理不尽な要求
何も説明の無いまま、馬車に彼と同乗して何処かへ向う。それでも不安を隠し切れずガブリエルはミカエルを見て口を開いた。
「僕に何をさせようと言うのですか? こんな服を着せて。意味が分かりません。教えてもらえませんか? 何かの役割を果たすにしても何も知らないのでは上手く出来ません。」
執事は自分を見るガブリエルに眉を寄せた。
「今から人に会ってもらう。その目はよせ。卑屈な態度を取ってはいけない。お前は、この伯爵家の当主として、ある人物から融資の承認を得る商談に臨むのだ。」
彼の言葉には決定的に説明されていない部分が有る。
「当主って?」
意味が分らなかった。名代として、と言い間違えたのか? いや、そうではない。
「カイル様の代わりを僕が? そんな事、どうして出来るんですか? 変な事を言わないで下さい。確かに僕の専攻は経営学です。でも何も予備知識も無い中でそれはいきなり無理です。」
混乱し首を傾げる彼に執事は、目的地でもある市街地の瀟洒な老舗一流ホテルの灯りを目に留めながら言った。
「予備の知識なら私が教えた筈だ。」
「えっ?」
「それより他は何も要らない。そろそろ着くぞ。お前は馬車を降りた瞬間から、伯爵カイル・バルドベークだ。分かったな。お客様に失礼の無いように気を付けろ。」
「訳が分からない。僕が伯爵なんて。そもそもお客様って誰ですか?」
「坊ちゃんに会えば分かる。お客様は、さる公爵家のご当主ロンダート卿だ。以前より坊ちゃんに融資の話しを持ち掛けておられた。今日は二人きりで会って最終的な打ち合わせをする事になっている。」
時刻は午後十時を過ぎている。
「こんな時間から?」
思わず呟いたガブリエルに、
「余計な事は喋るな。お前は公爵の言われるまま、ただお気に召す様に従って差し上げればいいのだ。簡単だろう?」
言葉を濁すような彼の口調に、ガブリエルは執事を見た。
「それって、もしかして、僕にその公爵と寝ろと言っているんですか?」
執事は口元を緩め微笑んだ。
「物分りがいいな。今まで何の為に私がお前に教えてやってきたと思っている。やんごとない身分の坊ちゃんにはそんな真似をおさせする訳にはいかない。ロンダート卿は坊ちゃんに随分ご執心なのだ。素直に応じて充分に喜ばせて差し上げろ。」
ガブリエルは何食わぬ顔で言った執事を睨んだ。殆どの事は学費の為と我慢出来る。しかし、こればかりは許せない。
「じゃぁ、今までの事は、全てこの日の為に……そんな。僕は男娼じゃない!」
彼は言葉とは裏腹な笑みのままに答えた。
「誰が目的も無く下々の貧乏人を屋敷に寝泊りさせるものか。それにこの私が、お前ごときを好き好んで抱いていたとでも思っていたのか、身の程知らずが。お前には多額の負債が有るんだ。それを返すためだ。諦めろ。」
「負債? それは屋敷で働く事で返済全額免除だと学部長から聞いているんだ。」
執事はニヤリと笑ってガブリエルを見た。
「そんな事で返せる額だと、本気で思っているのか?」
「えっ?」
ホテルの前に馬車が停まると、伯爵の従者であるリードと、一人の少年がホールへ出て来た。彼の顔を見たガブリエルはあまりの驚きに動けなくなった。彼は自分と瓜二つなのだ。ましてや散髪されて今は髪型も彼と同じになっている。鏡を見ているような何とも言えない気分だった。しかし、彼が醸し出すのは、明るい金色の髪に似合わない異様に暗く冷たい雰囲気だ。
ガブリエルと同じ青い瞳をした少年、伯爵カイル・バルドベークは静かな声で言った。
「調教は終わっているな、ミカエル?」
彼の声までが、自分にそっくりな事にガブリエルは悪夢を見ている様な気分だった。
若い執事は恭しく頭を下げた。
「滞りなく。」
ガブリエルが馬車を下りるまでに、ただの一度だけカイルは視線を彼に投げた。
「それにしても、見ているだけで気味が悪い。帰るぞ、リード。」
彼らと入れ替えに、後ろに付けていた空の馬車に乗り込むカイルとリード。
ミカエルは呆然としているガブリエルを横目で見つつ、カイルに頭を再度下げた。
「後はお任せ下さい。」
馬車は静かに走り去って行った。
そんな美味い話しが有るものか、と言った友の顔を今更思い出す。
ここへ向かう馬車の中でミカエルは、澄まし顔でガブリエルに手の内を全て見せて来た。今までの事も全て、伯爵の指示によるものだったのだと。
海外へ商談の為に渡航していた兄の病死と、両親の事業の行き詰まりで彼が背負わされた負債額は膨張し続けていた。万事休して首を括るしか無かった両親を救う為に、昔のよしみで伯爵家が負債を肩代わりしたが、それにより伯爵家もそれ相応の借金を負う事になった。これを確実に返して行くには、彼が伯爵の恩に報い、公爵との融資話を成功させてくれる事を、カイルは貴族としての恥を尊大な態度で隠し、その実は大変に期待してくれているのだとか。たまたま彼が伯爵と生き写しだった事が幸いしたと、ミカエルは悪魔の様に美しい微笑みを浮かべた。
「貴方は分かっているのですか。それは僕に、人としての尊厳を売り渡せと言っているんですよ。人権蹂躙甚だしい侮辱だ。」
「普通は売り買い出来るモノですらないのを承知で、坊ちゃんは買うと言っておられるのだ。お前の両親が関わった取引相手はアヘン絡みの危険な奴等だ。分かるな。坊ちゃんが買うとおっしゃったのはお前の両親の命だ。」
執事の眼差しにガブリエルは黙り込んだ。
決して責任感が強い方だと言う自覚は無い。
早い話、家の為、親の借金の為に自分は知らない内に伯爵家に売られていたのだ。そもそも実家のスコット商会が、伯爵家と昔取引をしていたとは全く知らない話しだった。
ガブリエルは、伯爵家の書生にしてもらえる事が決まり、少し有頂天になっていたあの日の自分を思い出し、何ておめでたいんだと笑いが込み上げそうになった。伯爵の側としては受け入れる学生は最初からこの自分限定だったのだ。事情を話せば逃げ出す可能性も有る。故に今まで隠していたのだ。何て卑怯なんだと思ったが、それでも正面をじっと見据えたままの執事の後ろ姿を見た。そんな手段に頼らなければ存続出来ないのなら、伯爵家などなくなってしまえばいいのだ。そもそも何故立ち行かない経済状態の伯爵家が、スコット商会の肩代わりをしたのかも疑問だった。
案内されたスイートルームに入って行くと、ミカエルは窓際の椅子に掛けた壮年の男が公爵だと耳打ちした。
男はガブリエルの姿を目にした途端、呆然として立ち上がった。
「きっ、来て、くれたのか。」
唇を震わせ、様々な感情を押し込めようとしているのか、彼は口元を手で押さえた。そして気を取り直した様に表情を緩め近付いて来た。しかし後ろに控える執事に気付き、態度を一転させ憮然として立ち止まった。
ガブリエルはチラリと執事に目配せをした。
「下がっていてくれ、ミカエル。私は公爵と二人だけでお話がしたいんだ。」
彼の落ち着いた声音にハッとした様子で公爵は更に顔色を変え、何か恥ずべき事でも隠そうとする子供の様に慌てて首を横に振った。
「いや、私は……その……」
カイルに執心していると聞いていたが、公爵の様子は、まるで初恋の相手を前にした少年の様だった。
いきなりロープで縛られるか、鞭で打たれれるかと酷い想像をしていたのに、これでは立場が逆だとガブリエルは彼に微笑んだ。
「どうなされたのですか、公爵。」
明かされた秘密に憤り、混乱していたさっきまでの彼とは明らかに別人の様な静かな声に驚いていたのは執事の方だった。
「ミカエル。公爵のお世話は私に任せて。お前はラウンジででも少し休んでいなさい。たまには羽を伸ばして来るといいよ。」
訝る自分の様子に微笑んだガブリエルが纏う何かに、彼は唇が震えるのを覚えた。
「……か……かしこまりました。」
そんな執事に可笑しな奴だと微笑む主人。
頭を下げ、そのままミカエルは部屋を出た。
彼がドアを閉めると、後ろで小さく鍵が掛かる音がした。ガブリエルが錠を下ろしたのだ。
執事はハッとして部屋のドアを振り返った。
何故こんなにも胸が痛いのか。あの声音。自分はここへ一体誰を連れて来たのだと、訳の分からない思いが執事を焦らせた。
確かに聞き覚えの有るあの話し方……演じているとは言え、それはこの冷徹な執事の鼓動を激しくさせるに十分だった。
ガブリエルが、自分は伯爵とは別人であると公爵に嘆願すれば事は即座に破綻する。しかし、彼の目は覚悟を決めていた様に見えたのだ。この要求を呑み伯爵家と共に生きると。
いや、それよりも、彼の静かな声に執事は心臓を鷲掴みされた様な感覚を否めなかった。冷静に成れと自分に言い聞かせ、壁際に寄って彼は姿勢を正した。
この取引で、公爵との秘密を握る彼がカイルに負わせる借りは実際大きな物だ。
カイルはその事にどれだけの重きを感じているだろうか。主人とは言え、人を人とも思わない、どこか中性的で優しげな面影とは真逆の彼の残忍性に自分も戦慄を覚えた事が有る。この計画を発案したのもカイルなのだ。
執事はこめかみを押さえた。
公爵の言いなりになれと言いはしたが、執事の心中は決して穏やかではなかった。彼こそ好き好んでこんな事にガブリエルを加担させたかった訳ではないのだ。一度許せば公爵との関係はこれからずっと続く事になるだろう。金の為とは言え、代償として被る心の痛手は計り知れない。こんな自分を彼は決して許さないに違いない。
大学の中庭で友人と談笑する彼を見た時から、彼の心は言いようの無いざわめきに呑み込まれていたのだ。彼の澄んだ青い宝石のような瞳に、こんな自分が手を触れてはならない存在だと直感していたからだ。それでも主人からの命令には従わなくてはならない。全てが終わっても、この想いは隠し通さなければならない。例え幾度肌を絡め合っていようとも。
あの初めての夜、この唇が震えていた事にガブリエルは気付いていただろうか。
全てを告白し、二人でこんな所から逃げようと、どれだけ言ってやりたかった事か。
だがもう時は遅い。
わざと自分が放った言葉に唖然と見返した彼の顔を思い出し、執事は溜息を吐いた。その為に彼が纏ったのは、何処で身に付けたのか、退廃的な貴族の香りと偽りの仮面そのものだった。あまりに自然で違和感の無いガブリエルの微笑みが頭から離れなかった。
公爵との密談が避けられないのであれば、せめて苦痛を味合わせない様に教えたつもりだった。この伯爵家と関わりを持った事はそんな闇をも背負わなければならないのだと。
しかし、幾ら考えても理不尽だ。
何を今更……
中からは物音一つして来ない。執事は無意識に耳をそばだてた。
やがて誰かの嗚咽とも喘ぎとも取れる声がドアの隙間から微かに漏れ聞こえて来た。そしていきなり止んだ。ガブリエルの声ではなかった気がする。偽物とは言え、主人から下がっていろと言われている手前、火事でも起こらない限りドアは向こう側からしか開けられない。
ドアの鍵が中から開く音が聞こえるまでの時間は、ほんの数分だっただろうか、それとも数時間だっただろうか。
ガブリエルが扉を開けて公爵を支える様に付き添って出て来た。弱々しく縋る様に歩いていた公爵だったが、そこに立つ執事に気付き慌てて姿勢を正した。
何のトラブルも無かったのかと、執事は不審に思いながらも公爵に頭を下げた。そんな彼にガブリエルは表情を緩めた。
「公爵がお帰りになる。」
二人とも衣服の乱れは全く無く、ただ公爵の目は疲弊した様子とは裏腹に何かが吹っ切れた様に穏やかだった。
「融資の件は私に任せてくれ。今日は話しが出来てよかった。君の言っていた園芸用品を取り扱う総合商社立ち上げの事だがね、私もそんな会社が有ったらきっと楽しいだろうと思うよ。最近奥方連中の間では、敷地内の庭を改良して自慢し合うのが流行っているらしいからね。是非プランを具体的にして見せて欲しいな、待っているよ、カイル君。」
言われてガブリエルは微笑むと、公爵の手に何気なく、労わる様にそっと触った。
「はい。なるべく早くご連絡します。でも、慣れない企画書を書くのに時間が経ってしまいそうで、待っていてもらえますか?」
公爵は彼の瞳を目を潤ませて見詰め返した。
「いいとも。次こそゆっくり話そう。」
彼に見せていた緩んだ表情を元に戻し、公爵はミカエルに邪魔だと言わんばかりに一瞥を投げると、再びガブリエルに笑みを投げた。
「見送りは結構だよ。じゃあ、おやすみ。」
彼も手を小さく振り合図を送る。
「おやすみなさい。」
それを見て何故かぞっと総毛立つ執事。
やや前屈みで歩く公爵が廊下の向こうに見えなくなると、ミカエルはガブリエルを見た。
「公爵に何をした。」
彼は少し笑って執事を見た。
「そっちこそ、その心配顔は何?」
余裕さえ見える彼に益々訝る執事に、
「昨晩は僕に会えると思うと緊張して眠れなかったそうだ。眩暈を起こされたみたいで今日はこれで帰るって向こうからおっしゃったんだ。僕はてっきり手酷く扱われると思ったのに、身構えて損したよ。近くで見る僕は、先代と凄く似ているんだそうだよ。」
執事は彼を改めて見た。何も言葉が出なかった。純粋純朴なだけの青年だと思っていたのにこの貫禄とさえ言える落ち着き様。彼の意外な強かさを見た様で、かなりの曲者かもしれないと思ったのだ。
そんな彼に首を傾げるガブリエルの微笑みは、名前の通り天使の加護を受ける者そのものに見えた。
「いけなかったの?」
「……それだけじゃないだろう、公爵は取り乱されたんじゃないのか。」
「話しをしている内に急にね。先代とは親しい友人だったらしいよ。その事知ってた?」
ガブリエルは今出てきたばかりのスイートルームのドアを振り返った。
「どうせ明日の朝までリザーブしてあるんだよね? このまま帰ったらもったいないくらいのいい部屋だ。さすがに疲れちゃった。中に入ろう、お前も食事はまだだろう? 何か頼んでくれ。空腹で目が回りそうだよ。」
ミカエルは黙ってじっと彼を見ている。ガブリエルは少し溜息を吐いて言った。
「ぐずぐずするなミカエル。部屋に入れ。命令が聞けないのか。」
怒っているのか、感情を読まれたくないのか押し黙ったまま執事は、ドアノブに手を掛け開けた。ガブリエルが先に入室するのを職務遂行中の執事らしく待って彼に続いた。
ガブリエルは部屋に入るなり、足早に洗面所へ向かい音を立てて水を出し、手で水を何度も汲んで顔を洗ってうがいを繰り返した。後ろから入って来たミカエルに気付いてもそんな余裕が無いのか振り返らない。
「……やっぱり……ダメだ。」
彼は喉に指を入れ胃の中の物を全て吐いた。暫く吐き戻しの動作は止まらない。
決して快くはない嘔吐する音を黙って後ろで聞いているミカエル。
ようやく治まったのか顔を洗い、それでも苦しそうに息を乱しながらガブリエルは振り返った。
「あなた達は公爵にとんでもない誤解をしていたんじゃありませんか? 聞いていた男娼まがいの事なんて一切要求されなかった。でも……こんな茶番もうごめんですからね。」
言葉を言い終らない内に、執事は手袋を脱いで素早く彼の顎を無造作に掴んだ。
「……」
顔を上げさせられた体勢で、ガブリエルはミカエルの目を見た。
「あんな心にも無い事をわざと言って、そんな顔するくらいなら、余計な事を言わずに、覚悟を決めろって、そう言えばいいじゃありませんか。僕が他の誰かに触られる事をあなたが平気でいられない事ぐらい……」
彼は、ガブリエルと接する時には感情を常に殺しているつもりでいたにも関わらず、見通されていた事に愕然とした。
「……」
そっと手を離し、ミカエルは彼の濡れた髪を整えるように撫でると、その青い瞳を愛おしそうに見詰めた。そしてその唇がまるで触れれば壊れてしまう儚げなものでもあるかの様に注意深く自らの唇を絡ませて行った。
つづく
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