An invisible one

ヒスイ

Episode

 夏の不快な空気が、二人の間に淀んでいた。電車待ちのホームには人がほとんどいない。普通列車しか止まらない小さな駅は、この路線の中でも利用者数がワースト5には入る、らしい。電車の停車位置を示す印が剥げかけているほど、寂れた駅だった。

 息苦しい。曲がりなりにも東京都二十三区内にあるということだろう、ヒートアイランド現象という単語にぴったりな灼熱地獄が目の前に広がっていた。直射日光は駅の屋根が防いでくれるが、アスファルトの道路や室外機の放つ熱までは、面倒を見てはくれないようだった。

 いや、息苦しいのはそのせいではない、と僕は現実逃避気味に分析を加える。たとえ気温が45度になろうと、目の前で室外機が熱気を吐き出そうと、こんなに息苦しくなることはないだろう。原因は明らかに、隣に立っている少女にあった。

 この暑さの中でこれほど爽やかさを演出できる少女もそういないだろう、と思うほど綺麗な人だった。汗を拭う姿だけでも絵になりそうなその少女は、僕と目が合うと、にこり、と笑いかけてくる。僕の額に、汗が増える。息苦しさを感じているのは僕だけのようで、少女は口笛でも吹きそうなほど涼しげな表情だ。

 まぁ、仕方ないよなぁ、と僕は思った。

 普段なら一人になるなり本を開き、電車が来たって気づかないほど集中するような読書の虫である僕に、同性の友人ならともかく、初対面の異性とコミュニケーションが取れるほど、僕は人生経験が豊かではなかった。

 電車が参ります。

 人のいないホームにワンワンとアナウンスが響く。ジトっと汗を吸ったシャツをつまんで、パタパタと仰ぐと、隣で同じことをしている少女と目が合う。

「ごめん、はしたなかった?」

 いえいえ、と即座に首を振ると、よかったぁ、と少女がまた笑う。

「暑いよねぇ、電車の中が冷房効いてるといいけど」

「そうですねぇ……」

 会話が止まる。またシャツをパタパタとして、電車を待つ。

 幸い、電車がすぐに滑り込んできて、二人の間に微妙な空気が流れることはなかった。

「「涼しい~」」

 ドアが開くなり流れてきた冷たい空気に、二人は同じ感想を漏らして、二人して笑う。電車のドアをくぐり、席が空いていないことを知ると、電車のドアが閉まる。

「どこで降りるんだっけ」

 少女は電車のドア横のスペースに陣取ると、路線図を見上げながら聞いてくる」

「僕は……」

 僕はあまり知られていない、これまた普通しか止まらない駅の名前を告げる。へぇ~、私はね、と彼女も降りる駅を告げる。

 彼女が下りるのは僕の降りる駅のひとつ手前の、特急まで止まる大きな駅だった。

「……柿生さんは、降りてから家まで遠いんですか?」

 なけなしの話題を少女、もとい柿生さんに振る。家の話をするのは微妙だったろうか、などと不安が頭の中を駆け巡り、思わず目線を外してしまう。

「ん~と、十五分くらいかな」

「……結構かかりますね、暑いし大変ですね」

「そうだねぇ……鹿島君は?」

「僕は、七分くらいですかね」

「えぇ~いいなぁ~変わってよ~」

 ははは、と乾いた笑いが漏れる。そして再び沈黙が訪れる。

 柿生さんは少し顔を固くして、緊張しているような雰囲気だった。

ほどなくして、柿生さんが再び口を開く。

「あのさ、私の小説、どうだった?」

小説というのは、今日行われた文芸交流会のものだろう。いくつかの学校の文芸部が集まり、小説を見せ合う会合である。今回柿生さんと出会ったのも、この会合の帰り道である。

「僕は好きだったよ」

「そっかぁ……よかったぁ……」

 僕が素直に感想を告げると、柿生さんははぁ、っと息を漏らして、肩の力を抜いた。

「そんなに不安だったの?」

 思わず笑いながら、僕は聞く。

「そりゃ不安ですよ!ちゃんと書いた小説を見せるのなんて、はじめてなんですから!」

 電車内で声を張り上げた柿生さんは、あっ……と声を出して小さくすると、僕をにらみつけてくる。

 僕がなにかを言い返そうとしたとき、電車のドアが開き、人が入ってくる。ここは急行も止まるそこそこ大きな駅だ。ここで電車の待ち合わせをするらしい。

「暑いねぇ……閉めてほしい……」

 外から流れてくる熱気を浴びて、柿生さんはうんざりした顔をする。

「急行、乗らないんですか?」

「ん~、なんかたまにはこういうのもいいかなって」

「こういうの?」

「私、普段は人としゃべらないからね」

「え?」

 驚きだ。こんなにハキハキとしているのに。

「んー、普段はさ、今みたいじゃあないんだよね」

 そういうと、柿生さんは突然後ろに結んでいたゴムを外し、バッグから眼鏡を出してきてかけた。

 ごくり、と僕ののどが鳴る。おろされた髪の毛が外気の熱風にあおられて、さらさらと流れた。熱いはずの空気はどこまでも涼しく見え、まるで別世界のようだった。

「私普段は、眼鏡かけて髪の毛もがっつりかぶってるからさ」

「なんで?」

「ん~」

 そういうと、柿生さんは黙ってしまった。

 そして、柿生さんの雰囲気が変わった。人当たりのよさ一瞬にして消え、人を拒むような雰囲気が代わりに噴出した。柿生さんは自分の髪の毛の先をいじりながら、携帯を取り出していじり始めた。

 隣のホームに急行がやってくる。

 大きな風がホームに流れ込んでくる。当然窓の開いた普通列車の中にも空気が舞い込んできた。その風は、外の都会の空気に交じって、シャンプーの香りがした。

それは決して香水のようなくどさも、華やかさもない、普通の石鹸の香り。その匂いはきっと、柿生さんの髪の毛からしているのだろう、と僕はおもった。

隣のホームに滑り込んできた急行が出発し、そして二人の乗った電車も出発した。

「鹿島君は、いい人だね」

「え?」

「いや、なんでもないよ」

また沈黙。柿生さんはため息を一つして、少し寂し気な風な目を、路線図へと移す。僕は目をそらして窓の外を眺めた。

 車窓を流れる景色が、今までにないほどゆっくり流れているように感じられた。普段読書をしていて見ない景色には、普段にない発見がたくさんあって、それはあたかも本に綴じられた推理小説のエッセンスのようであった。僕はその見えない推理小説の本を読むかのように、施行を巡らせていった。何駅もの間、二人の間には沈黙だけがあった。

 柿生さんに何があったのか。僕にはよくわからなかった。ただ、柿生さんに何らかの事情があって、それが何であるのか知りたい、と思った。

 彼女は携帯をせわしなくいじり続ける。何を考えているのかを、知りたい。

 電車が減速を始める。次は彼女が下りる駅だ。

「ねぇ」

「ん?」

「よかったらさ、友達にならない?」

僕は何気ない風を装って聞く。きっと僕はさわやかな笑みを浮かべているのだろう。

「え?」

「ダメかな」

僕はあわててSNSのIDを、手帳に書いて、それを破って彼女に渡す。

「気が向いたら、ここに連絡してよ」

「え、あの、え?」

 柿生さんは戸惑う。そして、電車のドアが開く。

「それじゃあ、また」

 柿生さんは戸惑いながらも、電車を降りる。そしてドアが閉まる。

 ドア越しに柿生さんと目が合う。

 僕はにっこりと笑いかけて、彼女の姿が遠ざかっていくのを眺める……。


 そんなことを、目の前で降りて行った同級生の女の子見ながら空想して、僕は一人、ため息を漏らすのであった。

 車窓から見える空には、大きな入道雲が浮かんでいた。


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