第4話 本当の学校案内

 七海に連れられ、あいなは校舎最上階である四階の階段踊り場に辿り着いた。

「清澄さん――」

「いいから」

『立入禁止』と書かれた看板を無視して階段を登り、七海は古ぼけた扉に鍵を差し込んだ。軋んだ重い音を立てて扉が空くと、向こうに新宿の高層ビル街と陽炎が見える。屋上だ。

 誰にも跡をつけられていない。周囲を確認して、七海はあいなをドアの向こうに連れ出した。速やかに扉を閉めて屋上へ出ると、七海は打ち棄てられた机の上に胡座をかいた。

「ここは?」

 七海は「屋上」とだけ答えて頭をかきむしった。見たら分かることだ。

 知りたかったのはそんなことではないが、七海にはなんとなく話しかけづらい。所在なく立ち尽したあいなは、仕方なく七海の座る机の側に置かれた椅子に腰掛ける。七海のスカートの中が見えそうだったので、思わず目を逸らした。

「……見た?」

「み、見てないです! 清澄さんのパンツなんてこれっぽっちも!」

 清澄はチッと舌打ちして、胡座をかいたままあいなに視線を突き刺した。

「そうじゃない。エマの顔」

 パンツを見た腹いせに処されると思っていたあいなは、と内心ホッとした。が、エマの顔、という一言であの時の不信感が蘇ってくる。

「見たもなにも、ひどいですよ。優しい会長さんだと思ったのにあんなことするなんて……!」

 あいなはすべての不信感をぶちまけた。ぶちまけずには居られなかった。

「あの比良野さんって人も、高坂さんって人も許せません。あんなに逢坂さんが嫌がってるのにずっと押さえつけて、自分達が正義だって威張り散らしてるみたいで……! きっ……清澄さんだって同罪です!」

「…………」

 険しい表情を浮かべた七海と目が合った。七海はやはり恐ろしい。だが、言いかけた以上後戻りはできなかった。

「どうして逢坂さんを見捨てたんですか、私は助けてくれたのにっ!」

 部活の声と都市の喧噪だけが聞こえた。長い沈黙。言いすぎたかもしれないとあいなが口を開きかけたところで、七海は俯いて悔しさをにじませながら呟いた。

「救いようがなかったんだよ。校則の抜け穴を突けなかった」

 七海は胸ポケットから手のひらサイズの生徒手帳を取り出した。合皮のカバーは所々剥げていてペラペラめくるページも黒ずみ、折り癖がついている。使い込まれている証拠だ。七海の指は、あるページで止まった。


「校則第15条、制服の規定には災害特例がある。あんたにとって転校は災害みたいなもんだから、穴を突いて生徒会を黙らせることができた」

 「だけど」と続けて、その上の項目を指さしてあいなに見せる。

「校則第14条、頭髪の規定には特例がない。たとえ地毛が金髪だろうが赤毛だろうが、生徒会が華美だと判断したら警告の末、最終的には強制執行される」

「そんなの間違ってます……」

「間違ってない。そういう校則決まり

「いいえ! おかしいですよ、そんな校則!」

「おかしいことは分かってるよ、あたしもエマも」

「だったらなんで……!」

 言いかけて、あいなは言葉を呑み込んだ。

 徳島の学校は、よくも悪くも横並びで対して意識したこともなかった。だがおそらく、この学校にはがある。マンガやドラマだけの世界だと思っていた見えない序列。生徒が生徒を支配する隠されたヒエラルキーが。


「スクールカーストってヤツだよ、白河さん」


 残暑厳しい炎天下だというのに、背筋に寒気が走った。スクールカースト。その言葉の恐ろしさに全身の力が抜けて、あいなの体は背もたれに崩れ落ちた。

「この学校は、三つの層でできている。一番上は校則を盾に好き勝手やってる生徒会と、奉り上げられてる一部の連中。中間は、一番上の連中にこびへつらう俗人共。で、一番下は……」

 鉄扉が軋む音がした。ドアの前に女子生徒が立っている。

 あんなに輝いていた金髪が、まだらに黒く染まっていた。エマだ。

「逢坂さん!」

 居ても立っても居られず、あいなはエマに駆け寄った。震えている。

「もうイヤ……」

 飄々としたエマとは思えない悲痛な声が、心にまで深く突き刺さった。まるで、エマの身に起きた事件が自分のことのように感じられて、あいなはエマを抱きしめていた。

「分かった? これが蓮華ヶ丘なんだよ」

 嗚咽を漏らすエマを黙って抱きしめたまま、あいなは本当の学校案内を受けることになった。


 蓮華ヶ丘れんげがおか高校。部活動と勉学の華々しい実績の陰には、目には見えないヒエラルキーが存在する。


 青山花蓮を筆頭にした生徒会と、ごく少数の人気者からなる支配者層。

 それらにおもねる大多数の中間層。

 そしてどの層からも爪弾きにされた最下層。


 こうしたカリスマによる序列に加えて、部活動での成績や学力に応じて振り分けられるクラス名――A組が最高で、E組が最低――によって、蓮華ヶ丘のスクールカーストは成立していた。

 校舎屋上、ひさしが作る陰に三人並んで腰掛けて、あいなは七海から本当の学校案内を聞いた。

「実際はあたしがそんな風に思い込んでるだけかもしれない。本当はスクールカーストなんてものはなくて、あたしの目にそう映ってるだけなのかもって。だから、信じる信じないはアンタの勝手」

「……信じるよ。この目で見たもん」

 左肩に顔をうずめたエマの金と黒のまだら髪に目をやって、あいなは頷く。

「だったら、詮索すんのはやめときな。巻き込んでおいてなんだけど、あたしらみたいなのと付き合ってたらアンタまで底辺に堕ちるよ」

「底辺って……」

「アンタはまだ後戻りできる。あの暴君の青山花蓮でも、時には校則をねじ曲げて、憐れな転校生を救うことがあるとアピールできる逸材だから」

「それって、私を利用したってことですか……?」

「そ。アンタは会長のお気に入り。今すぐにでも取り入れば、一番上の層に居られるかもね」

「ごめん……あいなちゃん……」

 左肩からエマのくぐもった声が聞こえた。顔はまだらな金髪と相まってぐちゃぐちゃで、西洋人の血が混じる均整の取れた顔も泣き腫らして台無しになっている。

「あたしが誘ってなければ、あいなちゃんに迷惑掛けずに済んだよね……」

 泣き言を言うエマに、あいなは何故か無性に腹が立った。エマの肩をがしりと掴み、面と向かって告げる。

「私が友達を見捨てるようなひどい人間に見えますか!?」

 エマはきょとんとした顔で、気まずそうに口を開いた。

「あー……。友達ってのはちょっと早すぎない……?」

「あれ~?」

 思いっきり空回りして死にたくなったが、構うものかとあいなは続ける。

「き、清澄さんだってそうです! 逢坂さんは大事な友達だから助けたかったけど、助けられなかったんですよね!?」

「会長にひと泡吹かせられなかったのが悔しかっただけ。ぶっちゃけエマは校則違反の塊だし、はっきり言って救いようがない」

 七海の言う「」は、助けられなかったことへの後悔ではなかった。単にエマが救いようがないほど校則違反をしでかしていることへの呆れだ。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。二人は友達じゃないんですか!?」

「違う」ときっぱり二人分、同時に声が聞こえてあいなはがっくり肩を落とした。やっぱり都会人は田舎者に比べて冷たい人が多いのかもしれない。

「もういいです……」

 そして何度目かの沈黙が流れた。誰が何を話すでもない。ひさしの下で三人、運動部の声や吹奏楽部の楽器の音と都市の喧噪を聞きながら、ビル群とその背後で背丈を入道雲を見つめる。上昇気流を呑み込んでもくもくと育つ入道雲が、蓮華ヶ丘を支配するスクールカーストのように感じられて、あいなはそのてっぺんを人差し指で弾いた。デコピン。


「私ね、都会の高校生活はすごく楽しいんだろうなって思ってたんです」

 沈黙を破ってぽつりと呟くと、両隣から七海とエマの視線を感じた。それぞれと顔を合わせて、あいなは大きく伸びをする。

「だって徳島と違って進んでるし、遊ぶところもいっぱいあるんだろうなって。オシャレしたりクレープ食べたり、学校帰りにカラオケにだって行けちゃうんですよ?」

「……徳島ってカラオケもないの?」

「ツッコむ所そこかよ」

 友達じゃないのに息がぴったり合ったエマと七海の漫才が、あいなは少し可笑しかった。ちなみに徳島の名誉のために言っておくが、徳島にだってカラオケくらいある。学校帰りに寄れるほど近くにないだけだ。

「でも、そうじゃないんですね。都会の学校がこんなに重苦しいだなんて思わなかった」

 あいなは弱々しく吐き捨てた。密かに期待していた理想の高校生活とはほど遠い蓮華ヶ丘の現実を知った。憧れていた都会の高校生にはなれそうもない。

「ここはアンタが思うほどいい学校じゃない。一部の人間だけが得をするディストピアだよ。誰も口にはしないけどね」

 七海は再び、使い古された生徒手帳を取り出した。手書きのメモページを開いてあいなに渡す。丁寧な、それでいて右肩上がりの角張った文字がびっしりと羅列されている。暗号のようだ。

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