第8話 屈辱の日

 日が傾き、太陽は赤みを増していた。夕暮れの校舎の中を美玲は走っている。廊下を走るなという校則はない。あったとしても、執行委員長権限でもみ消しただろう。

 美玲は焦っていた。理由は一つ。生徒会室から出て行ったまま帰ってこない部下の身を案じていた。

 比良野寧々。手間のかかる後輩であり、言い表すことのできない感情を想起させる少女。

 そんな寧々のためにどうしてここまでするのか、ここまでさせる感情の正体は何なのか。美玲は本当は分かっていた。分かっていたが、校則を守るべき生徒会執行委員が、校則違反を犯すわけにはいかなかった。それもよりにもよって――生徒会が敵対勢力を排除するために利用していた――第7条『不純交遊の禁止』を犯すなど言語道断だった。

 だから美玲は感情に蓋をした。それでも蓋をすればするほど、目を背ければ背けるほどこの感情は大きくなる。大きく膨れ上がって美玲の心を苛み続ける。

 だから絶対に、生徒会長にならなければいけない。

 生徒会長になって、第7条を変えなければならない。

 裏切り者の屁理屈屋、清澄七海に負ける訳にはいかない。


「どこだ! 返事をしろ、寧々ッ!」

 息を切らして叫んだ。何度となく「寧々」と名を呼び、耳を澄ませた。本校舎の四階から一階へ。更衣室、体育館、武道場、グラウンド、講堂、部活棟、正門と裏門。喉を涸らしながら旧校舎の二階で叫んだとき、ようやくか細い返事が聞こえた。

「コーサカ先輩……」

「寧々!」

 旧校舎の二階、女子トイレの個室から声が聞こえた。ドアを強引にこじ開けると、寧々は便座に座って泣いていた。

「コーサカ先輩……! わたし、わたし……!」

「すまなかった、寧々! すべて私の――」

「うえええええええええん!!」

 かんしゃくを起こした子どものように寧々は大声で泣いた。どうしていいか分からず狼狽した美玲がとりあえずと顔を近づけると、寧々はすぐさま抱きつく。

 恐るべき力で、きつく体を締められる。美玲の心は早鐘を打った。「一線を越えてしまえ」という悪魔の囁きが聞こえて、寧々の背中に回しかけた手を美玲は下ろした。

「責めるなら、私を責めてくれ……」

「……悔しいんですっ!」

 寧々の言葉が突き刺さった。

「許してくれ、寧々。私が会長の怒りを抑えていれば、お前が執行することはなかっただろう。私が七海の屁理屈に負けなければ、辱めを受けることはなかっただろう。だから……すまない……」

 嫌われてしまった。その事実を直視するのが怖くて、美玲はひたすらに謝った。寧々の先輩・上司としての責任よりも、どうにかして寧々の心を繋ぎ止めたかった。

 だが、寧々の本音は違った。

「違いますっ! 私が悔しいのは罰のことじゃない……! 自分のバカさ加減と……あんな女に負けたことが悔しいんですっ!」

「清澄七海か?」

 美玲の胸の中で、寧々は頷いた。

「あんな屁理屈で……! 私の大好きなコーサカ先輩をいじめたんですっ……!」

「寧々……」

 嫌われていなかったことに安堵した。ようやく美玲は、寧々を抱きしめる決心がついた。

「コーサカ先輩、お願いがあります……」

 寧々は美玲の胸元に埋めていた顔を上げた。ひどい泣き顔だったが、それが美玲にはとても美しく思えた。

 その瞬間、蓋をしていた感情が爆発した。

「……あの女に勝ってください。あの女にも、あの女の友達にも……絶対誰にも負けないコーサカ先輩になってください!」

「あ……」

 感情の爆発によって美玲の思考は吹き飛んでいた。

 こんなにも間近で、寧々の顔を見たことがなかったからだ。外に跳ねた癖っ毛の毛先がどうなっているのか。前髪を留めるヘアピンの角度がどれほどか。ぱっちりした二重まぶたのまつげも少し低い鼻もほんのり朱がさした頬も小さな唇も。そのすべてが気になる。目で追ってしまう。視線どころか心までも釘付けにされてしまう。

 かつて、誰かがこう言った。

 は唐突にやってくるもの。

 はするものではなく堕ちるもの。

 くだらない言葉だと一蹴して蓋をしてきたそれが、今の美玲には手に取るように理解できる。理解できてしまう。そこには論理などない。論理など必要ない。演繹など不可能だ。ただ理解だけがある。論理を超越した確かな感情だけがそこにある。


 そうか、これが。

 恋というものか。


「バカにされても、汚されても、コーサカ先輩のためなら平気です……。だから、私を捨てないでください……ずっとずっと、ついて行かせてください……」

 美玲は決心した。生徒会長選挙に本気で臨むことを。そして、迷っていた副会長選びの人選を。

 白河あいながそうだったように、会長選挙の出馬に大した条件はない。せいぜい現三年生と選挙管理委員――すなわち文芸部員――が出馬できないというだけだ。だから一年生を相方に選んでも、とやかく言われる筋合いはない。もとい、とやかく言う輩が居れば、生徒会執行委員の権力を以て全力で叩き潰す。

「……捨てるものか。お前は私の大事な部下で後輩で、未来の生徒会副会長だ」

 寧々は丸い目を普段以上に見開いた。

「私と一緒に戦ってくれるか? 比良野寧々」

 寧々は泣きながら、精一杯の笑顔を作った。

「……はいっ!」


 かくして、ここに二組目の候補者が生まれた。

 会長候補:高坂美玲。

 副会長候補:比良野寧々。

 彼女らは共に決意する。仇敵、清澄七海を叩き潰す未来を。

 そして美玲は思い描く。校則第7条を廃案に追い込んだその先を。


 *


 生徒会室。

 青山花蓮は、くしゃくしゃの紙片となった『罹災証明書』を部下に拾い集めさせ、その一枚を摘まみ上げた。

「革命家は、壮絶な最期を遂げてこそ革命を成し遂げることができるもの。あなたはこの蓮華ヶ丘に名を残す、本物の革命家になれるのかしら」

 紙片に残る『白河あいな』の署名を一瞥して、花蓮はさらに細かい紙片に変える。

「あるいは、私が最期を飾ってあげましょうか? 生徒会に楯突く逆賊がどんな悲惨な結末を迎えるか、生徒達の心に植え付けるために」

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