瞬間の陰影


   「一時の安らぎを」 

 

 翌日……

 催し最終日は屋敷周辺の散策と写生大会。

 油彩画ではなく原則乾きの早い水彩画だ。


 題材は自由だが、何だか人数が増えている事に執事もガブリエルも不審に思わざるを得なかった。


 どうも昨日の事が忽ち評判となって師団連中の奥方や御姉妹の方々の間に広がり、急遽途中参加なされた様で、みなそれぞれ絵の具やスケッチの用具を持って場所取りをしているのだ。もちろん目的はエレーナの婚約者と、彼が連れている若い執事を見る事らしい。


 侯爵の無言の計らいで、執事は屋敷の手伝いを免除され若き主人のサポートに徹せよとの事となり、ガブリエルの傍を手荷物を持って甲斐甲斐しく移動する姿を女性達が遠巻きに見ているのが気配で分ると言う、密かな追っかけ集団を生んだ奇妙な状態だった。


 屋敷を遠景に見て、ガブリエルは早々に牧草地の中に立つ大木の下から屋敷を望む場所決めをしたのか、画面の設定を考えている様だった。


 とにかく色んな意味で無理はしなくていいと、執事は目線を送るが、彼にはどれ程の事でも無いのか、スケッチブックに向かう姿はむしろ楽しそうに見えた。


 彼の集中力の高まりはどんな場面でも同じなのか、早くも絵の世界に夢中な眼差しを見せていたが、執事は何か忘れている様で妙に落ち着かなかった。

 ともかく、パラソルを広げ一旦喉の渇きを癒す飲み物を用意する事にした。


 そこへエレーナがそっと近付いて来た。


 主人に声を掛けようとする執事に、エレーナは少し茶目っ気をくすぐられたのか、口元に指を当て黙っている様に合図を送った。


 胸騒ぎの原因はだ。


「ごきげんようカイル。庭を案内して差し上げるお約束でしたのに、もうそれは必要なさそうね。」


 お抱え画家の様に早くも筆を進めている彼を少し皮肉っている様な彼女の言葉に、ドキリとしてガブリエルは顔を上げた。


 驚いているのを隠そうとして言葉に詰まった彼の表情に、不意打ちを食らわそうとしていた自分の思惑が完全に果たされたとエレーナはつい口元を緩めた。

 それが彼女本来の姿だと彼は知る由も無かったが、年相応の少女の笑みに彼もまた微笑みを返した。


「お庭の風景が余りに美しいので、早く描いてしまわないと逃げてしまいそうに思えて。決して約束を忘れていた訳ではありません。いえ、本当は絵に力量が無いので人よりも時間を掛けないと上手く仕上がらないのです。」


「私との約束は、その後でもいいとお思いだった様に聞こえるけれども、私の気のせいかしら?」


「そんなつもりは毛頭有りません。それにこれからは何時でもお会い出来るのですから、守るつもりも無くお誘いした訳ではありません。」


 そう言いながら実際は、堂々と絵が描ける事が嬉しくてうっかり約束を忘れていたのだ。ガブリエルは、席を立って、図星を突かれて降参しています、とばかりに許しを請う様に胸に手を当てた。


「実は勝手に貴女のお席を用意したものの、貴女に私の傍に座って頂けるのかが心配で、さっきからずっと、どう声をお掛けしたものかと躊躇しながら誤魔化していたのです。宜しければ、どうぞそちらにお掛け下さいませんか?」


 ガブリエルは彼女に恭しく手を差し出し、素早く執事が用意した椅子を初めから想定していた様に勧めた。


 彼女は、いつの間にか出来上がっていた彼女の為の小さな野外アトリエの様な空間に気が付いて彼を驚いた様に見た。


「そうまでおっしゃるなら……」


 エレーナはお付きの侍女に手を貸されて着席すると、執事の手で既に用意されていた絵を描く道具にも目を奪われた。捕まったのは自分の方だったのだと。


「薄紅色のドレスが貴女の瞳の色を一層引き立てて、他の何を見ても色褪せてしまった様です。僕は絵を仕上げられないかもしれません。もしもそうなっても侯爵はお許しになられるでしょうか……」


 ガブリエルの眼差しに赤面し、エレーナは慌ててスケッチブックを手に取り顔を隠してしまった。


「どうなさいました? 具合でも?」


 途端に自分の様子を心配する口調に変わった彼の言葉に、狼狽えてしまった自分を反省する様に、彼女は鼓動を抑えて顔を上げた。


「いっ、いえ、何でも有りません。さあ、お父様の思惑に負けずに是非とも秀作に仕上げられる様に頑張りましょう、カイル。」


「望む所です。」


 そう言いながらも彼女を何気なくスケッチし、今日の髪型や彼女が選んで来た菓子が何とも美味しいとガブリエルは目を細め、嬉しそうに笑う彼女もまた、彼をスケッチしようとしているようだった。互いを見ながら微笑みを交わす光景は、傍から見ていても気恥ずかしいくらい眩しかった。これがカイル本人なら何も気に掛ける事など無いと言うのに、と思う執事だった。



 最終日は、時間が誠に静かに過ぎて行った。


 夕食後の批評会が始まり、この日の為に呼ばれた侯爵家に出入りする三人の芸術家が、並べて飾られた大小様々な乾きたての絵を見定めて行った。


 絵は公平な評価を下す為に基本無記名となっている。最優秀者には侯爵が育てた猟犬の子犬が進呈される。

 彼の部下達は正に真剣である。

 侯爵の猟犬を頂く。それだけで名誉な事なのだ。


 しかし何故か。作品の多くが黒服の執事と彼の主人を盗撮した様な、無理矢理画面に加えたような、そんな構図なのだ。批評家達も呆れるばかりだがそこはご愛敬だ。


 どうやら決定したようだ。


 侯爵をはじめ、評定に加わった者全員が一枚の絵の前で立ち止まっていた。


 題名は「秋の日の想い出」この屋敷を望む牧草地を描いた風景画だった。絵の構図のとり方も繊細な屋敷の書き込み方も季節感を表す空の色も。評価の説明をする学者達の目の真剣さが絵の描き手の才能を物語っている。


 そんな彼らの絵に対する文句の無い称賛の言葉を、何故かエレーナは上の空で聞いていた。その絵はガブリエルの描いたものだが……彼女は、あの時彼が描いていたはずの自分の姿が画面に全く無い事に落胆しているのだ。


 賞品の子犬を抱かされ、執事を思わず見るガブリエル。これを断わる訳にはもちろんいかないのだ。


 子犬はガブリエルの顔を尻尾もフル回転で嘗め回していた。子犬と言っても体重は既に7㌔は有りそうだ。そして何と言っても大型の猟犬の子らしく足が太くて大きい。まだ柔らかい肉球を触るガブリエルの表情も自然に緩んだ。


「何だか今回は、貴方のお披露目の為の催しになってしまったわね、カイル。」


 何時の間に来ていたのか、不意に声を掛けられ振り返るとフランソワがすぐ後ろに立って微笑んでいた。


 執事が思わず青くなった。


「血は争えないものね。外見だけじゃなくて、中身も益々お兄様に似てきてしまうんですもの。エレーナに書いてくれた詩を読ませてもらったわ……まるで若かりし頃の彼がそこにいるみたいな気がしたわ。」


 彼女は笑顔を少し普通に戻して、


「大人しそうな素振りでいるくせに少しも臆病じゃないのね。昨日の件も感謝しているわ。エレーナを助けてくれて本当にありがとう。これからも宜しくね。」


 ガブリエルはふと表情を硬くして、子犬を床に下ろした。


「いえ、当り前の事をしたまです。あの、叔母様……この子犬の事ですが……」


 子犬はフランソワを見ても大喜びし、腹を撫でろと裏返った。ガブリエルはしょうがない子だと、言いながら子犬を撫でてやった。


「その笑い方、本当にお兄様に似ている。ずっと見てたの、やっぱり親子ねって。こんな風に長い時間、私の家に居てくれた事が無かったから、嫌われているんじゃないかと心配していたの。」


「いえ、そんな事はありません。僕の方こそ、中々お話しが出来なくて申し訳ありませんでした。」


 全ては取り越し苦労だったようだ。


「子犬の事は心配しなくていいわ。少し大きく成るまでウチで面倒見て上げるわよ。その代わり時々様子を見に来てやってね。」


 彼は頷きながら微笑んだ。


「よかった。宜しくお願いします。躾は苦手です。甘やかしてしまいそうで。」


 子犬を繋いだリードをフランソワに渡すガブリエル。

 受け取りながら彼女は何か思い付いたように言った。


「そうだ、そうだわ。名前を付けてやって。あなたの犬だから。」


 足元の床で裏返る子犬のピンク色の腹を撫で回すガブリエル。


「名前ですか。……では、リリアンと言うのはどうでしょう、百合のように白くて美しいから。」

 猟犬としては美しさは必要ないかもしれないが、伯爵の愛犬となれば別だ。


「リリアン。それ素敵だわ。」


 破顔した彼女に少し恐縮して、ガブリエルは離れた所に視線を投げた。


「叔母様、ちょっと失礼して宜しいですか。エレーナに話が有るので。」


 フランソワも、さっきからずっと浮かない顔で座る娘が気になっていたらしく快く頷いた。


「ええ、私は構わないわ。何時もはもっと賑やかなのに、貴方の前だとどうしちゃうのかしらね。」


「もっと打ち解けて下さればよかったのですが。では失礼します。」


 席を立ち、ガブリエルは迷いなくエレーナに近付いた。ふと見上げた彼女の横にすかさず腰を下ろして、スケッチブックを取り出すと、彼は一枚の紙を差し出した。


「貰ってもらえますか。時間が無くてあまり上手く描けなかったけど。」


 それを見た彼女は目を潤ませた。


「これ……あの時の?」


 彼女の反応に微笑むガブリエル。


 ガブリエルが手渡したのは、少しうつむき加減でこちらに目を向けている彼女の顔のスケッチだった。今にも目を上げて微笑みそうなそんな一瞬を映したものだ。


「貴女の面影は一人でそっと眺めていたかったけど。じゃぁこれで。お休みなさい、エレーナ。」


 彼は彼女の額に口付けをして椅子を立った。ガブリエルの胸中に、こんな風に彼女と会う事はもう二度と無いだろう。そんな思いがふと沸き上がって来ていた。


 執事が何気なく彼の後に付いて囁いた。


「日程はこれにて終了です。入浴の準備が出来ております。お疲れ様でした。」


「任せるよ……ミカエル。」


 その胸にもたれて早く眠りたい。



 翌朝早く、侯爵の一家に別れを告げカイル・バルドベークは帰って行った。





   「瞬間の陰影」 

 

 馬車の中で向かい合って座るガブリエルとミカエル。屋敷に到着するまでは半日。終始仏頂面で沈黙する執事に雰囲気は悪かった。


 ガブリエルはする事も無いのに寝る事も許されない。この三日間、彼の主人カイルの命令とは言え上下関係が逆転していたのだから執事にしてみれば面白かった訳が無いと思う。それなら、そっちが昼寝でも何でもしてくれたらいいのに、と思うガブリエルだった。


 結局あの大きな獣は、侯爵が鞣革に加工して後日仕上がったら届けてくれる事になった。


「野獣死して毛皮を残す……か。」


 二頭立ての馬車に揺られながら、窓の外を見ているガブリエルをじっと穴が開きそうな程見ている執事。


「私の肖像権をお前が侵害している件について、それをどうしたいのか聞きたいのだが。」


 ドキリとして彼を見るガブリエル。


「えっ……また人の……今度はスケッチブックをチェックしたんですか。もうこれで僕はあなたのご主人様じゃないんですから、勝手に覗かないで下さいよ。」


 執事は益々不機嫌そうに睨んだ。


「お前が、こっそりそれらを引っ張り出しては眺めるのかと思うと、私は……それらを描く為に、お前の視線が舐めるように私を見ていたのかと想像するだけで胸がざわめく。」


 この色相の濁り方は冗談では無さそうだ。


「気持ちの悪い想像しますね、相変わらず。」


 ガブリエルは、溜息を吐きノートと一緒に手荷物に入っているスケッチブックを取り出し、中を広げて執事に差し出した。


 そこには明らかにミカエルを写した沢山のモチーフが並んでいた。


 横顔は言うに及ばず、カップをテーブルに置く手の所作。荷物を上げ下ろしする二の腕。出迎えに出た時の立ち姿。耳・後頭部・ふくらはぎ・後ろ姿の腰つき。そして自分を見つめる瞳。


 彼を描いた団員達の奥様方のレベルとは全く違う世界だ。

 しかし、エレーナと侯爵の屋敷のものが一つとして無い事にミカエルは気付いていた。自分は影武者であると言う彼なりの徹底した意識の現われだろうと。


「増えてるな……何時の間にそんなに描き溜めていたのだ。」


 ガブリエルはもう一枚めくり書き込みが進んだ絵を彼に差し出した。


「そんなに時間かけてないですよ。」


 執事は眉間の皺を一瞬緩め、受け取った絵に見入った。そしてぽつりと言った。


「似ていないな。お嬢様の絵は絶妙だと思ったが、これは……」


 ガブリエルは、想定していた答えだったように口元に笑みを浮かべた。


「言うと思いました。あなたは鏡でしかご自分の顔を見た事が無いでしょう? 僕はそんな風にあなたが笑う瞬間が好きなんです。それこそ、あなたが見た事の無いあなたの顔なんだと僕は思います。」


 執事は一瞬全ての動きを止め、ガブリエルを改めて見詰めた。


「私を散々挑発して……帰ったら……覚えていろよ。眠らせてなどやらんからな。」


 今度はガブリエルが息を呑む番だった。





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