大天使の名を冠する者

 

 例の執事、ミカエル・ファルシオンは約束通りの場所に馬車を待たせてガブリエルが来るのを待っていた。思わず零れてしまいそうになる笑みを堪えて、彼は執事が開けてくれた扉から馬車に乗り込んだ。


 彼が連れて行かれたのは、郊外にある壮麗な屋敷だった。主人の名前は伯爵カイル・バルドベーク。使用人は彼を含めて六人になる。伯爵家には以前にも書生がいたが、彼と同じ様な処遇で、大学を卒業すると同時に独立して出て行ってしまったのだとか。それにしてもこんなに大きな屋敷で使用人がたった6人だけしかいないなんて、と思わず見上げるガブリエルだった。


 伯爵は仕事の関係で暫く不在だと説明され、挨拶もままならないもどかしさを感じたが、新しく始まる暮らしへの期待もあって、ガブリエルは馬車が屋敷に到着するまでの間、嬉嬉として執事を相手に話し続けたのだった。




 荷物と名の付くガブリエルの物は、大学で使う教科書と数も多くない着替えなどだけだった。それらを全て運び終えると、それでも気が付けばいつの間にか日が傾き始めていた。


 ランプに灯りを点し一息吐いていると、何も言わずにミカエルが部屋に入って来た。


 彼と言う存在にまだ慣れていないガブリエルが何の用だろうと問う間も無く、戸惑う彼に構う事無く、執事は白手袋を取ると燕尾服の上着を脱ぎ捨てベッドに彼を押し倒した。


「何をするんですか……やめ……」


 突然の事に動転し、抵抗するガブリエルの口を無理矢理キスで塞ぐ執事。唇が離れた瞬間抗議しようとする彼に、執事は口元に恐ろしい程美しい笑みを浮かべて言った。


「こうなる事を期待してここに来たんじゃないのか? そんな事にも気付かない程、私は鈍感ではないよ。」


 彼と言葉を交わす度、その声の響きに陶然となっていた心を見透かされてしまっていた事に気付き頬を赤らめ、それでも睨み返す彼に執事は微笑んだ。


「もしかして、そんな自分を自覚したのは初めてなのか? 何も心配しなくていい。私も一目見た時から、君の視線が私の着衣を淫らに脱がせて行く想像をしているのを楽しんでいたんだよ。」


 ガブリエルは、誰にも知られていない筈の夜の秘め事までつぶさに見られていた様な恥ずかしさに、ただ彼の瞳から目を逸らす事も出来ず言葉を失った。執事は、今度は優しくそっと唇を重ねて来た。


「私を受け入れて。抵抗しなければ乱暴はしない。初めはみんな少し苦痛が伴うものだ。私がずっとどんな思いで君を見ていたのか、君も気付いていてくれていると思っていたんだ。私の勘は当たるんだが……違うかな……?」


 彼の潤んだ瞳に拒絶しない事を確信したのか、執事は不安に身を硬くして目を閉じてしまった彼の様子を楽しんでいるように薄く笑って眺めながら、丁寧にシャツのボタンを外し、肌を露出させると指先で彼の感覚を確認するように触れて行った。




 伯爵家の書生となったガブリエルの主な仕事は、屋敷の掃除や細々とした手伝い。とにかく人手が少ないのに屋敷がやたらと広くやる事は数限りなく有った。主人が不在とは言え手を抜く事は許されないのだとか。


 あの日から美しい執事は当り前の様に態度を冷たく豹変させ、ガブリエルが働く事にも全く慣れていない事への配慮も無く、もたついていれば罵声を浴びせ、逆らえば手を上げ、まるで自分の奴隷のように彼を扱う様になった。戸惑う彼に対し、執事は躊躇いも無く、必要な時以外は決して目を合わせて来ようともしないのだ。この変貌にどうしたらいいのか混乱する彼を尻目に、執事は用事の他は声も掛けず、命令口調で常に彫刻の様に無表情だった。


 それにしても、ミカエルが手抜き云々と言う割に、内側から見た伯爵の館は掃除などいつされたのかと思う程に散らかされ、埃が溜まったままの状態だった。廊下も階段も窓も全てが薄汚れているのだ。今まではしなくてもよかった所まで、自分が来たからわざとさせているのではと、そんな気さえした。


 そんなちくはぐな屋敷での日常で確かな事は、執事が人前では必ずきちんと嵌めている白手袋を、ガブリエルの部屋へ忍んで来る日の夕方は何気なく脱いでみせる事だった。それが合図でありガブリエルの身体を無意識に熱くさせていた。それでも彼を抱くミカエルは言葉も少なく、楽しんでいると言うよりもまるで儀式か何かの様に一通りの事を済ませると、自室へ引き上げ、決して乱れた姿をガブリエルには見せなかった。


 他の使用人達は、新しく書生として連れて来られたガブリエルと執事の関係を知っているのか、遠巻きにしているだけでそもそも無駄口は一切禁止されているのか、彼に話し掛けようとする者もいなかった。誰とも話せない精神的な孤独と疲労感が何とも耐え難く、深く考える事を止めろと言われている様にさえ思えたが、自分で金を稼ぐ事は厳しい事なのだと、以前兄から言われた事を思い出し、彼は親の庇護の元で今までどんなに恵まれた境遇にいたのかをつくづく思うのだった。


 とは言え、執事が自分を心情如何に関わらず諸々の捌け口にしているは明らかと言えたが、彼を見ていると、何か口に出せない事情が有る様な気がしてならないのも事実だ。かと言って問われる事を執事の眼は最初から拒絶している。その何かが彼を追い詰めて行きそうで、酷い扱いをされている相手にも関わらず、ガブリエルには気掛かりなのだった。




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