその幻想的なのに俗物的な景色の中で、あおぎりは一つのものに目を奪われていた。

 それは、抜き身の刀を手に次々と果実を冬青村の連中から奪っていく、河骨こうほね村の女戦士だった。後頭部で結われた艶やかな黒髪は下ろしたばかりの筆墨のような美しさで背まで流れ、そのまなじりは朱を引いたように仄かに赤い。そのくせ頬は硬質なまでに青白く、その心には何の火も灯っていないようだった。

(違う)

 と、梧は思った。彼女の頑なな美しさはいつもだが、あんなにも生気のない表情は初めてだった。そして気付けば、果実を奪おうと接近してきた彼女に一瞬の内に組み伏せられていた。

(しまった、見過ぎた)

 右肩に女の細腕が圧し掛かる。女は鬼の形相で切っ先を梧の眉間に突き付けていた。けれどその背後に降るのは相変わらず美しいばかりの果実と葉の雨で、梧はこんな時なのにうっかり見惚れてしまった。

「渡せ。渡す気がないなら殺して奪う」

「っま、待て!」

 まるで機械が喋るようなその声に、はっと正気に返る。忠告はけれど一瞬で、梧が体に力を込めた時にはその切っ先がまさに眉間の皮膚を破ろうという時だった。咄嗟に体が動いて、左手では柄を握る手を、右手では肩を押さえる脇を、両足では女の膝裏を絡めて、次の瞬間には体勢をすっかり逆転させていた。

「な……!」

「あっ……」

 梧の腕の下で、女が驚きに目を瞠る。だが組み伏した梧の方がずっと驚いていた。ずっと狩りに出る度に目を奪われていた女が今、未だ黄金に輝く落葉と根の光に包まれ、眼前にいるのだから。

 身を守るという目的を達した梧は、けれどこれ以上どうしたら良いか分からなかった。ただ腕の下で広がった髪や光を反射する頬を見るばかりだった。と、

「……あと一つ、与えてあげていれば……」

 本当に微かに、女がそう口の中で囁いた気がした。

「それは……」

「殺せ!」

 梧の問いを、すぐ背後に迫った怒声が掻き消す。戦士頭の枳だ。他にも複数の足音が同じくこちらに迫ってくる。

 だが梧が真っ先に思ったのは、

(従えない)

 だった。躊躇いは一瞬で、次には本能に従うように体を跳ね起こす。そして組み伏していた女の手を握ると、攫うように逃げ出していた。

「……はっ?」

 女が、間の抜けた声を上げる。

 それは時に堅物とさえ言われる梧の、初めての命令違反だった。両村の戦士たちが一瞬動きを止めて、それから驚きとともに追いかける。だが二人の姿はその一瞬のうちに、大樹を囲む緑の森の中に紛れる所まで来ていた。

「あ、そうだ」

 その寸前、梧は自分の腰袋と女のそれを引きちぎるようにしてその場に投げ捨てると、改めて緑の向こうへと飛び込んだ。



「どういうつもりだ」

 ずっと細腕を掴んだまま山の奥の奥へと走り続け、山頂付近にある泉に出て歩を緩めたところで、やっと女が口を開いた。

 歩みを完全に止めてから、背後を振り返る。白い肌を上気させ、黒髪を首筋に張り付かせた姿は、全身に敵意が溢れていると言うのに相変わらず美しかった。

 その視線がつと下に滑る。追いかけると、彼女の白い腕を掴んだままの自分の腕が見え、慌ててパッと手を放した。

「あっ、いや、済まない。他意はなかったんだが」

 家族以外の女性に触れたことのなかった梧は、顔を赤らめて言い訳する。だが女が欲しかった言葉はどうやらそちらではなさそうだった。

「他意など聞いていない。何故おれを殺さないのかと聞いている」

「殺す?」

 予想外の返しに、梧は阿呆のように問い返すしか出来なかった。そして思い出す。そう言えば、狩りから逃げて来たのだったと。

(しまった……そんなつもりはなかったのだが)

 今になって、自分がとんでもないことをしてしまったと気付く。しかし何故こんなことをしたのか、自分のことなのに分からなかった。だが、女の質問には答えることができる。

「必要がないからだ」

 梧は落ち着きを取り戻して、女の深い黒曜石のような瞳を真正面から見つめ返した。切れ長の大きな瞳がゆっくりと見開かれるさまさえ艶めかしい、と梧は思った。

「必要がない? 己はお前に刀を向けたのに?」

「向けられただけだ。傷はついていない」

 事実だったが、女の眉間にはぐ、と皺が刻まれた。矜持を傷付けたかとも思ったが、梧は咄嗟に言い訳が出るほど器用でもなかった。

「ここにいては追手に捕まる。もう一山越えよう」

 結局それだけを言って再び走り出す。女は少しばかり逡巡していたが、最後には後ろから同じように走ってついてきた。そうして走り続けて二人が次に口を開いたのは、もう山の端に陽が沈もうかという頃だった。

 次の山に入り、麓から川を辿って中腹に進むところで、野営のために手分けして食料を探す。普段、村では肉食をしない。こんな時でも、食べられる野草や木の実を幾らか見つけられれば、空腹を凌げた。

「ノカンゾウにクズの芽、ヤマノイモのムカゴ……。全部生で食う気か?」

 梧が採ってきたものに、女が呆れたような声を上げる。

「どれも火を通した方が旨いが、生食でも食えるぞ?」

 梧は意地になるわけでもなく、思ったままを口にしたのだが、完全に興味を失われた。そのまま女が自分の懐のものを取り出す。

「アケビにヤマボウシ、サルナシまである。すずなは凄いな。旨そうなのばかりだ」

「……なぜ己の名を知っている」

「あ」

 素直に感嘆した梧は、言われて初めて失言に気付いた。だが言われて気付いても後の祭りだ。

 特に反目もせずついてきていた女――菘の目に、初めて不審が芽生えた。梧は何と言おうか迷ったが、突然言い訳が上手くなるわけでもない。結局事実をそのまま口にした。

「前々から、お前の狩りの様子を見ていて、顔は知っていた。名は、河骨村の者がそう呼ぶのを聞いて、知った。……悪い」

 失敗を叱られた子供のように、梧が頭を下げて項垂れる。実は初めて見た時から目を奪われ、見かける度に目で追っていたのだが、それは流石に恥ずかしくて言えなかった。

「素性を探り、弱った所をつけこんで、利用しようとしていたのか」

「? 何にだ?」

 頭を上げた梧が、実に純朴な目で問い返す。何のことか全く分からなかった梧はただ素直に答えを待ち続けたが、

「……もういい」

 返されたのは小さな溜息と、少しの苛立ちと呆れがないまぜになったそんな一言だった。

 結局まともな意思疎通は出来ないまま会話が終了する、と思えた沈黙の最後。

「お前の名は」

 菘がぽつりとそう問うた。

「あ、俺は冬青そよご村の梧だ」

 そうだった、と梧が真面目くさって自己紹介する。それで今度こそ会話は終わり、二人は黙って粗末な夕餉ゆうげを腹に収めた。



「追手は、どこまで来るだろうか」

 夜。半輪の片割れ月が白く輝く中、光を弾く星と雲とをぼうと眺めながら、梧は思考の渦の一端をぽろりと零した。菘は少し離れた位置で寝ている。答えは求めていなかった。が、意外にも少し低めの凛とした声は上がった。

「果実を持っていない裏切者など、追う必要もないだろう。大樹に近付いたら殺されるくらいだ」

 確かに、梧は仕事の途中で逃げ出したが、果実は置いてきた。河骨村の人間を攫いはしたが、冬青村がそれで動くとも思えない。心配なのは菘のいた村の方だが、菘がそう言うのならば恐らく間違いないだろう。

 元々、大樹は二つの村の命を支えているが、それはとても閉鎖的だ。梧が知るだけでも、大樹のために余所者が訪れたことは一度もない。村の最年長である樒媼でも、外の世界を見にいくと出ていった者はいても、帰ってきた者はいなかったと言っていた。

 重要な秘密を知っているわけでも、村の外に加勢を頼むわけでもない二人のために、ただでさえ減っている人手をく理由はなかった。

「そうか。……戻れなくしてしまって、済まない」

 梓の様子は気になるが、自分が戻れない分には平気だった。家には両親に祖母もいる。

 だが菘は女だ。生家に戻れないのは辛いだろう。そう思ったが、菘は酷く無機質に「どうでもいい」と切り捨てた。

「もう、戻る理由もない」

 その言い方はどこか投げやりで、梧は大樹の下で聞いた声を思い出した。

『……あと一つ――』

 もしかしたら、彼女もまた大切な者が病にかかり、果実を奪うのに必死だったのかもしれない。その理由がなくなったということは。

(……いや。それは聞いてはいけないことだ)

 無神経な自覚のある自分を、心の中で諫める。

 会話が止めば、秋の夜風が枝葉を揺らす音や、虫の鳴き声、川のせせらぎが一層夜闇に涼やかに響いた。夜の住人たちのさやかな音色に耳を澄ませながら、目を閉じる。

「お前は、」という、菘の小さな声が聞こえたのは、暫くしてからのことだった。

「何のために逃げた」

 それは、梧が無意識ながらずっと避け続けていた問いだった。菘の声が断罪するというよりは純粋な疑問のようだったから、梧は自然と己の胸に問いかけた。

 まず浮かんだのは、村長の命令。そして次に、梓との会話だった。

「殺さないためだ」

 何度も自問して絞り出された答えは、実に単純なものだった。梧は、愚直なまでに素直だが、そのために「逃げる」という言葉が持つ負の力に惑わされもしなかった。

 梧の取った行動は発作的ではあるものの、理由がある。

「俺は、果実を採るために誰かをあやめるのは嫌だった。果実は命を救うものだ。奪うものであってはならない。……と、思う」

 梧は博識でもなければ哲学に明いわけでもない。持論を振りかざすのは苦手だった。だが今は目の前には賑やかな星と月しかない。それに、菘の声は耳に心地よかった。酒も飲めない梧だが、少しばかり饒舌になるくらいには、この時間に酔っていたのかもしれない。

 だが、返された声はどうしようもなく冷たく、厳しい現実だった。

「逃げても何の解決にもならない」

「それは……その通りだが」

 至論で返され、すぐに言葉に詰まる。村の集会でも、こうなるのが分かっていたから、いつも思うことがあっても口を閉ざしていた。

 けれどこうなっては、沈黙が金とも思えなかった。

「だが争い合うばかりでも解決にはならない。果実は大樹の恵みだ。分け合うべきではないのか?」

 それは、戦士として狩りに出るようになってから、ずっと感じていた疑問だった。あんなにも美しい光景の中、何故両村は優しく与え合うのではなく、仇を見るように奪うのかと。けれどそれもまた、決して口には出せない疑問だと分かっていた。なぜなら。

「果実の降る量は常に一定だ。白枯しろがれ病が蔓延し始めても増えなかった。それならば、潰し合うしかない」

 そう言われるのは明白だったからだ。

 梧は再び言葉を失くし、夜空を見上げるしかなくなった。こんな会話をすれば、行き着く言葉さきは一つしかない。だから皆ずっと無意識のうちに避けてきたのではないか。

 だが村から離れた今、考えないわけにはいかなかった。

「……滅びる運命、なのだろうか」

 それは、いつかに梓がぽつりと零した言葉だった。運命、という言葉は梧はあまり好きではなかったが、それでも今になって出てきたのは、ずっと心に引っかかっていたからだろう。独白のつもりだったが、菘は静かに応じてくれた。

「……大樹の呪いだよ」

 寝物語に母が紡ぐような、優しい程の声音だった。梧が何か言えないうちに、菘が言葉を重ねる。

「遥か昔には一つの村だった冬青村と河骨村が対立するようになったのも、一説には大樹が原因だったと云うだろう。きっと、その時から呪いは始まっていたんだ。じわじわと、絶望しながら死ぬように」

「そんなはずはない」

「じゃあなんで、大樹にはわけの分からない無数の変な掟ばかりがあるんだ。何故落ちている果実を拾いきっては駄目で、木に生っているものも採っては駄目なんだ」

「それは……」

 咄嗟に反論したが、菘の問いに答えられるものを、梧はひとつも持っていなかった。大樹の掟は幾つもある。だがその理由を、村長も、知恵者でさえ知らない。

「あんな掟、己たちを苦しめるためにあるとしか思えない。病を流行らせたのも、大樹だという噂さえある」

 その噂を、梧も知らないわけではなかった。だが村人は皆大樹の実りを糧に生きている。抜本的な解決策が取れない村人たちには、迷信的な噂を信じない以外に手立てはなかった。

「村の外に、行こうか」

「誰も帰ってこない、外の世界へか」

 不毛な会話だ、と思った。どんな発案をしても不可は分かっている。だからこそ梧たちはこの村に留まり、病に侵されている。

 二人は、それ以上話すこともなくなり、自然と口をつぐんだ。

 夜は静かに深まり、異変は朝方に起きた。

「?」

 鳥の囀りや水の音が弾ける中に、こんこん、と聞き慣れた音が混じっていた。それは、梓の部屋からよく聞こえていたもの。

「! 菘」

 気付いて、梧は慌てて隣で寝ているはずの菘に駆け寄った。許可を取るのも忘れ、左手で脈をとり、右手で額の熱を測る。熱い。

 見ればその腕にも頬にも、梓にあるような白斑が、小さいながら確かに幾つかあった。

「お前、いつから……」

「触るな」

 ぱしりと手を弾かれる。脈は普通だし、口調も弱っていない。どうやらここ数時間での発症らしい。だが放っておけば二日と経たずに白斑が広がり、力が入らなくなるだろう。

 大樹の果実がいる。

「……狩りに行こう」

 立ち上がりとっとと先に進もうとしていた菘の背に向けて、告げる。つ、と振り返った切れ長の瞳が梧を射ると、「あり得ない」と冷たく切り捨てた。

「己たちは村を捨てた。村を捨てた奴に大樹の恵みを得る権利はない」

「関係ないだろ。どこで何をしていようと、命はどれも同じだ」

 菘の言い分が、梧には全く理解できなかった。それではまるで、自分が白く朽ちていくままに任せるとでも言うようではないか。

 自分の村の者が罹患したと知れば、河骨村も無下に追い返したりはしないはずだ。

 だが菘は緩く首を横に振ると、思わぬことを口にした。

「……大樹のことを悪く言ったから、なったんだ。治らないなら、果実の無駄遣いだ」

「馬鹿を言うな!」

 向けていた顔を前に戻し、拒絶を決め込もうとした菘を、梧は肩を掴んで引き戻していた。薄く隈が残る目を見て、初めて怒鳴った。

「ちゃんと治った者もいる。河骨こうほね村にはいないのか?」

 それは出まかせでも慰めでもなかった。果実をきちんと摂取していれば、快方に向かう者も少なからずいた。だからこそ、戦士はこぞって果実を狩るのだ。

 少なくとも冬青村が、ただ死を待つばかりの者たちに限りある命の実を無為に分け与える程、寛容でも慈悲深くもないことを、梧は戦士に――村のみんなのために、自分が果実を持って帰るのだと希望に目を輝かせていた頃に――なってから知った。

「訳の分からないことを言っていないで、果実を採りに行くぞ」

 梧の初めての怒声に驚く菘の腕をむんずと掴み直して、梧はずんずんと山を下り出した。

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