約 束

 一方、侯爵率いる大人部隊と言えば、狩るべき赤狐は姿すら見せず、成果は中々上がらず時間ばかりが過ぎていた。別にそれはいつもの事らしく、誰も気にもしておらずかえって麗らかな日差しの元での遠乗り気分で名ばかりのキツネ狩りを楽しんでいる様だった。


 昼食の時刻を知らせる角笛を鳴らす侯爵。


「全員一旦撤収だ。ランチターイム!!」


 集まって来る部下に点呼させる間も無く、カイルとエレーナがいない事に気が付くセルビノア侯爵。しかし、エドワードは少し含み笑いを漏らし、さほど緊急事態とは思っていない様子で父に言った。


「二人きりで森でも散策しているんじゃないかな。こっちへ向う途中でそれとなく二人別々に離脱して行ったから、何処かで落ち合う約束でもしてるのかも。カイル君にはエスペランザを貸しといたから迷子になる事はないと思うし。心配ないよ。角笛を聞いて先に屋敷に帰ってるんじゃないかな。」


 侯爵も彼の言葉に、一瞬唖然としたが笑顔で頷き返した。


 取り敢えず部下に二人を探すように下知をし、一行は屋敷に引き上げる道をとった。




 しかし、楽観的なエドワードの予想に反して屋敷に二人の姿は無く、彼等を探しに行った部下も空振りで戻って来た。


 彼らの間に徐々に不穏な空気が流れ始め、その緊迫した雰囲気に執事が様子を見に出て来たその時、森を切れた遥か彼方の牧草地を、エレーナを抱きかかえたガブリエルを乗せてとぼとぼと歩く青毛の馬が現れた。もう一頭の白馬も手綱を引きずり後を付いて来ている。


 執事は遠目に彼らの異変に気付き、焦りを隠せず馬を借りて素早く駆け出した。


 何事かと彼の後に続く騎士団。


 近付くに従って彼らは青褪めた。


 何があったと言うのか、二人とも泥だらけに汚れ、エレーナは髪も解け酷く怯え、衣服を血で赤黒く染め意識朦朧としながらも手綱を握るガブリエルにしがみ付いているのだ。


「カイル様!」


「エレーナ‼」


 それぞれに叫びながら馬を駆る。

 ガブリエルは、馬を飛び降り駆け寄ってきたミカエルを見下ろし、


「……エレーナを……頼む。」


 そう言って彼女を降ろさせた。

 殺到した騎士団の党首に彼女を渡し、執事が振り返ったその瞬間、ガブリエルは糸が切れたように馬上から執事の腕の中へ落ちて来た。


 侯爵は青白い娘の頬を両手で撫でた。


「怪我は無いか、エレーナ! しっかりしろ。」


「私は……大丈夫……お父様。」


「何があったんだ!」


 殺気立って叫ぶ侯爵に、エレーナは泣きながら顔を覆った。


「見た事もない大きな獣が……森から突然……馬も驚いて逃げて……そこへカイルが助けに来てくれたの。」


 震える娘の顔を覗き込む侯爵。


「大きな獣? 何処でだ!」


 涙でクシャクシャになった目を上げるエレーナ。


「湖の……近く……」


 侯爵らの予想では、狙う獲物は赤狐だったが、もしや家畜を襲っていたのもその獣だったのだろうか。


「その獣はどうなった。追い払ったのか?」


「カイルが……短剣で……刺して……」


 エレーナはその光景を思い出したのか再び顔を手で覆い侯爵の足元に蹲ってしまった。


 ガブリエルを抱きかかえ座り込んだ執事を侯爵は見た。


「カイル君はご無事か?」


 執事はガブリエルの身体に傷が無いか見ているのだ。


「怪我はしていない様です。上着に付いた血はその獣の返り血のようですね。」


 意識が無い彼に不審がる侯爵。


「怪我が無いのにカイル君はどうしたんだ。」


 執事は侯爵に、チラリとガブリエルの上半身を固定したコルセットを見せた。思わず眉を寄せるセルビノア。


「それは……?」


「実は先日、乗馬の練習中に馬が急に暴れて蹄で肋三本を痛めてしまいました。」


「何だって?」

 

 執事は申し訳無さそうに頭を垂れ、まさか自分が主人の命令でやりましたとは言えず、そう取り繕ったが後ろめたさに下を向いたまま言った。


「主人からは侯爵様には言うなと口止めされておりました。申し訳ありませんが、ここは聞かなかった事にして頂だけないでしょうか。主人はこのイベントを大変楽しみにしておりました。どうか最後まで意地を張らさせてやってもらいたいのです。」


 頭を下げた執事に絶句する侯爵。


「……そう言うのを、何と言うのかね……」


 小耳に挟んだ騎士団員達がざわめく。


「肋骨三本折れてるのに馬に乗れるか?」


「分からん。折った事無いしな。」


「俺も……」


「それで獣と格闘……お嬢様を乗せて……」


「俺、折った事あるけどさ、昨日平気な顔してフルート吹いていらしたぞ。痛くて思いっきり息なんて吸えないからな。」


「言っちゃなんだけど、楽器を貸した持ち主としては複雑だよ。俺じゃあんな綺麗ではっきりした音色は絶対出せないよ。」


「こんな細くてひ弱そうなのに、凄いな。さすが奥様の甥子様だ。」


 そのざわめきを掻き分けエドワードが突進して来た。


「カイル君! 水臭いじゃないか! なんで僕に言ってくれないの! 君が密かに苦しんでたなんて知らなかったんだ、ごめんよ!」


 キャンキャンと叫ぶエドワードを制するように侯爵が、


「分かった。この件は伯爵の心意気に免じて聞かなかった事にする。しかし、くれぐれも主人に無理をさせんようになミカエル。とにかく二人とも無事でよかった。」


 彼に頭を下げる執事。


 侯爵は騎士団員を振り返り、


「獣を捜索するぞ。手負いのままで放っておくわけにはいかん。エドワード、エレーナを頼む。エスペランザが来た道を犬に逆追いさせろ。行くぞ、者ども!」


 彼の号令と共に口笛を吹いて犬を集める団員達。


 猟犬の嗅覚は既に獣の血臭を嗅ぎ分け、群れ全体を興奮状態にさせ、合図が掛かると一斉に走り出した。


 騒がしい一団を引き連れ一番騒がしい男が駆けて行く。


 ミカエルはガブリエルの頬を軽く叩いて目を醒まさせた。薄っすら目を開けた彼に苦笑しながら、


「カイル様、ご無理なさらないで下さいと、あれ程申し上げましたのに。とにかく掴まって下さい。失礼します。」


 言うが早いか、執事は彼を軽々と抱き上げそのまま馬の背に跨った。そっと馬の首を撫でエドワードを見た。


「いい馬ですね。アンダルシアンの青毛とは素晴らしい。よくお二人を落とさず連れて来てくれました。」


 ガブリエルを抱いて馬に乗った執事を陶然と見上げてエドワードが慌てて頷いた。


「よっ、よくお分かりですね。父が若い頃スペインから連れ帰った馬です。我が家でも最高齢の馬で、その昔は父と共に獅子も狩りに出たとか何とか。彼女に任せれば、カイル君が絶対道に迷わないだろうからと」


「そうですか。ありがとうございましたエドワード様。さあ、参りましょう。」


 俯いて馬に乗っていたエレーナが目を上げて搾り出すような声で言った。


「カイル、本当にありがとう。」


 身体中を駆け巡る痛みに顔をしかめながら黙って頷くガブリエル。


 また涙を溢れさせてしまった妹に何も言えない兄だった。




 昼食会は必然的に時間通りには始まらず、何事が有ったのかと心配する女性陣をよそに男達は獲物を意気揚々と運び込んできた。実は過去に行われた狐狩りでも実際に狐が退治された事例は無く今回が初なのだ。獲物に沸き返る男達に対して驚きに声も出ない女達だった。


 侯爵が頬を上気させて、出迎えた妻に向かって自慢げに言った。


「見よ、フランソワ。これをカイル君が一人で仕留めたのだぞ。それも短剣で心臓を一突きだ。大したものだ。さすがあのアルフォンゾ・バルドベークの息子だよ。」


 兄の名前が出て彼女は不満げに侯爵を見た。


「兄上は、そんな野蛮な事はなさらない方でしたわ。それであの有様だったのね。」


「何を言うか。エレーナが危ない所をその身を省みず立ち向かわれたのだ。紛れも無く彼は騎士だよ。カイル君はどうしている?」


 帰って来た時の彼等の泥塗れの様子を思い出し、心配しているのか呆れているのか、彼女は溜息を吐いた。途中屋敷で待つ叔母やその他の者達に余計な心配を掛けまいと、ガブリエルはミカエルに馬を降りて隣を歩く様に言い、一人で騎乗して帰った為、フランソワは騒動の詳細を知らないのだ。娘が泥だらけになった顛末については、狩りを抜け出した先で馬がぬかるみにでも足を取られたせいだと思っているのだろう。


 本当の事を知ったが最後、エレーナは当分の間どころか、嫁に行くまで外出を許されないかもしれなくなりそうだから、母には内緒だと侯爵から息子への指令だったのだ。


「部屋で休んでおります。それにしても何て無鉄砲な事を。食事は夕食まで要らないと、執事が今しがた言いに参りましたわ。」


 出迎えていたエドワードは父に、上手く言っておいたからと、小さく合図を送り、それに頷く父。


「そうか。では、遅くなったが昼にするか。」


 どこまでも陽気な当主に付き従う陽気な騎士団。みんな腹ぺこである。


 何事も無かったとは到底思えないが、とにかく誰も怪我無く戻って来たのだから良しとしようと思い直したのか、そんな侯爵にフランソワはやんちゃ坊主を見る母親のように微笑んだ。




 薬が効いて眠っているガブリエルを部屋に残し、執事は主人の装備品を回収する為厩舎に向った。その途中彼らを襲った獣が血抜きの為に吊り下げられている横を通った。頭から尻尾の先までは2m以上もあるオスの固体だ。執事にはどうしてもそれがこの国では百年も前に全て狩られ、姿を消してしまった獣にしか見えなかった。こんな物がいたとはと少しぞっとしたが、下手にそうだと言えば、更なる殺戮の手が今度は行政側から差し向けられるだろう。特異な事情でしか人を襲わない筈の獣が、何故森の中で出くわしたからと言ってエレーナに危害を加えようとしたのか……

(イメージ「Ave Maria」https://youtu.be/bAULcisUEGw?list=RD91ucurJ4yAw

を選曲してみました。宜しければ聴いてみて下さい。直接は飛べませんのでURLをコピーの上、別ウィンドウで開いて下さい。)


 執事は吊り下げられた彼の酷く汚れた後ろ足に気が付いた。


「罠に掛かっていたのか……」


 おそらく足を痛め、獲物が取れず空腹のあまりやってしまったのだろうと想像した。その正に死に物狂いの野生の獣を相手に、我が身すら顧みない勇気が何処に潜み、ガブリエルを突き動かしたのだろうかと、執事は彼に持たせた以前の主人愛用の短剣を、戦慄と共に抜刀し身構えた彼の眼差しを想像し溜息を吐きその場を離れた。


 何故自分はその場に居合わせてやらなかったのかと。


 二度とそんな目をさせてはいけないと。



 装備品を部屋に運んで来ると、ガブリエルは目を醒ましていた。ひたすら謝る彼の頭を執事は優しく撫でた。すると彼は急に涙を流して泣き始めてしまった。


「あの獣は、ずっとひっそり生き延びて来たのに、可哀想な事をしました。」


「気付いていたのか、あれが狼だと。」


「見れば分かります。侯爵はお気付きになっていらしっゃるご様子でしたか?」


「いや、ただ喜んでおいでだ。屋敷に持ち帰って毛皮にしろとおっしゃっていた。見て来たが見事な毛並みだ。」


「カイル様が絶対お許しにならない。ご自分で仕留められたのでもないのに。」


「そうだな。ダメだと言われれば屋敷の近くに埋めてやってもいい。」


 ガブリエルは下を向いてぽつりと言った。


「判断はお任せします。」


「何をしょんぼりしているんだ。今日の猟果一番はお前だ。気持ちは分かるつもりだ。 野獣やつの命の代償としてのお前の責任は、場の雰囲気を壊さずに魂を送ってやる事だ、いいな。あいつは後ろ足を罠でやられていた。あのまま放っておけば遅かれ早かれ人を襲っていたかもしれない。あいつ等は群れでしか生きられない生き物だ。家族がいたとして、それらを養う為に領民を一人でも牙にかけていたら、もっと大々的な山狩りが行われていただろう。その前に食い止められたんだ。結果的にお前は、あいつの家族を救った事にならないか?」


 そう言われて泣き顔を上げるガブリエル。


「そうですね……でも……」


 襲われた恐怖に震える者こそいるだろう。しかし、彼はどうだ。身を守る為に止む無く命を奪わざるを得なかった獣の為に涙を流すとは。


「お前の最大の任務は何だ? カイル様の代わりをする事だろ? お前はカイル様の代わりに婚約者のエレーナ様のお命をお守りしたのだ。それ以上の事が有るのか?」


 暫く執事の顔を見詰めていたガブリエルはようやく納得した様に小さく頷いた。


「そうですね。それ以上の事なんて有りませんね。ありがとうございます。」


 少し気が晴れたような表情を見せた彼に苦笑する執事。


「可笑しな奴だ。そうだ、詩の朗読会は中止になった。どんな詩を捻り出そうとしても、今日お前が仕留めた獣以上のものは出せんとの侯爵からの伝言だ。」


「そうですか……」


 ホッとした顔をするガブリエルだったが、そこで終わらないのがこの執事だ。


「折角だから、お前の作った詩は、私が精一杯の達筆を以て清書をし、お嬢様にお渡ししておいたぞ。大変お喜びのご様子だった。」


 ハッと顔を上げ赤面するガブリエル。


「……そんな……人のノートを勝手に……」


 焦りを隠せない彼にニヤリと笑うミカエル。


「主人と執事の間には仕切りさえ存在しないのだ。人をからかった罰だ。これで坊ちゃんとエレーナ様の仲は確実に近付くだろう。これも執事の仕事の一つだ。う~ん、何とも晴れやかな気分だ。ふふっ……」


 ガブリエルは、執事のこんな顔を始めて見た気がした。それだけでも何だか得をした気分だった。




 夕食会は詩の朗読会中止を受けて何とも緊張感の無い和やかさに包まれていた。皆やはり苦手分野なのだ。そんな中、エレーナだけが、ガブリエルの隣に席を移され気まずそうにしていた。そんな彼女に彼は小さな声で語り掛けた。


「僕の詩は、如何でしたか?」


 贈った以上、感想を聞くのも礼儀だろうか。


 エレーナは桜色の頬を更に紅潮させた。


「とても嬉しかったです。光景が浮かぶようで……でも、あまりに大胆で、その……」


 彼女の初々しい恥じらいに思わず笑みが零れてしまうガブリエル。元々あれは執事をただ挑発しようとわざと書いた詩だ。その点では彼女には申し訳無いような気がした。


「実は昨日の晩考えたものです。中々思い付かなくて……でも二人きりでお話しがしたかったのは本心です。まさかあんな大きな物に邪魔されるとは思ってもいませんでした。明日はもっとゆっくり安全な散策がしたいものです。案内して頂けますか?」


 獣を殺めてしまった事を悔いながら、それをこの場で表に出してはいけない事は十分承知している。彼は少し笑ってみせた。


 彼の微笑にハッとしてエレーナは赤面した。


「はい……喜んで。」


 野獣に襲われ命の危機を感じたのはつい五時間前の事だ。ガブリエルもそうだが、彼女の立ち直りの速さは、伊達に騎士団の総統を父に持ってはいないと感心し、そんな二人をじっと見ているフランソワに注意を払いながら、給仕をする執事だった。




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