漆黒の翼
桜木 玲音
序章
暗い森の霧の朝
漆黒の翼
桜木 玲音
序
時は産業革命も終盤の頃だろうか。
イギリス王都にほど近いとある街の郊外に、近くの村人からは「暗い森」ロードバルトと呼ばれる所が有った。時代によっては村の掟に従わないはみ出し者や、他所の土地から流れて来たならず者が住み着き、治安の悪い事も有ったが、国家を平定した王の軍によりその多くは遥か昔に排除され、今は静かなだけの森になっている。
その鬱蒼と茂る森の畔に、代々領主として一帯を治めて来たフォルスタ伯爵バルドベーク家のゴシック様式を基本とした荘厳たる雰囲気の屋敷が建っていた。外壁の殆どが白を基調とした煉瓦で覆われ、幾つもの塔を有し、どの屋根も雨の多い地域性を考慮してか艶々とした紺色の瓦が用いられている。規則正しく並んだ窓は上部が半円形になっており、どれも手の込んだ波のモチーフが基本の鉄製の装飾枠にガラスが嵌められ観音開きとなっている。
玄関の鉄鋲が打たれた黒い大きな扉の上の壁には、ステンドグラスで飾られた華やか且つ豪華なバラ窓が配され、射し込む光を七色に見せていたが、今は陽の光が少ない季節の為か、屋敷全体が何処か陰湿な空気で淀んで見えた。ましてや今朝は不気味な程に濃い朝霧が辺り一帯を覆い、暗い森は一層暗く、微かに見え隠れする黒々としたオークの巨樹達は、風も無い森が何処までも続いているかの様に見せていた。
その時、突如女の悲鳴が邸内に響いた。
「キャー!」
早朝から主人らの朝食の準備の為厨房に立っていた料理番のエイドは、そのただならぬ仲間の叫び声を聞くや走り出した。
石造りの階下の、庭に面した廊下を走り抜け、玄関とは反対側に当たるもう一方のバラ窓のある階段の踊り場へ一気に駆け上がる。声の方向から、異変は恐らく二階の何処かの部屋で起こっているに違いないと踏んだのだ。
上り切った所で廊下を見ると、突き当りの書庫の前で声の主の侍女が、持っていた銀製の盆を取り落とし、ガタガタと震え立ち尽くしていた。
「どうしたんだ、ハンナ!」
慌てて声を掛けたものの、その尋常ではない様子に駆け寄り、彼女が無言で指さした暗い室内を共に恐る恐る見た。
辺りを覆う異臭に総毛立ち、即座に何が起こったのか察した彼は、彼女を背後に下がらせた。彼が中へ入ると、この屋敷の主人若干十八歳の伯爵カイル・バルドベークらしき人影が天井の梁からロープで首を吊ってぶら下がり、その前に若い執事のミカエルが言葉を失くして、ただ呆然と床を睨む蝋人形の様な白い主人の顔をじっと見上げていた。
狭く薄暗い室内を、エイドは執事を掻き分ける様に吊り下がっている少年の前に立った。執事はよろけ、カイルが使用したと思われる本を取るための脚立をひっくり返し、向かい合った書棚に肩からぶつかって、ようやく光の無い主人の瞳から目を離す事が出来た。
確かめるまでもなく、カイルは目を見開いたままに既に亡くなっていた。
「ミカエル、こりゃあ一体何が有ったんだ。」
問われても執事はただ首を横に振るだけだ。
「しっかりしてくれ、とにかく降ろして差し上げねぇと、このままじゃ……」
騒ぎを聞き付け、屋敷の使用人達が次々と集まって来た。
初老の執事スミスが息を呑むが、彼の反応はまだ冷静だ。
「エイド、ご遺体には触らない方がいい。」
その時ようやく若い執事が顔を手で覆い、声を震わせてたどたどしく言った。
「遺書が……朝、坊ちゃんの様子を見にお部屋に行くと姿が無くて、書斎のデスクに……私のせいだ……坊ちゃんがこんな事になったのは……私のせいだ。」
エイドが彼に掴み掛かった。
「どう言う事だよ、説明しろ。」
若い執事の憔悴し切った様子に切なさを滲ませるスミス。実際、今ここにいる自分を含め、新しく雇い入れられたばかりのこの料理人とメイドのハンナと庭師のノエルは、先の主人の国家職務罷免に伴い口減らしの為に解雇され、行き場を失くして絶望していた。そんな自分達をこの屋敷に招いてくれたのはミカエルだ。確かに、彼からは気分屋で横暴な若い主人が使用人達を簡単に一度に解雇する事に困っていると聞いていた。そんな主人の元で、彼もまだ若いが少年時代から十年近くもこの伯爵の屋敷で働いて来たのだから、わがままな主人からの深い相互的な信頼を得ての事なのだろうと思うと、年のせいもあろうが涙を禁じ得なかった。しかしここで自分まで感傷的になっている訳にはいかない。
彼は使用人達を見た。事情を知るミカエルがこの状態では、昨日の今日で何も分からないまでも、自分がこの場を取り仕切るしか無いとスミスは気を奮い起こした。少し前の事ならば、貴族の館で起こった事件ともなると、内々に処理されていたかもしれないが、今は、そうは行かないのだ。
「エイド、彼は混乱しているのです。私達はこの家の細かな事情を一切知り得ません。彼を厳重に監視して下さい。伯爵の後を追われてはこっちに嫌疑か掛かる恐れも有る。とにかくハンナ、書生のガブリエルをここへ連れて来て主治医と弁護士がどなたか聞いて、先生方に判断を仰ぎましょう。
肩を抱き、震えながら頭を下げるハンナ。
「分かったわ。」
そこへ遅れてガブリエルが階段を上がって来た。彼は数ヶ月前からここで働いているらしく、彼等より少しは屋敷の事にも通じている。若い彼に現場を見せるのも酷かもしれないが、彼も屋敷の関係者だ。そんな事を言っている場合ではない。
ガブリエルは案の定、中の光景を目の当たりにした途端その場にへたり込んでしまった。
「なんでこんな事に……カイル様……嘘だ。」
しっかりして、と彼を揺すって、ハンナが主治医と弁護士を呼びたい旨を伝えても、彼は呆然として震えるばかりで暫く答えられずにいた。
料理番は、暗がりの書庫にまだ立ち尽くしている黒髪の執事の腕を掴んだ。
「おい、ミカエル。幾らご主人様に首吊られてショックだからって、自分のせいだなんて滅多な事、これ以上口にするんじゃねぇぞ!」
ガブリエルは、いつもの執事らしからぬ様子に愕然として、居ても立ってもいられずに思わず詰め寄った。
「ミカエル。何が有ったの、ミカエル!」
しかし、彼はガブリエルには一瞥も返さず秀麗な顔を止めどなく溢れ出す涙に濡らすばかりだったが、諸事に通じていない書生の彼に嫌疑が掛かる事を懸念したのか、エイドと共に部屋を出るすれ違いざまに、彼にだけ聞こえる小さな声で何時もの聞き慣れた冷静そのものの口調で、お前は何も知らないと言うんだぞ、と言った。
エイドは溜息を吐いた。
「やっと見つけた職だってのによぉ、何でこんな事になっちまうんだ。」
ハンナは、再び床に座り込んでしまった書生の肩を揺すった。
「ガブリエル、お願い、しっかりして。主治医の先生と弁護士さんは誰?」
彼は震えながら、それでも何を答えればいいのかは分かっていたのだ。
「主治医はベイカー通りのエドアルド・ハーパス先生です。弁護士は……ミカエルに聞いて下さい。僕はどなたなのか存じません。」
スミスは医師の名に心当たりが有るようにハンナに目線で頷いた。
「では、皆さん、頼みましたよ。ガブリエルは辛いでしょうが、ここで方々が到着するまで現状維持をお願いします。何も触ってはいけませんよ、いいですね。」
執事スミスに指示され、使用人達は各々言われたように行動に移った。
一人書庫に残ったガブリエルの目前に、式典にでも出席する様な正装をしたカイルが、物映さぬ瞳を見開き、綺麗に飾られた人形の様に釣り下がっていた。黒い絹地の燕尾服の光沢もさる事ながら、胸のポケットに挿している白いカトレアの香りは、まるで貴族としての誇りと言うものを、仰々しく演出しているかの様だった。
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