結唯――2週目

 長く、深い眠りにいていたようでした。

 真っ暗で、何も見えません。ふわふわと浮かんでいるように心地よく、頭も普段にも増してぼんやりとしています。

 どうせ眠っているのなら、楽しい夢でも見せてくれればいいのですが。


 ――もしかして……今までのが全部、夢だったのかな……?


 ……そんなこと、ありませんよね。

 私は確かに、お父さんにあんなことをされて、あんなことをしたんです。はっきりと目に焼き付いています、身体が覚えてしまっています。


 でも――それよりも、もっと大事なことがあります。


 今朝、こーちゃんと久々に会いました。それは私のよく知る、大好きなこーちゃんでした。

 そして、約束をしました。学校が終わったら、こーちゃんと一緒に勉強会を開きます。

 これは夢であっては困るんです。だからきっと……全部、現実だったんです。



     ◇     ◇



「――……結唯ゆい?」

「……んぇ?」

「授業、終わったわよ」


 そう教えてくれたのは、私の前の席に座る小夜子さよこちゃんでした。入学したその日にもやさしく声をかけてくれた、聖煉せいれん学園における唯一の友達です。

 ぱっと見ちょと怖そうだけど、実はやさしくて。事あるごとに気にかけくれて。何となーく、こーちゃんに似ている気がします。


「大丈夫? 最近どこかおかしいようだけれど」

「あ、あはは~……」


 心当たりがありすぎて言葉に詰まります。


「ちゃんと栄養ってる? ダメよ、無理なダイエットは」


 なるほどそう見られていましたか。栄養はかたよってそうですけど、ちゃんと食べてはいるので大丈夫かと思っていたのですが……それでも気づいてしまうとは、さすが小夜子ちゃんです。


「たはは……バレてしまいますか」

「図星なの? もう……」

「そのですね、この身長にしては、ちょーっと重みがアレな感じなのですよ。脱いだらあかんやつなのですよ」

「減食は即刻やめなさい、身体に悪いわ」

「えぇ~……」

「口答えする気なら、わたしが食べさせてあげる」

「わ、わぁ。それってなんでしたっけ……フォアグラ作る時みたいな。無理やり胃袋に詰め込まれる感じになりそうですね」

「……お望みならそうして差し上げても構わないけど?」

「ごめんなさいちゃんと食べます!」


 小夜子ちゃんはあまり冗談を言いません。今も目が笑ってませんでした。これ以上うだうだ言ってたら本当にされかねません。


「無理して痩せたりしないで欲しいわ。結唯は今のままが一番可愛いのに」

「かっ、かわいい……?」

「えぇ、可愛いわ。――たべちゃいたいぐらい」


 重ねて言いますが、小夜子ちゃんはあまり冗談を言いません。私は蛇ににらまれた蛙さながら、だらだらと嫌な汗を流します。意図せず後ずさりもしますが、それを逃さぬよう小夜子ちゃんの顔がぐいっと迫ってきます。


「さ、小夜子ちゃん……?」

「怯えた表情も、また……ふふっ」


 とってもキレイなお顔が至近距離で、反則なまでに色っぽく微笑みかけてきます。ヤバいです、こんなん同性だろうがなんだろうが問答無用で骨抜きにされてしまいます。私にはこーちゃんという心に決めた殿方がおりますのにー!


「余計なことをされては困るの。お肌だってこんなにも素敵なのに」

「はわっ……わ、わーっ!?」


 つぅー……っと、私の肌に小夜子ちゃんの指が這わされます。細くて長い指がなまめかしく動く様は、見ているだけでもおかしな気分にさせられてしまいそうです。


「ほら……柔らかくて、すべすべで、――


 ……その言葉を耳にした途端、私の心に何かが急激に湧き上がってきました。


「――――ダメッ!!」


 反射的に叫んでしまい、びくっと小夜子ちゃんが手を引いてしまいます。その目は驚愕きょうがくに染まっており、一転して今度は向こうが怯える側となってしまいました。


「……ごめんなさい、結唯。ちょっとおふざけが過ぎたわね」


 普段あまり感情を表に出さない小夜子ちゃんの表情が、悲しみにゆがんでいました。……傷つけて、しまいました。


「い、いえっ……違うんです。その……くすぐったいの、苦手で~……あは、あはは」


 発した声にわかりやすいほどの違和感があります。顔も絶対に引きつってしまっています。


「……ごめん、なさい」

「あっ、結唯……!」


 たまれなくて、頭をばっと下げてから……目も合わさずに駆け出しました。呼び止められますが、構わず逃げます。

 これ以上いたら――絶対、小夜子ちゃんの前で泣いちゃってました。


 ――


 そんなこと、ないです。あるはずが……ないんです。

 私の手はもう、血に染まってます。私の体はもう、けがされています。


 ――ごめんなさい、小夜子ちゃん。


 だから、もう……私に触れないで……?



     ◇     ◇



 こーちゃんとの、勉強会。

 やっぱり楽しいです、幸せです。こーちゃんと一緒であれば、私は永遠に勉強だけをし続けることができます。嘘ですゴメンナサイ。

 でも……ほんの少しだけ、首を捻ります。

 久々のはずなのに、なーんか妙なような。なんというか……今日教えられたこと、既に教えられた覚えがあるんです。私の発言にも身に覚えがあるんです。私がこう返したら、こーちゃんが次にこう言うなーってのも、なんとなーくわかってしまうんです。『デジャブ』っていうんでしたっけ? こういうの。


 まっ、細かいことは気にしないようにしましょう。せっかくこんなにも楽しいのだから、存分にはしゃいでおきましょう。

 ――そして、はしゃぎ過ぎた結果。


「今日……泊まっていきます……?」


 やっべーこと口走っていました。


「いいのか? なら朝までみっちりと叩き込んでやるとするか」


 こーちゃんまで血迷っていました。まじやべえです。


「……えっ」

「ん? どした?」

「いえ、あのっ……その、ね? ほ、ほら、私たち、明日も学校、ありますしぃ……?」


 そーですよ、こーちゃん。何言ってんですか。徹夜でのお勉強会なんて、受験の時だってやってませんよ? それをなんで気安くおっけーしてんですか。らしくないですよ。

 ……それに、今の私なら……わかっちゃいますよ?

 若い男女が、一つ屋根の下、一夜を共にする。世間一般的に見て、それがどういう意味かってことぐらい。


「睡眠の心配なら不要じゃないか? 電車の中でも寝られるようだし、どうせオマエはいつも学校で寝てるだろう?」

「あ、それは確かに。――ではなくてですね!」

「なんだ?」

「う、うぅ~~~……」


 やたらぐいぐいときます。こんなにも私と一緒に居たがるなんて、こーちゃんらしくないです。

 なんですか、久々に会えたのがそんな嬉しかったんですか? 寂しくって別れを惜しんでしまっているのですか? 長い付き合いですけど、そんな素振り過去一度でも見せたことがありましたか? 実はツンデレさんだったんですか?


「あっ、い、いや……! 別にっ、な、なにもしないぞ? オレはただ、普通に、健全に、オマエに学校の勉強を教えてやろうとしてだな……」


 そう必死に否定されると余計に怪しいです。ツンデレ説と共にムッツリ説も濃厚になってきてしまいます。しっかし慌てふためくこーちゃんなんて激レアです、なんだか可愛いです。


「……本当に、ですか?」


 ちょっとからかいたくなってしまいました。こんな機会、二度となさそうですから。

 それにしても……そうですか、そうですか。私のこと、そういう風にも見てくれていましたか。ふぅーん。素直じゃないですねぇ、まったく。によによ。


「あ、あぁ。しない。誓って何もしない、約束する」

「ぜったいです? なんにもしないです……?」


 ――……いいんですよ? しても。

 お父さんに、をされている間は……ひたすら痛かったです、苦しかったです。

 でも――こーちゃんとなら、違うものなのでしょうか。

 本来なら、って……もっと、いいものなんでしょうか。

 なぜかそんなことが気になってしまいます。この胸の高鳴りって、なんなのでしょう。

 そういうのも、全部わかるのかな。こーちゃんが、してくれたなら。


「お、オレがオマエに……その、なんだ。よ……、欲情する、ようなこと……ある、わけ……」


 …………。


「…………ばか」


 心の声がそのまま漏れました。


「……ん? なんだ、いま何か――」

「『ばか』って言ったんです、こーちゃんのバカぁーーッ!!」

「ごふっ!?」


 溜まりに溜まった様々な感情を全て込めた一撃をお見舞いして差し上げます。

 いっくら恥ずかしいからって、その言い草はあまりにもあんまりです! 私の乙女心を散々に弄んだ罪の重さをその身に刻むがよいです!


「帰ってください! しばらく顔も見たくありませんっ!

「お、おい? なんだ、なぜそんなに怒って……」

「うるっせぇーですっ、実家に帰らせて頂きますからね!」

「実家ってオマエ、ここがそうだろう!?」


 そりゃーこーちゃんだって恥ずかしかったでしょうけど、私はそれより何億倍も恥ずかしかったんですからね! いっくら浮かれていたとはいえ、あんなはしたないことを考えちゃうなんて――!


「それに、その言い分じゃまるでオレたちがみたいじゃ――」


 ――ピタリと、感情が固まりました。


「とっととお帰りくださいませ」

「……ハイ」


 私は静かに告げます。

 全てを拒絶する、作り物の笑顔で。


 その後、こーちゃんを見送ります。これはただの監視でした。万が一にも他の部屋を見られたりしては困りますから。


「な、なあ」

「……なんです」

「明日。また一緒に登校しよう」

「…………ん」

「じゃ、また明日な」

「はい。……また、明日です」


 頷きはしました。

 けれど、それに応じるつもりは……ありませんでした。



     ◇     ◇



 ――『それに、その言い分じゃまるでオレたちが夫婦みたいじゃ――』


 それは私が一番に望んだ未来。もう決して叶うことのない未来。

 ずっと抱いていた人並みの幸せへの想いは、私を一気に現実へと引き戻しました。


 私はいったい、何を浮かれていたのでしょう……?

 私はいったい、何を望んでいたのでしょう……?


 お父さんとは、ただ痛かった。でも、こーちゃんとなら……何か違った想いが抱けたのでしょうか。

 そんなこと、思っていましたよね。幸せな想いが抱けることを、嫌な想いを拭い去ってくれることを、期待していましたよね?

 お父さんの心をなぐさめるために。この体は既に捧げてしまったはずです。

 私が歪ませてしまった、お父さんの感情を浄化してもらうために。そのけがれをこの一身で受け止めてきたはずです。


 ――こんな穢れきった身体。大好きな人に触れられる資格など、ないんですよ?


 体が、あの時の感覚を覚えてしまっています。……意識してしまえば、より一層湧き上がってきてしまいます。


 きもちわるい。……きもち、わるい。

 失くしてしまいたい。感覚を。部位を。

 『ここ』を、破損させたい。抉り取ってしまいたい。

 消し去ってしまいたい。記憶、感情でもいい。

 『ここ』が。『ここ』が。……『ここ』、がぁっ……!

 何を、どうすれば――私の心は安らぐのでしょう。

 わからなくて、その苛立ちをぶつけるように……想いのまま、なんども、なんども、振り下ろします。嫌な感触がして、嫌な音がして。……刺して、引き抜いて。自分の体から吹き出す赤い液体と、その色に染まった包丁を呆然と眺めます。まるで他人事のようにわらい、なおも刺し続けます。

 ただひたすらに、きもちわるくて。痛いのは、心だけで。


 『ここ』なんていらない、こんな場所いらない。……私自身がもう、いらない。


 ――あぁ、でも。

 こんな穢れ切った私でも……ろくでもない人生でも。こーちゃんのためになれたのであれば、十分です。

 私にはそれ以外に何もありませんから。生きる価値も、死を間際にした想いも、その一点に集約しています。


 どうか、あなたは……幸せに――。

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