狐狩り

 執事の心配をよそに、翌朝暗い内に目を醒ましたガブリエルは、何時にもまして元気そうだった。


 朝食の後、乗馬用の服を着せて装備品その他を渡してやると、彼はやけに嬉しそうに厩舎の方へ行ってしまった。


 エドワードが目敏くそれを見ていたのか後を追い駆けて行くのが見えた。


 彼は、妹よりも先に妹の婚約者を口説きたいのかもしれない、と邪な色相をチラつかせては、いけないと首を振る執事なのだった。




 犬が放たれたようだ。角笛が森に響き渡る。狐狩りの始まりの合図だ。


 ガブリエルは、居並ぶ侯爵家の名馬の中から、エドワードの勧めで大人しい青毛の牝馬エスペランザを選んだ。


 狩に出て行く彼らを見送りながら、執事は馬にも乗り慣れている様なガブリエルの手綱さばきに目を見張った。彼の実家は商家だったが、習い事は本人のやる気次第な所が有る。その点、彼は親の期待に応えて一生懸命励んで来たらしく、どれもそこそこの腕前の様だ。


 未成年者は、侯爵の方針で銃器を持たされておらず、獲物と間違えて撃たれない様に薄暗い林の中でも目立つ白の派手な上着を着せられていた。


 エレーナは、エドワードと一緒に馬を並べて進める自分の婚約者に何か言いたそうにしているが、意識し過ぎなのか中々近付いて行けず、彼の方から自分に近付いて来てくれとばかりに、わざと振り返りながら距離を取って大人達に付いて行こうとしていた。




 黙々とただ獲物を追い詰める犬。


 追い詰められ躍り出た獲物を仕留める犬。


 そしてハンターに教えるように咆えながら一番後から追い駆けて行く犬。


 猟犬にも性格があり自然と役割が分担されているのだとか。


 特に今回の獲物である赤狐は羊まで獲物にするくらい身体も大きく、農民が仕掛けた罠にも全く掛からず手に負えない程機敏で頭がいいらしい。近隣の領民から家畜への被害が多数寄せられ今回の狐狩りとなったのだ。


 そんな厄介な獲物となると、優秀な数頭の犬による連携を組めるグループで追い詰めなければ姿を見る事さえ叶わないだろう。但し、他の動物には一切手出しはならないと、以前から侯爵はルールを決めていた。




 フルートの演奏の時と比べて、キツネ狩りに対してあまり乗り気でない様子のガブリエルに、エドワードが何か他に気に掛かる事でも有るのかと探りを入れて来た。


「どうしたんだい? みんなに付いて行かないと出遅れてしまうよ。」


 ガブリエルは、乗り手を密かに気遣って歩みを早めない馬の首を撫でながらエドワードを見て笑った。


「実は、父母が早くに亡くなったので、牧草地の殆どを雇いの管理人に任せっきりで、馬に乗るのも久し振りなのです。」


 セルビノア家の猟場は広く、目の前に見えている山一つをぐるっと囲んでもまだ足りないが、広大な樹林帯の中には湖まで有ると、来る途中の馬車の中でミカエルに地図を見せられながら受けた説明を、ガブリエルは思い出していた。


 そんな彼をよそに、エドワードは何かを思い付いた様に笑みを浮かべた。


「もしかして、エレーナと待ち合わせでもしているの?」


 まさかの発言にガブリエルは目を丸くした。


「違います。」


 きっぱりと否定したが、エドワードは早合点の笑顔を崩さずに続けた。


「本当に? さっきエレーナのヤツ、思わせ振りに先に行っちゃったから、てっきり近くで待ち伏せか待ち合わせているのかなって。僕はいいんだよ、だって君達は婚約してる訳だからね。仲良くデートも悪くない。」


 実際、野生動物を追い回すのは可哀想だとガブリエルは思っているが、環境保全の為にはやむを得ないとも了解している。しかし、デートはエドワードの誤解である。


「軟弱者と言われてしまいそうですが、あわよくば時間まで景色を楽しもうかなと目論んでいました。兄上はどうぞ僕にお構いなく、狩りを楽しんで来て下さい。」


 しかし、話題を遠ざけようとしても、何に確信を得たと言うのか兄は頷きっ放しだった。


「大丈夫、父上も君達が仲良くしている所を邪魔したりしないよ。その代わりまだ一線だけは越えちゃダメだからね。」


「ですから、兄上違うんですって。」


「そうならそうと早く言えばいいのに。僕だってデート大賛成さ。野暮な事はしたくないから行くよ。妹を宜しくね。」


 誤解を解かないまま、エドワードは楽しそうに笑顔で手を振ると、水を得た魚の様に目を輝かせて行ってしまった。




 大人達による本格的な狩猟軍団の喧騒を遠くに聞きながら、ガブリエルは馬を休めると言うよりは、自分に休息を与える為に湖の畔の大きな倒木に腰を下ろした。


 元より土地勘が無いので、屋敷から離れた場所へ行く気もないが、大丈夫だと自分に言い聞かせはしたものの、さすがにそう長くは乗っていられず馬を降りたのだ。


 ターゲットの狐も、血の気の多そうな騎士団の連中に追い駆けられ今頃は必死に逃げ回っている事だろうと想像し、出来れば逃げ切って欲しいとも思う彼なのだった。


 湖畔で景色を眺めながら、早々と休みをとっている所を、エドワードの他の誰かに見付かったら何と言おうかと考えていた。


 そんな深い緑に彩られた視界に、侯爵の一団に遅れない様に付いて行ってしまった筈のエレーナが乗っていた馬だけが、暗い森から水辺へ出てきたのが映った。喉が渇いているのか水を飲みに来たらしい。


 主を何処に置いて来たのかと不審に思い、ガブリエルは自分の馬に乗り、水辺の主の無い馬に近付いた。


 単独の馬は大人しく彼に手綱を持たれ、鞍に結ばれた可愛らしいスカーフに、やはり彼女の馬だと確認し、周りを見回したが彼女の姿は何処にも無かった。


 不審に思いながらガブリエルは、そのまま馬を連れてそれが出て来た森へ入った。


 薄暗い森の中では武器を持たない人間ほど無力な生き物はいない。足も動物に比べれば遅く噛み付く牙も短い。爪も柔らかく鋭くない。衣服は着ているが皮膚は薄い。馬と逸れていたとしたら、心細い思いをしているに違いないのだ。


 何か嫌な予感は益々ガブリエルの中で膨らんだ。


「エレーナ!」


 彼は馬を進めながら躊躇わず精一杯の声で森の中に呼び掛けた。


 返事が返るのを期待したが、森は意地悪な程に静まり返っている。


 もう一度呼び掛け、耳を澄ませて風の音を聴いた。


 微かに聞こえた短い悲鳴。同時に馬の耳がピクリと動いたのを彼は見逃さなかった。聞き間違いではないと確信し、彼は声のした方向へ馬を走らせた。


 森は進むにつれて昼にも関わらず鬱蒼と深くなり、馬の蹄が積もった針葉樹の葉を蹴る度に辺りを独特の香りで包んで行った。


 行く手にエレーナの被っていた帽子が落ちているのを見付け、高い木の間に生えた低木を通して探そうとするが、薄っすらしか届かない太陽光の為に疎らだが、見通しはとにかく悪かった。


 木々の間から射した光の中に、白い上着のエレーナが、何かに怯えて転げそうになりながら走っているのが見えた。それを見た瞬間、ガブリエルの鼓動が一気に早くなった。


 鐙で馬に合図を入れると同時に、馬も合点していた様に全身の筋肉に力を入れた。


「エスペランザ、エレーナの所へ!」


 彼の声を聞いた年老いた馬が、まるで若馬の様に鬣を逆立ててスピードを上げ猛然と駆け出し、ガブリエルはもう一頭の馬の手綱を放してエスペランザの躍動に共に躍り出た。


 彼女を追っている物が見えた。赤狐ではない。信じられない事にそれはもっと大きな獣だった。見る者全ての身の毛が逆立つ程の美しさを通り越した見事な灰色の被毛をしたその獣は、躓いて転んだ彼女の背後から飛び掛りその大きな前足で彼女の肩を押さえ込んだ。


 ガブリエルは、応援を呼ぼうと呼笛を鳴らしたが脇腹に痛みが走り、力が入らず大きな音にならなかった。鞍に装備されていた短剣を咄嗟に取ると腰に装着し、馬から素早く飛び降りると落ちていた長く丈夫そうな木の枝を掴んだ。逃げようと藻掻くエレーナの首に獣の牙が掛かろうとした瞬間、彼は渾身の力を込め獣に一撃を見舞った。


「彼女を放せ‼」


 攻撃は正確だったが、痛み止めが効いた腕では握りも衝撃も甘かったのか、獣は倒れず今度は即座に仕掛けたガブリエルに標的を移した。


 彼女を放し、獣は例えようも無い憤怒の形相で威嚇し、唸りながら一撃を加えて来た彼を見据えじりじりと間合いを取った。


 ガブリエルは木の枝を両手で構えた。それを見たエレーナが、涙と泥で汚れ切った顔で泣き叫んだ。


「カイル‼」


 低い姿勢から一気に襲い掛かって来た獣に再び棒で応戦するが、動体視力の優れた獣相手にはハエがとまったようにでも見えるのか軽く避けられ、後ろ足立ちすると自分より大きな獣に押さえ込まれ、ガブリエルは諸共に地面に倒れ込んだ。体重もかなり有る獣の鋭い爪が肩に食い込み、容赦なく喰い付こうと牙で攻撃して来た。


 獣の息は生暖かく生臭く、口から垂れた涎が降り掛かって来た。


 痛めた箇所に獣の重みが加わり、激痛に気を失いそうなりながらも必死に攻撃を交わし、ガブリエルは腰の短剣を抜き、有るだけの力で獣の脇の下に突き刺した。


 手ごたえは十分に有った。


 剣を引き抜きもう一撃加えようとした時、真っ赤な血が降り注ぐ様に噴き出し、獣の身体から力がガクリと抜け覆い被さる様に倒れ込んで来た。


 始めは何が起こったのか分からなかったが、怒りの全てを納めた様に表情を弛緩させ、苦しげに小刻みに胸を上下させる獣の様子で全てを察した。

 まるで彼に懐いた犬の様に、何も出来なくなった獣は、鼻先をガブリエルの顔に近付けやがて地面に崩れ落ちた。


 その瞳は曇りも無く、悪戯に美しかった。


 ガブリエルはぐったりした獣をやっとの事で押し退け、起き上がり短剣を仕舞うと獣の涎で汚れた顔を袖で拭った。


 彼は倒れ込んだままのエレーナに歩み寄り、獣の血で汚れていない左手を差し出した。


「怪我は……無い?」


 返り血で白い上着を真っ赤に染めた彼の手を、震えながら彼女は取った。






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