ずっと蘭の庭

小川草閉

第1話

 この庭には蘭ばかりが咲いている。


 家を買う時に、私たちはとにかく庭にこだわった。しがない教員でしかない私の稼ぎでは大きい家は買えないし、それに二人ともそれほど大きい家が欲しいわけではなかった。ただ庭だけは必要だった。それも、雰囲気のよい小さなものでなくてはならない。外からは見えず、私と妻だけで楽しむ秘密の庭だ。不動産屋を冷やかしながらそうぽつりと漏らすと、妻は目を細めて言った。


 「いいねぇ。どうせ暇だから、花でも植えようかな。蘭をたくさん植えよう。私と同じ名前だよ」


 風になびく黒い髪が小さな顔にまとわりつき、こまやかな陰影を作っていた。潤んだ瞳がまたたいて、品の良い唇は弧を描く。

 妻は、美しい女だった。


 その妻は今、庭に立ってハサミを忙しなく動かしている。夜も遅いというのに熱心に花をいじっては飽きることがない。剪定というのだろうか、私は園芸のほうに明るくないので分からないが、余分な枝葉を切っては地面に落とす。私はそれを縁側に腰かけて眺めていた。白くほそい指が器用に動き回るのを見るのはすこし面白い。妻はこちらに背を向けて立っている。動く度に束ねた髪が揺れた。


 ぱちん。ぱちん。ぱちん。

 ぱちん。ぱちん。ぱちん。


 ぽとりと重たい音がして、見ると、花がまるごと落ちていた。間違えてそんなところまで切ってしまったのだろうか。落椿のように首が全部もげている。不吉な感じがしてふと見渡すと、あたり一面に花の首が転がっていたのだった。


 ──寒い。


 それまで意識していなかった肌寒さが急に感じられてきて、私は二の腕をさすった。夜もいい加減更けてきている。寝ようと思った。立ち上がると、縁側の板が少し軋む。きいぃ、という細い音にも、妻が反応することは無かった。


 ここ一週間ほど、ずっとあの調子なのだ。

 昼も夜も庭に立っている。


 どうしたものだろう、と薄暗い家中を進む。人の気配がまるでない布団に滑り込んで、私は目を閉じる。子供もいない、テレビもつけない静かな家だから、妻のハサミが発する微かな音がよく響いた。

 時計の音より規則正しいそれを聞いていると、いつの間にか眠りに落ちる。





 「寝不足ですか?」


 隣の席の国語教師がそう聞いてきたので、私はええまあとお茶を濁した。さすがに今の状況を話すわけにはいかなかった。話を変えようと彼が呼んでいる本に目を止める。どうやら世界の神話についてのものらしかった。


 「神話に興味がおありで?」

 「あ……いえ、そういうわけじゃないんですけど。授業中のちょっとした話のタネっていうか……僕、あんまり面白い話出来ないんで、知識だけでも増やそうかなと」

 「へえ。私なんかは神話はさっぱりですね。小中高じゃ習わなかったし、理系だから大学でもそこら辺取らなかったな」 

 「でも、大人が聞いても面白いの多いですよ。『見るなのタブー』とか」

 「それ、何ですか?」

 「いろいろな神話に共通するモチーフなんです。見るなと言われたものを見る、あるいは見えなかったものを見てしまうと、恐ろしい目にあうという。イザナギとイザナミなんかもそうですよね」


 イザナギとイザナミ──。

 果たしてどういう話だったか思い出そうとする前に教務主任が入ってきた。静かになった職員室に訓示の声が響く。教師になってもこういう時間は退屈なのだから、生徒ならばなおさらそうなのだろうと思う。


 「それから、新見先生の件ですが」


 が、その一言だけで空気が締まるのがわかった。

 新見。数学教師で、私より2歳下だった。同じ教科を教えているよしみで話すようになり、家に呼んだりもした。しかし、一週間ほど前から行方不明ということになっている。

 話が終わったあと、隣の席の彼がこちらを見て言った。


 「新見先生、心配ですね」

 「ええ、そうですね」


 そう答える自分の声をどこか遠く感じていた。



 薄暮の道を歩いている。

 珍しく仕事が早く終わった。いつもは生徒の質問や授業の準備やらで遅くなるのだが、今日に限ってはそれが無かったのだ。家路を急いだところで、ずっと庭にいる妻が迎えてくれるだけなのだろうけれど。そう考えると、苛立ちや恐怖より先に困惑が来た。妻は、何をしたいのだろう。こんがらがった毛糸玉のように、彼女の気持ちを完全に解くことは出来そうにない。

 そういったことばかり考えていたので自然と下を向いていたらしい。本当に家の前というところで急に視界にぬっと靴が現れた。よく磨かれた革靴だ。慌てて顔を上げ謝ろうとすると、人の良い笑顔で遮られる。スーツを着た細身の男だった。


 「西森さんですよね?」

 「そうですが」

 「よかった。私、こういう者なんですけど」


 見せられたのは警察手帳だった。


 「はあ……」

 「新見達彦さんのことについてお伺いしたくて」

 「そうですか。でも、私はただの同僚ですし、お力になれるかどうか」

 「そうですか? 新見さんはよく昼間にこちらを訪れていらしたそうですが」


 表情がこわばっていないか、それだけが心配だった。

 「私はその時間仕事ですので、妻に聞かなければわかりませんね」

 「なるほど。奥さん今いらっしゃいますか?」

 「いえ。今日だと帰ってくるのは夜遅くですね」

 「そうですかぁ」


 刑事はふっと目を細め、それからいやに明るい声で言う。


 「それにしても、いい匂いがしますね。お花か何か植えてらっしゃる?」


 そういって庭を覗き込もうとする。

 やめてくれ。そこには彼女が。


 「……やめてください」


 気づけばその肩を強く掴んでいた。

 男は二三度瞬きすると、


 「これは失敬しました。では、また後ほどお願いしますね」


 そう言って去っていった。





 もう潮時かもしれないと思った。

 相変わらず庭にいる妻を見ている。どこをどういじったのか、蘭たちは狂ったように満開だった。冷たい夜風に乗って甘くぬかるんだ匂いが流れてくる。もう潮時かもしれない。さっきから同じことばかり考えて──思い出している。一週間前のことを。


 思い出す。


 そう、今日と同じようなタイムスケジュールだった。いつもよりとても早く仕事が終わって、たまにはまっすぐ帰ろうと思った。連絡をしなかったのは驚かしてやりたかったから。そして帰路を急いだ。蘭がもうすぐ咲くのだと、そう笑った妻の顔を思い出していた。

 ただいまを告げても返事のないのを訝しんだ。見知らぬ男物の靴に、不吉な予感を覚えたのも確かだ。どこからか漂ってくる、花ではない、女そのものの甘く生臭い匂いに顔をしかめながら、それでも歩みを止めることはできなかった。

 知らず知らずのうちに足音を潜めていた。そう広くはない家の行き止まり、開け放した縁側のある部屋に、妻はいた。


 妻と、新見がいた。


 二人は絡み合っていた。およそ人間がなしうる不貞の全てがその部屋で行われていた。成長しきった男の足に女の生じろい足が絡まる。密やかな笑い声をあげる女がこちらを見上げ、それから徐々に固まっていくのを認めつつ、私は妙に冷えた頭で部屋を見回した。


 机の上に、花瓶に活けられた紫香蘭が見えた。


 私はそれが妻のお気に入りの花であることを知っていた。庭で大切に育てていたことも。開花を心待ちにしていたことも。


 ──ああ、新見が来るからといって、庭に降りてわざわざ手折ったのだな。


 そこまで考えて、私は、重たい灰皿を手に取った。



 暗転。



 死体の処理は面倒だった。

 大きい肉塊をどうすればいいのかわからない。しかもそれが二つだ。考えているうちに憂鬱になってしまって、新見の方は適当に海に捨てた。けれど、妻はどこに隠せばいいのだろう。もう何も考えたくなかったからその日は泥のように眠った。

 その次の晩である。

 妻は庭に立つようになった。


 殺したはずだ。何度も殴った。後頭部などすこしへこんでいた。硬い骨の砕ける音をありありと覚えている。けれど妻はそこに立っていた。そうして黙々と枝葉を切り続けている。まるで私を非難するかのように。


 怒っているのだろうか。

 怒っているのだろうなあ。

 痛かっただろうか。

 痛かっただろうなあ。


 意味の無い思考が妻のハサミの音とともに回る。愛していたのは確かだ。美しい妻を愛していた。静かな家を守りたいと思った。でも、あの瞬間はただ腕を振り下ろすことしか考えられなかった。愛していたのに。いや、愛していたからかもしれない。妻は私に飽いたのだろうか。若い新見にたぶらかされたか。

 それほど寂しい思いをさせたのか。



 私は──久しぶりに庭に降り立った。あの刑事は切れ者だ。きっともう勘づいている。だから今終わりにしたくなった。


 それでも妻は気づかないけれど。


 ぱちん。ぱちん。ぱちん。

 ぱちん。ぱちん。ぱちん。

 「蘭、」ぱち、ん。


 名前を呼ぶと、妻は手を止めた。庭の花はもう全て首を落とされていた。紫香蘭、鐘馗蘭、長生蘭。妻と同じ名前の花どもがじっとこちらを見上げている。腕をだらりとさせて、妻はゆっくり振り返ろうとしていた。


 私はなんとなくイザナギとイザナミの話を思い出した。

 見るなのタブー。たしかイザナギは死んだ妻の顔を見てはいけないと言われたのだ。でも見てしまったから死者の国に引きずられそうになってそれで。


 ああ、もう結末も思い出せない。

 だってもうすぐ妻の顔が見える。私が殺した女の顔だ。私はこれからどうなるのだろう。ひどい目にあう、という国語教師の声がリフレインした。そうなのだろう。でも。


 いま死んでおくべきだと思った。

 なんにせよこの家はもう閉じてしまった。新しい生命が生まれることはない。静かに生涯を終えることももう出来ない。男が一人と死人が一人では、なんにもならないのだ。新しい住人ももう来ないだろう。

 だからこの庭は永遠に蘭のものだ。

 ずっと蘭の庭だ。

 そんなところに一人では、蘭も寂しいだろうから。


 「寂しくさせてごめんな」


 呟いた言葉は、いつの間にかハサミの音でかき消されていた。

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