執事の横顔


 貴族の館とは言え、主人不在の今は使用人が主人に対して導線などを気遣う必要も無く、通常ならば早朝などに行われている筈の清掃作業も、昼間にしても構わないとミカエルはそれぞれの作業を振り分けた。


 二階の廊下の窓拭きを言い遣ったガブリエルは、そこからの広々とした眺めに溜息を吐いた。典型的な様式の庭園はあまり手入れされているとは言い難いが、その割に季節の花々はそれなりに美しく咲き揃い、背の高い針葉樹とバラを中心に配した設計者の趣向が見て取れた。きっと降りて見たら、芳しい香りに包まれ身も心も癒されるに違いないなどと想像を巡らせ、彼がふと庭を見下ろすと、若いメイドのマーゴが両手で持てるほどの小さな何かを布に包んで木の根元に穴を掘り、埋めてやっているのが見えた。


 彼女は悲しそうにうつむき、時折涙を拭う仕草も見えた。飼われていた犬か猫でも死んでしまったのだろうか。だとしたら自分のペットでもないものにも涙する彼女は、やはりうら若い優しい女性なのだ。


 よく見ると、彼女が座り込む木の根元には他にも埋められているモノが有りそうな新しい埋め戻しの跡が幾つも有った。


 それにしても、飼われていたのは犬ではなさそうだった。泣き声が一切聞えなかったのだから。では猫だったのだろうか……


 そんな事を考えていると、不意にミカエルから声が掛かった。


 思わず息が止まりそうになるガブリエル。執事の手には手袋が嵌められていないのだ。いくら暇だからと言って、こんな日の高い時刻から求めてくるのはどうなんだと、つい下を向いた彼に対して、少々訝りながらもミカエルは無表情で言った。


「そこが終わったら来い、風呂に入れてやる。もたもたするな。それと、余計な詮索はするな。」


 風呂? 風呂なら自分で入る。入れてやるとはどう言う事なんだと思いながらも、

分かりましたとガブリエルは静かに答え、掃除の用具を手早く纏めると階下へ向った。彼からの命令には口答えも聞き直しも一切許されない。おまけに直ぐに実行しなければ、夕食を抜かれてしまう事もあるのだ。


 この屋敷では上下関係は絶対で、今の所、使用人の中ではリードと言う中年の従者が筆頭で、執事のミカエルは二番目らしい。入ったばかりのガブリエルは当然最下位。中流とは言え、多少裕福な商人の家に育ったガブリエルにとって、使用人を使う立場にいた事は有るが、逆の立場と言うのは無く、自尊心など放棄しなければおかしくなりそうだった。


 ミカエルのガブリエルに対する態度はペット以下の者を扱うレベルとしか感じらないが、伯爵は知っているのだろうかとふと思う事も有る。


 雇い主である伯爵本人からならば、学費肩代わりの代償として致し方ないと納得するのだが、執事が勝手にやっているとすれば問題だ。


 直訴すれば待遇の改善に繋がるのかもしれないが、彼がここを出て行かないのは、密かに他にも理由が有るのだ。それは執事の氷の様に冷たい瞳の下に時折見せる素顔に気付いてしまったからかもしれない。夜の闇に紛れそっと素手で触れてくる彼は、儀礼的な態度とは裏腹にとても優しい。彼の素顔が見てみたい。ガブリエルの中にそんな欲求が有ったからなのかもしれない。




 一抹の不安を抱えながらガブリエルが浴室へ入って行くと、室内は暖かく湿った空気で満たされ芳しい花の香が立ち込めていて、風呂と言うのは冗談ではなさそうだった。カーテンを開けると、上着を脱ぎブラウスの腕まくりしてエプロンを着けたミカエルが待っていた。彼は手に持った海面に石鹸を付け泡立てながら言った。


「さっさと衣服を脱いで浴槽に入れ。」


 何が始まるのか聞いても恐らく答えは返って来ないだろう。ガブリエルは溜息を漏らし、着ている物を渋々全部脱いだ。今更隠す物など彼の前では何も無い。変に臆する所など見せようものなら必ずきつく説教されてしまう。彼は言われるままに湯にそっと浸かった。


(ダマスクローズの香りか……でも何でこんな事を?)


 脱いだ衣服を全部、洗濯の為に大きな鍋に沸かした湯の中に入れ終ると、ミカエルは手際よく泡立てた石鹸で彼の身体を丁寧に洗い始めた。


 何故こんな事をされるのか分からず、戸惑いながら彼の顔を覗き見た。


 執事は何の説明も無く、主人の伯爵にでもするように注意深くそれこそ銀食器の曇りを取るように彼を磨いて行った。足の先から髪の先に至るまで。磨き残しは一切例外無い様に。

 

 こんな時の執事の横顔は、整い過ぎているのも相まってか、雲間から天使の歌声が響いて来そうな程神々しくもあり、ガブリエルはつい見とれてしまうのだったが、普通なら、自分が例えばこの家の主人側の者なら、入浴はきっとメイドの仕事であって、執事の仕事ではない筈と思うのだった。




 全身を洗い終わりタオルで髪を包んだ格好で水気を拭き取られ、傍らのまるで診察台のようなベッドに横になれと言われ従うと、今度は身に高級そうな香りのローションを塗られマッサージされた。気持ち良くなってついウトウトしていると、執事は呆れた顔をして彼の頬を軽く叩いた。


 驚いて起き上がると、どれだけ眠っていたのか、彼のブロンドの髪は勝手に綺麗に散髪され乾いてしっとりといい香に包まれ、手の爪も足の爪さえも磨かれ艶めいていた。おまけに脱いだ服は既に洗濯済みになって窓辺にきちんと干されていた。そんな事をされていても全く目が覚めない程疲れていたのかと自分に呆れるガブリエルだった。


「いつまで寝ている気だ。起きて用意した服を着ろ。出掛けるぞ。」


 はっきりしない思考のままでガブリエルは立ち上がり、言われるままに籠の中に入っている下着や靴下を身に付けて行った。よういされていたブラウスは触り心地からして絹の様だった。


 一応これでも金持ちの息子だ。物を見る目だけは持っている。


「こんな上等な物……どうして。」


「つべこべ言うな。」


 合わせて着ろと命令されたのは紺のカシミアのスーツだった。出された物のどれもが新品で、サイズも身体にピッタリ合ってはいるが、それら全てが自分の為に作られたとも思えないガブリエルだった。


 ネクタイを結ぶのにもたついていると、執事は苛立った様子で歩み寄り、衣服の縫い目の曲がりなど着こなしきれていない所を微調整する様に手を貸してきた。上等な服も着方次第で台無しになる事を当然執事は知っているのだ。


 ネクタイをきちんと締められ、上目遣いで執事を見るガブリエル。


 少し離れた位置で全体の仕上りを満足そうに見るミカエル。


「上出来だ。行くぞ。」



 果たして何処へ行こうと言うのか、ガブリエルは先に歩く執事に不安を覚えるのだった。







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