束の間の休息

 侯爵アレクシス・ルーサー・セルビノアは自らが長を務める騎士団を有する程の武闘派である反面、芸術の面においてはどうか知らないが、名の知れた文武両道を信条と掲げる人物である。そんな彼の息女エレーナが伯爵カイル・バルドベークの婚約者になっているのには、彼の妻フランソワと今は亡きカイルの父アルフォンゾ・バルドベーク氏が兄妹の関係であったからと言う理由より他に無い。



 何事にも一貫して積極的ではないカイルに対して、エレーナの兄エドワードは全く快く思っていない。


 今日の行事も直前になって断わってくるだろうと踏んでいたのだが、珍しく出席の返答をして来て驚いたくらいだ。しかし、妹もあの暗い目をした綺麗なだけの何を考えているのか読めない人形のような奴を、どう扱っていいのか未だに分からないでいる様子だ。初めの内は確かに見た目が秀麗だから喜んでいた。しかし、会話が全く成り立たないらしい。あんなに賑やかで話題に事欠かない妹が、口篭ったきり下を向くなど有り得ないのだ。そんなあいつを見て伯爵はどう思っているのかも知りたい所だが、静かで丁度いいと思っているなら相性は最悪だ。いっそ婚約など解消してしまえばいいのだと思っている。


 エドワードは、バイオリンの音合わせをしながらピアノの前に座る妹を見ていた。兄としては、可愛い妹が悲しそうにするだけで、その原因の相手を殴りたくなるのだ。


 表に馬車が停まる音がして、降りて来る者の気配が有った。何時もの様に一番遅い到着。カイル・バルドベークの登場だ。エドワードは溜息を吐いて妹を見た。


 エレーナは婚約者の到着に気付いている筈なのに出迎えにも行かず、何気なく入り口とは違う方へ目を向け、窓から望む牧草地に目をやった。


 彼の出席の返事を聞いた時は、一瞬嬉しそうにしていたエレーナだったが、毎度の事だがカイル一人が加わるだけで場の雰囲気が何故か暗くなる事を、まだあどけなさの残る妹は気に病んでいるのだ。


 黙っているだけで回りに気を使わせてしまうと何故奴には分からないのか。またあの気まずさがこの雰囲気をダメにしてしまうと、エドワードは歯噛みした。


 妹想いの兄は思いっきり苛立ちながら入り口を見た。そんな事なら誘わなければいいだけなのだが、そうは行かないらしい。


 何時もの、ゾッとするくらい美しい黒ずくめの若い執事を従えて奴は入って来た。


 早々に、この僕が居たたまれなくしてやって、伯爵には帰って頂こう。その後は、気心の知れた者だけで三日間に組まれた行事を楽しめばいい。


 エドワードは、にやりと笑った。


 カイルの替え玉を務めるガブリエルには知らされていなかったが、ホームコンサートは今日から始まるセルビノア家の秋の行事第一幕のファンファーレに当たる。手始めとして、それぞれが得意とする楽器の腕前を発表する場なのだとか。


 二日目は明け方から朝食を摂り狐狩りに出発。夜はその間に作った詩の朗読会が予定されている。一時も無駄にしてはならないとの主催者セルビノア侯爵の方針らしい。


 三日目は比較的のんびりとした趣向で、庭園内の散策と、題材自由の絵画制作、夜は専門家を交えての批評会となる。


 出席者は主に騎士団の団員と侯爵の家族親戚達。彼等にとっては身内ばかりの気を使わない内輪の慰労会も同然な集りだ。何故芸術方面の催しばかりなのかと言えば、何となくらしい。それが侯爵セルビノア卿なのだとか。


 演奏会は、最後にやって来たお客の着席と同時に始まった。


 少し強めの痛み止めを主治医に多めに処方させて服用し、この場に臨んだガブリエル。普段深く交流をしてこなかったお蔭でか、彼が替え玉である事に誰も気付かない様だった。


 ミカエルは、彼の様子を逐一気に掛け傍を離れない様にしていた。薬が効き過ぎて彼が居眠りをしないようにである。案の定、始まって五分もしない内にガブリエルは早くもトウトし始めていた。確かに退屈な演奏である。願わくは他の、特に侯爵セルビノア卿に彼が船を漕いでいる所など見られません様に。執事は彼の背後から姿勢が崩れそうになる度にそれとなく突っついてフォローするのだった。


 出し物が一段落し、次はエレーナのピアノ演奏になった。


 執事は、ガブリエルに彼女がカイルの婚約者だと耳打ちした。ややぼんやりした表情で頷く彼に、もう少しだから辛抱しろと付け加える。ここへ来るだけでも半日馬車で揺られて来ている。何ともなくても疲労はかなりのものだと推測出来るからだ。


 彼女の演奏が終わり、執事は侯爵を見た。


 そろそろお暇させて頂きたい旨を伝えるためである。長い時間掛けてわざわざ伯爵自らがやって来たと言う事で、精一杯の敬意を表しているのだと酌んでもらおうと言うのだ。ましてや連れて来た替え玉は怪我人だ。下手をして明日の催しに参加などさせられない。しかし、それを遮るようにエドワードがガブリエルの座っている所へやって来た。さしずめ彼がぼんやり聞いていたのを婚約者の兄は見ていたのだろう。


「どうだった、エレーナの演奏は? 君に聴かせる為にかなり練習を積んできたんだよ。僕らもこの日の為にちょっと頑張ったかな。君は何が弾けるの?」


 挑発的な態度も全てエドワードの作戦なのだが、感覚全般が鈍くなっているガブリエルにはフィルターが掛かった様に優しい響きに聞こえている様だ。あまり話すなと釘を刺されてはいたが、まるでアルコールでも入ったようにちょっといい気分になっている。


「とても素敵なソナタでした。初々しさの中にしっかりとした信念が炎の様に揺らいで見え、手を翳すとほんのりと暖かくて、日々の煩わしさから僕を開放してくれる様な、そんな優しさを感じました。その弾き手が僕の婚約者だんなて、僕は果報者だ。幸せな未来が待っていると嬉しく思いました、兄上。」


 ガブリエルの頭の上には常に天使が舞っているのか。よくもペラペラと、とつい眉間に皺が寄ってしまう執事。エドワードは一気に噴き出した不信感を露わにした。


「あっ、兄上だって? そんな風に呼んでいいって許可した覚えは無いよ。まぁいい。来たからには、もちろん何か披露してもらえるんだよね、伯爵?」


 不機嫌極まりない口調の彼にガブリエルは微笑んだ。


「僕も参加させて頂けるのですか。聴かせて頂いている内に、僕も何かお返しがしたくなっていました。でも……あいにく楽器を持って来ていないので……何分初心者なもので元よりお聞かせ出来るレベルではありませんが……フルートを少し嗜みます。」


 止めに入るんだったと執事は青くなった。


 エドワードはニヤリと口元を吊り上げ仲間達を振り返り声高に呼び掛けた。


「誰か伯爵にフルートをお貸ししろ!」



 一本の楽器がエドワードの所にやって来た。それをガブリエルに手渡し、恥をかけ、そして二度とこの場に現れるな、と言わんばかりに彼を睨んだ。しかし、ガブリエルはその楽器を見ると、それを手渡してくれた彼にやんわりと微笑んだ。その柔らかな笑みを見たエドワードは逆に心の中を覗かれてしまった様な気がして息を呑んだ。


「随分練習しておりませんので……お耳汚しとは存知ますが、一曲……お言葉に甘えて」


 言葉に甘えてとはどう言う事だとエドワードは彼を見た。吹きたかった。そう聞こえなかっただろうか。嫌がる者こそいるだろう。それなのに彼はこれを待っていたのか?


 ガブリエルは何気なく唄口のポジションを調節し、その場を動かず立ったまま少し息を整えると曲を奏で始めた。


 ピンと張り詰めた澄んだ音色にざわついていた侯爵家の広いリビングがシンと静まり返り、彼の楽器が紡ぎ出す旋律だけが高く低く流れて行った。


 イメージはサンサーンス作曲「動物の謝肉祭」より「白鳥」

  お聴きになってみたい方は下記のアドレスをコピーして試してみてね。

                       https://youtu.be/cEznqt8uY9Q


 こんな気分はいつ以来だろうとガブリエルは思った。時間がいつもよりゆったり流れている様にさえ感じてしまう。


 練習をしていると、必ず煩いと嫌味を言った兄も今はもういない。異国の野辺で彼は一体どんな最期を迎えたのだろう。一人だったのだろうか。傍で看取った者はいたのだろうか。二人でふざけ合ったあの子供部屋が懐かしい。あの家も今は他人の物……僕のフルートは何処へ行ってしまったのだろう……こんな風に気ままに吹いたらまた家庭教師あいつに叱られるな。もっと作曲家の意図を組んで楽譜に忠実に、か……

 もう、それも……どうでもいいのか……


 曲が終わり、彼は楽器から唇を離した。


 拍手が沸き起こった。


 ガブリエルはハッと我に返った。傍らで執事が咳払いをした。つい調子に乗ってしまった事を少し反省した。


「何だかぼっとしていました……」小声


 時々彼と言う人物が分からないと、執事は眉間に皺を寄せた。


「吹けるなら先に言ってくれ。ぼっとして何気なく吹く楽器ではないだろう。」小声


 途端に感覚が戻り、痛みがぶり返して来た。


 彼の表情を読み執事がさりげなく手を貸してくれる。椅子に掛けると、エドワードがやや上気した何とも照れ臭そうな顔をして握手を求めて来た。


「練習もしていないとか言う割に、心が震えるような素晴らしい演奏だったよ、カイル君。僕の事は、これから兄上でもエドでも何とでも好きに呼んでくれたまえ。」


 この家の家族は押並べて体育会系である。手を強く握られるのも、そのまま上下に振られるのも親愛の情なのだが、脇腹に響く。


 案の定、奥の席から侯爵が大声で喝采を贈って来た。


「いやぁ、カイル君。初めて聴かせてもらったが、中々の腕前じゃないか。明日の狐狩りも是非参加してくれ給え。娘も楽しみにしているよ。なぁ、エレーナ。」


 彼の横に座った愛らしいドレスの少女がガブリエルを見て頬を赤く染め頷いた。


 早く帰るつもりでいたのに、これを、墓穴を掘ったと言わずして何と言うのだろうか。否、ガブリエルにはこう言う雰囲気こそ合っている気がして執事は溜息を洩らした。



 催し物の途中でも平気で帰宅してしまうのがカイルだったが、何だかその場の雰囲気でガブリエルは明日も参加する事になってしまった。彼にしてみれば屋敷にいてもあの暗い雰囲気にいたたまれなくなるばかりか、怪我をしているからと言う理由では休ませてももらえないだろう。彼の体調を考えると、かえって好都合だったのかもしれないと執事は思い直す事にした。





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