第一章 影
伯爵家からの使者
二ヶ月ほど前 市内のとある大学のラウンジ
麗らかな午後の木漏れ日の中、学生達の賑やかな話し声が聞こえている。
向かい側に座って、得意げに話す世間知らずな友ガブリエルを呆れ顔で見るリチャード。
「実家が破産したとか言って、この間までしょげ返っていたくせに、お前の立ち直りの速さには呆れるよ。それで、お前本気でその屋敷に住み込むつもりなのか? 今時、書生なんて。話が出来過ぎじゃないのか? いくら大学からの紹介でも、俺は何か裏が有るんじゃないかって疑って掛かった方が得策だと思うぜ。世間はそんなに甘くないよ。」
彼はこの歳になるまで殆ど無菌培養に近い育てられ方をされて来たのではと、友人達が思ってしまう程の人好しで世間擦れしていないのだが、実家も既に人手に渡っていて自分の持ち物さえ取って来れなかったと言っている割には、寮に一通りの学用品も日用品も有るし、別にいいか、なんて言うから、少しは親の事が心配じゃないのか、と聞いても、ここで心配しててもどうしようも無い、とあっけらかんとしている所が逆に、こちらに気を遣わせまいとしている結果なのだと思うと、余計に放っておけない心情になるものだ。
向かいの席のその金髪の友人は、やや上気したように笑みを浮かべて言った。
「相手は伯爵様、貴族だよ。金はどれだけでも有るらしい。アパート代も食費も浮くんだ。まぁ、アルバイトをしていると思ってやってみるよ。それに貴族の暮らしなんてさ、普通だったら僕ら庶民には覗き見る事も出来ないじゃないか。それを屋敷の中に入れてもらえるんだ、何だかワクワクするよ。」
良家の子息が集められていると言っても過言では無いのがこの大学だが、彼を良く知るこの友人は、彼に必要なのは警戒心、もしくは彼を世間の風から全面的に守ってくれる守護神のご加護だと思っている。とにかく見た目以上にその心には曇りが無いのだ。
テーブルに顎肘付いて彼を見るリチャード。
「楽天的で憎めないのがお前の取り得だけどさ、万人に通じるかな。俺は何だか胡散臭くて心配だよ。丁度長期の休みに入っちゃうし……まぁ、お互い子供じゃないか。ちゃんと休みが明けたら顔見せろよ、ガブリエル。」
「分かってるって、リチャード。ありがとう心配してくれているんでしょ。君の友情には感謝してる。」
それより更に少し前……
ガブリエルは、学生課に親の事業が破綻し、来期分の学費の支払いが出来るかどうか分からないと相談をしていた。事務官は渋い顔をして腕組みしたまま黙り込んでいた。まだ奨学金制度など確立されてもいない時代である。成績がいくら優秀でも、金の切れ目は縁の切れ目なのだ。それでも学業を続けたいガブリエルは、何か道は無いかと懇願していた。
「ご親戚筋にご依頼になられては如何ですか。大学と致しましては如何ともし難いですね。」
学生課からの返事は彼が予想した通り、芳しくなかった。
それから暫く経ったある日。
大学の学部長の方から直々に良い話が有ると、学生課からガブリエルに呼び出しが来た。何でも何処かの貴族が、慈善事業の一環で、経済的に困窮している将来有望な学生を屋敷に書生として迎え入れ、働いてもらう代わりに学費を支払い、支援したいと大学側に申し入れをして来たのだとか。地獄で仏とはこの事だとガブリエルは目を輝かせた。是非ともその貴族様のお眼鏡に適い、支援が受けられますようにと祈る思いだった。
大学からの指定の時間に、彼が学部長室へ行ってみると、話に聞いていた貴族の家の紋章が襟に刺繍された燕尾服で身を包んだ執事と名乗る一人の若い男が、主人の名代として待っていた。
彼は、ガブリエルが今まで見た事が無い程美しい顔立ちで、その柔和な表情もまるで伯爵家が密かに長年守り慈しんで来た宝を思わせた。青白い程透き通る様な肌の色に切れ長の大きな目。瞳はどこまでも深い青い色をしていた。取り分けその真っ直ぐな黒髪は肌の色との対比が絶妙だった。そして唇は紅を注したように赤く、ガブリエルはそこから紡ぎ出される流暢な王侯貴族の使うロイヤルイングリッシュを、魔法の呪文の様に聞いていたのだった。
「成績は教授も太鼓判を押す程優秀でいらっしゃるとか。お家柄は商家。ご両親の諸事情もこちらでは既に承知しております。今日は人柄を見ると言う事で、二三質問をさせて頂きます。それでは……」
有り得ない湖。黒髪と青い瞳の組み合わせをそう呼ぶらしい事を、ガブリエルは彼を見ながら思い出していた。
何をどう聞かれたのか、ちゃんと答えられたのかどうなのか、自覚も何もしていない舞い上がった状態のまま所謂面接は終了した。
「教授方のご推薦に異議を申し立てるつもりは毛頭ございません。こちらとしは是非当家にいらして頂きたく存じますが、いかがでしょうか?」
即答したい気持ちを抑え、熟慮致しますと、彼が返事を返すと、その美しい執事は彼が一生忘れられないかもしれない優しい微笑を彼に投げて寄越した。
経済的に困っているのは事実だが、あまり下手に出て、媚びている様に見られるのも嫌だという思惑からだったが、実際はすぐにでもその屋敷に住み込みたい思いだった。ガブリエルは男色の気は自分では一切無いと思っていたが、ただ純粋にこんなに美しい執事とずっと一緒にいられるなら、それもいいかと何処かで思っていたからかもしれない。
彼は二日後大学を通して、書生の話しを謹んでお受けしますと伝えた。
それがとんでもない非日常の始まりであるとは知らずに。
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