親子会議――水瀬家

 家の前まで辿り着くと、激励の言葉を掛け合い、お互いの健闘を祈りながら別れました。大一番に挑む直前のやり取りとしては、少々あっさりしすぎていた気もします。

 こーちゃんの後ろ姿を無意識に追ってしまいますが、その歩みには迷いがありませんでした。自信たっぷりな、いつものこーちゃんです。

 私はと言うと……ほんの少しだけ、不安でした。

 天使さまに体験させられた未来。あれらは夢や幻のようなものだったのでしょうけど、長い時間を実際に過ごしたような感覚があります。

 その中でのお父さんは、ほとんどが正気を失っている状態でした。なので正直、会うのが少しだけ怖いです。


 でも――きっと大丈夫。


 すぐさまそう思い直します。いつもならこういった場面では、こーちゃんが心配してるような言葉が飛んでくるものです。しかし今に限ってはそういったものは一切なく、暖かい笑顔で送り出してくれました。

 たぶんその笑顔の意味は、私がヘマをするとは思っていないということ。私のことを、信じてくれているということ。

 それになんといっても、天使さまにお墨付きまで頂けたのですから――。


「ただいまもどりました!」


 家の中へ入ると、家中に声が届くよう元気よく挨拶をしました。


「おかえり、結唯ゆい


 するとすぐにお父さんが顔を見せてくれます。

 ずいぶんと久しぶりに見る気がする、いつものお父さんの優しい笑顔。ちょっぴり込み上げてくるものがありましたが、いきなり泣き出しては変に思われてしまうでしょうし、今はそんな場合じゃないので我慢します。


「今日は早かったんですねぇ、お父さん」

「珍しく定時だったからね。逆に結唯は遅かったみたいだけど」

「えぇ、こーちゃんと寄り道しちゃってましたので」

「そうか。変わらず仲良くしてるんだね、良いことだ」


 そう言ったお父さんの笑顔は、本当に嬉しそうで……まるで自分のことのように喜んでいて。

 やっぱり――、なんでしょうね。

 私とこーちゃんが、このままずっと仲良く――どころか、交際や結婚までをも願っている。私だって、そうなってくれれば嬉しいなとは常々思っていました。

 けれど……それじゃダメ、なんですよ。お父さん。


「あの、お父さん」

「うん?」

「お母さんって、どんな人でした?」


 お父さんが目をぱちくりさせています。唐突なのは確かですし、当然の反応かもしれません。


「急にどうしたんだい?」

「いえ、特に深い意味はないのですが。ふと、なんとなーく。ですよ」

「ふむ……」


 上手い言い訳は思い浮かびませんでしたが、とぼけるのはなかなか上手くいった気がします。

 お父さんが腕を組んで考え込みます。私の意図がわからないのと、何を話そうかと悩んでいるようで。

 それでもお母さんのことを思い浮かべることが幸せだったのか、自然と表情がほころんでいき、穏やかな口調で語り始めてくれました。


「前にも話したことがあるかもしれないけど、母さん……咲希さきとは幼稚園の頃からずっと一緒でね。丁度、結唯と孝貴くんぐらい――いや、下手したらそれ以上にべったりだったかな。

 体は弱かったけど、それを全く感じさせないほど明るく元気で、行動意欲に満ち溢れていて……僕はいっつも振り回されていたよ。体にさわるから、もう少しおとなしくしてよって言っても全然聞いてくれないし。

 でも、そんな彼女の傍に居られることが……彼女の笑顔を一番近くで見られることが、本当に幸せだった」


 時折うなずいたり、相槌あいづちを打ったりしながら耳を傾け続けます。

 お母さんのことを語るお父さんの表情は、本当に幸せそうでした。

 普段の落ち着いた大人の顔ではなく、無邪気な子供のような笑顔でした。


 ――『子供のような』。


 それはたぶん、そこで時間を止めてしまったんでしょうね。

 お父さんは、いまだ過去に……お母さんに、とらわれているんでしょうね。


「私は……お母さんと、似ていますか?」


 お父さんが、はっとして目を逸らしてしまいます。


「……そう、だね。似てるよ、すごく」


 ……わかってますよ。だから『どこが?』なんてことも聞きません。

 私とお父さんの間にある全ては、私がお母さんと似てるから――似すぎているからこそ、なんですもんね。


「お父さん、昔からあまり私と目を合わせてくれませんよね」


 お父さんが目を見開きました。思い当たる節が――後ろ暗いことがあるのでしょう。


「てっきりシャイなだけかと思ってましたけど……そうじゃないですよね?」


 俯いたまま、唇を噛みます。何とかこちらを向こうとしている様子でしたが、視線は泳ぐばかりです。


「――怖い、ですか? 私が。お母さんに似すぎてしまっている、私のことが」


 きっと図星だったのでしょう。俯いた顔が更に沈んでいきます。片手で顔を覆い、絶望し苦しんでいるようでした。


「答えなくとも良いです。わかって――いえ、知ってますから。お父さんの気持ち」


 ……何度も体を重ねてきた中で、泣きながら吐露とろしていましたからね。

 思い出すと、胸がぎゅーっと締め付けられてしまいます。

 私も辛かったですが……お父さんの苦しみを思ってしまうと、やっぱり。


 ――『あんなこと』をしてでも、癒してあげたい。


 私の心のどこかで、そんな想いがかすかながら主張してきます。やっぱり自分の意思であんなことをしていたんだなと、改めて痛感してしまいます。


 だから……そういう未来を作らないための一歩を、ここで踏み出さなきゃいけないんです。


「私はお母さんと似ています。しかし当然ですが、別人です。私の顔を見る度に、お父さんはお母さんのことを思い出してしまって……悲しかったんですよね」


 お父さんが顔を覆っていた手を退けて、やっとの思いといった様子でこちらへ顔を向けてきます。その唇は震えていて、その瞳はうるんでいて。今にも泣き出してしまいそうでした。


「……ごめんな、結唯。僕は今でも咲希のことを引きずってしまってて……娘の顔を見て、妻のことを想うなんて――」


「けどそれって、恥ずかしいことでも、悪いことでもないですよ」


 お父さんが目を丸くさせて、私のことを見つめ返してきました。


「私は、お母さんのことを今でも一番に想っているお父さんのこと、素敵だなって思いますし。お母さんだって、忘れられたら寂しいです。だからそのままいていいんです。私の顔をいっぱい見て、お母さんのことをいっぱい思い出してくれていいんですよ」


「……いや、でも……しかし」


 一理あるとは思ってくれているようでも、いまいち納得し切れないのか、難しい顔をしています。


「ただ、お母さんが悲しんでることが、一つだけあると思うんです」


 私のそんな言葉にきょとんとしてしまったお父さんは、視線でその先をうながしてきます。一つ頷きを返してから、言葉を続けました。


「お母さんって、そんなに怖い人でしたかね? きっと優しくて、心が広くって。どんなことがあっても、お父さんを否定したりしないと思うんです。応援してくれると思うんです。

 恨んだりなんてもってのほかですよ。――例えば、『再婚』をしたとしても」


 私の口からそんな台詞が出てくることなど、まったく予想していなかったのでしょう。ここにきてようやく得心したといった感じでした。


「……そういう、話か」

「えぇ。そういう話がしたかったのです」

「それは僕たちの――大人の問題だよ。子供が首を突っ込むんじゃない」

「わかってますよ。でもこれは、大人である『お母さん』の気持ちを代弁しようとしてるだけですから」


 お父さんは頭を抱えて溜息を吐きました。完全に聞き分けの悪い子供に参っているポーズです。


「君に何がわかるんだい? 咲希とは一度も会ったことすらないのに」


 その声色に普段はあまり見せない苛立いらだちが見えました。これ以上続けたら、きっと怒り出してしまうことでしょう。


「わかりますよ」


 それでも物怖ものおじすることなく、かんはつを入れずに応じます。お父さんの表情がみるみる紅潮こうちょうしていき、今にも怒鳴られてしまいそうでした。

 お父さんが爆発してしまうより先に、私はニッコリと微笑んで――言いました。


「実は私――


「……は?」


 もちろん、嘘です。

 ですが、お父さんがいくら正気を失っていたとはいえ、私のことをお母さんだと思い込んでしまうほどならば。今だってほんの少しぐらい、私の姿がお母さんにダブってくれるかなって思ったんです。

 私の言葉も、お母さんの言葉として、届いてくれると思ったんです。


「先に逝っちゃって、ごめんね。――


 わずかに残された写真。わずかに残された映像。その中でのお母さんは、こんな風に笑い、こんな風に喋っていたんです。

 お父さんが少しでも『咲希』を感じてくれるようにと、必死に勉強して想像して、演じてきたんです。


「にしても、ほんっと失礼しちゃう。あなたの中で、私っていったいどんな存在だったのかしら」


 私を抱いている間のお父さんは、いつだって唇をキツく噛みしめながら、涙をぽろぽろと零してばかりいました。

 そして……ずっと、ずぅーっと、色んなことを謝ってばかりいました。


「そんなに何度も何度も謝ることある? その歳になっても女々しいのは変わらないのね」


 ――お母さんの死から、未だに立ち直れずにいることを。


「私のことを好き過ぎるのは結構だけどね……私がいなきゃ生きられないようじゃ、死んでも死にきれないのだけど?」


 ――私を娘としてでなく、お母さんの生まれ変わりと見てしまっていたことを。


「結唯はかなりわたしのようね。でもだからって私の代用品のように扱う? そんなの結唯にも、私にも失礼だと思わない?」


 ――お母さん以外の女性に、心をかれ始めてしまっていたことを。


「後妻とったら呪い殺したりしちゃうの? それはそれで面白そうだけど、そーんな陰湿なキャラだった覚え無いんだけどなぁ?」


 そういったお父さんの想いに、お母さんならきっとこんな風に言ってくれると思うんです。ずっとずっと、そんな妄想をしていました。


「文句なら次から次へと湧いて出てくるわ。……でもね、あなたには感謝こそすれ、恨んだりはしないの」


 大人びた仕草で肩をすくめます。意図したわけではなかったのですが、なぜか自然とそうしていました。

 それはまるで、本当にお母さんの魂が乗り移ってるかのようで――。


「娘の幸せはもちろん大事だけど……同等かそれ以上に、隆則くんが幸せでなきゃ困るのよ。私のワガママで、ずいぶんと辛い想いをさせちゃったんだから」


 ふわりと優しく微笑みかけました。これもまた、私には到底できないような表情だったように思います。


「だから――もう、いいの」


「――っ……」


「結唯を産ませてくれて、ありがとう……隆則くん」


 腰に腕を回して、抱き締めます。

 お父さんに触れられるのは――触れるのは、あんなにも嫌だったはずなのに、あんなにも痛かったはずなのに。自然とこちらからこんな風にできて、不思議と今は穏やかな気持ちで。

 やっぱり、お母さんがいてくれるのかな。……それとも意識してなかっただけで、ずっと一緒にいてくれたのかな。

 お父さんの表情こそ確認していませんが、嗚咽おえつを漏らしているみたいで。私の想いは――お母さんの声として、ちゃんと届いてくれたみたいで。

 後は私自身の――結唯としての言葉も、しっかり伝えておかねばなりません。


「私を大事に育ててくれて、ありがとう……お父さん」


 お母さんを亡くして、辛かったのに。私を見る度にお母さんのことを思い出してしまって、苦しかったのに。

 それでも確かに、私はお父さんの愛情を受けてきました。お母さんの想いを汲んで、頑張ってくれました。だから――


「これからは……お父さん自身の幸せ、もう少し考えてもいいんですよ」


 抱き付いたまま、お父さんの顔を見上げます。

 先ほどまでの笑顔とは違う、本来の私らしい笑顔を向けます。


「礼を言うのは……僕の方だよ……」


 目に涙をいっぱいに溜めたお父さんが、思い出したかのように私のことをきつく抱き締めます。力が篭りすぎていて、多少息苦しくもありましたが……不快なものではありませんでした。

 お父さんの愛情がたっぷりと感じられる、幸せな抱擁でした。


「ありがとう……ごめん……。咲希……結唯……」


 心地よさにうっとりと目を閉じ、そのまましばらく抱き締め合いました。

 今日この日まで、涙どころか悩んだり苦しんだりする素振りすら見せなかったお父さんが、子供のように泣きじゃくっています。あべこべなようですが、そんなお父さんの背中をそっと叩き、落ち着くまであやし続けます。

 このときようやく、私たちは本当の意味で親子となれた。そんな気がしました。

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