屋上

「うぅー、寒い」


 どんよりとした雲に覆われた空の下で思わず呟く。

 午前中の授業が終わって昼休みに入ると、すぐに屋上まで上がってきた。階段の一番上にある扉のすぐ横に腰の高さほどの窓があって、それを開けると簡単に侵入できた。

 立ち入り禁止になっている屋上にはなぜだか知らないけど、木製の簡易なベンチがいくつか置かれている。そのうちの一つに腰掛けていると、最近めっきり冷たくなった風がひゅんと吹いて、僕らの間を通り過ぎていった。


「上着着てくればよかったな……」


 もう一度小さな声でそう言ってみるが、相変わらず彼女は返事を返してくれない。すっかり慣れてしまった僕はそんなことを気にも留めず、なんとなく校庭を見下ろした。人気のない校庭を見渡すと、体育館の前にある階段にカップルが座り込んでいるのが見えた。


「去年の僕たちみたいだね」


 じっとその様子を見つめながら思ったことを口に出してみると、隣からは返事の代わりとばかりに、本のページがめくれる音が聞こえてきた。







 僕と彼女は去年の春から付き合い始めた。

 一緒の中学校に通っていた頃からずっと片思いをしていた僕は、同じ高校に入学したことをきっかけに思い切って告白した。

 中学の時は、いつも本ばかり読んでいる彼女に何度も話し掛けようとしたけど、なかなかタイミングが見つからず、気付いたらほとんど会話をすることなく卒業してしまっていた。


 そんなことがあったから、すっかり振られるとばかり思っていたけど、いざ告白してみると返事は意外と嬉しいものだった。 


 それ以来、僕の生活は一気に変わったと思う。今まで家と学校を行き来するだけだった退屈な毎日から一転して、とても心地の良い、満たされた日々が続いた。

 付き合ってみると相手の普段と違う一面が見えてくるというけど、彼女の場合は例外だ。付き合う前と変わらず、普段から無口で僕といる時でさえ本を読んでいることが多い。


 学校内で彼女と過ごすことはほとんどなかった。他の同級生にバレないようにするためだ。正直みんなの前で惚気たい気持ちもあったけど、それが付き合う時にした約束だったから仕方ない。


 僕らはほぼ毎日、放課後に学校から少し離れた公園で待ち合わせをして、大きな池の周りにあるベンチで一緒の時間を過ごした。言葉少なに会話をするときもあれば、黙って本を読む彼女の隣で静かに水面を見つめる日もあった。彼女が読み終わった本をその場で貸してくれる日もあったし、休日はデートもした。

 同級生の中にいるカップルとは少し違った関係性だったかもしれないけど、それでも僕は同じ時間を過ごせるだけで幸せだった。







 付き合ってから初めて迎えた、冬のある日。放課後にいつもの公園のベンチで座っている時になんとなく、からかってみたくなって、隣で本を読む彼女に声を掛けたことがあった。

 辺りは数日かけて降り積もった雪で、公園のいたるところが白く染まっていた。


「本を読むのって、楽しい?」


「……うん」


 グレー色のダッフルコートに身を包んだ彼女は、白い息を吐きながらそう短く返事をすると、分厚いハードカバーの本をぺらりとめくった。

 僕は、膝の上で開いた本に視線を落としているその横顔に、なんでもなさそうにそっと呟く。


「僕と喋ってる時と、どっちが楽しい?」


 意地悪な言葉を真に受けた彼女は困った顔で、視線を開かれた本のページから僕の顔に移す。

 遠くの方でがさっと、雪が地面に落ちる音が聞こえた。

 僕が何も言わずに返事を待っていると、しばらくして彼女は顔を少し赤くしながら、


「君の隣で本を読むのが一番楽しいよ」


 と、そう答えた。

 それきり彼女は頬をほんのりと赤らめたまま、ぼーっとした様子で地面を見つめて固まってしまう。


 ちょっとした気まぐれで聞いてみただけだったのに、予想外の反応を見せた彼女。それがまた、これ以上ないくらいに可愛く思えて、気付いたら僕は本の上に置いている彼女の手を握っていた。彼女も少し戸惑った表情を見せたけれど、すぐに握り返してくれる。

 僕はうつむいたままの彼女を覗き込むようにして、そっと、唇を重ねた。

 一瞬のことだったけど、彼女の柔らかい唇の感触は今でも覚えてる。その後、お互いに照れてしまって、寒空の下でしばらく黙り込んでしまったことも……







 殺風景な屋上はフェンスで囲われているだけで、風を遮るものは何もない。ひっきりなしにそよ吹く肌寒い風は、着ていたセーターを通り越して身体の芯まで冷やそうとしてきていた。


 ふと気になって校庭側にもう一度目をやると、体育館前にいたカップルも寒さを感じて場所を移したらしい。気付いたら僕の視界には誰もいなくなっていた。

 空を覆う雲はさっきよりも厚さを増していて、一面にさらに暗い影を落とす。


「秋って、なんか寂しい感じがするよね」


 空を仰ぎ見るように、体をそらして目をつむった。

 しばらくそうしていると、堪えがたいものが込み上げてきて、僕は慌てて前に向き直る。

 校庭に立っている木々はほとんど葉を枯らして、すっかりやせ細っていた。最後に会った時の彼女のように。




 もうすぐ冬がくる。初めて君とキスをしてからちょうど一年だ。

 君が死んでからちょうど半年でもある。

 不意に学校のチャイムの音が聞こえてきた。そろそろ教室に戻らなきゃ。

 隣に目をやると、あの時の本が冷ややかな風に吹かれてぺらりとめくれるところだった。

 僕は静かにそれを閉じて手に取ると、暖かな校舎の中に戻っていった。 

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