4週目:⑥
外はすっかり晴れ上がっていた。どうもゲリラ豪雨に近いものだったらしい。
「ほんとありがとな、
お陰で無事に下着も乾き終え、下手したら家を出た時よりもピシっとした服装になった。一人暮らし歴が長いのか、意外なことに大分手慣れていたようだ。
「
玄関を出ようとしたところを、小夜子に呼び止められる。
「ん?」
「ヘタレ」
「……」
結論から言うと、あの後オレたちは結局――ヤらなかった。
理由は至極単純であり、小夜子の言う通り――オレがヘタレてしまっただけだ。
何を口走ったかはいまいち覚えていない。酷くテンパり、しどろもどろに支離滅裂な発言をした気がする。
男側が口にする言葉じゃない気がするが、心の準備がまだできていなかった。とにかく怖かった。
そんな具合でこの上なく見苦しく
「ま、そういうところもあなたらしいけど」
「……うるせえ」
「気が変わったらいつでもどうぞ?
「だから、うるせえって!」
この
オレをからかうのが純粋に楽しかっただけかもしれない。けれど、こんなにも笑って貰えるなら……そう悪い気分じゃなかった。
この先も、小夜子とは仲良くやっていける。確かにそう思える、清々しい気分だった。
あの時、もしオレがヘタレてさえいなければ……ヤれたかもしれない。
しかしそうしてしまえば、絶対にこんな想いは抱けなかった。そこ自体に後悔はない。でも――
――そう。オレはただ、ヘタレただけなんだ。
アイツらの顔を、
あとほんの少し、勇気や欲望が勝っていたなら……おそらくオレは、小夜子と――
――……最低、だな。オレは。
◇ ◇
「ただいま」
「おかえりなさい、孝貴。遅かったわね」
「……学級委員の仕事があってな」
少しの間が空いてしまう。けれど、悟られるほどのものではなかったはずだ。
後ろめたさを覚えながら、逃げるように洗面所へ向かった。
――そこは、洗面所だった。が、同時に脱衣所も
オレと母さんは二人暮らしであるため、普段ならばそこには誰もいないはずだった。
……しかし、今日は――
――ガチャリ。
……
「あらっ、こーちゃん。奇遇ですね、こんなところで」
「……あ、ああ」
「ごめんなさい、ちょと待っててくださいね。いま、服を着るとこなので」
「……あ、ああ」
……ぱたん。
…………再び、間。
「きゃああああああああ!?」
「ああああああああああ!?」
二人分の大絶叫が
「ちょ、二人とも! なにしてんの、近所迷惑だから――って、あっ」
慌てて飛んできた母さんが、自身の額をぺちんと叩く。そのジェスチャーの意味は「てへ、やっちまったぜ☆」だと思う。
「あははっ、ごめんごめん。言うの忘れてたわ」
「な、ななっ、なんで結唯が、家に……!?」
――それも、風呂入ってて。……その上さらに……裸で。
「ちょっと前にすっごい雨ふったでしょ。こりゃ帰れないだろうなってアンタに電話したんだけど……ぜんっぜん出ないから、結唯ちゃんに電話してみたのよね。そんで迎えに行ってあげたの」
結唯もあの雨に巻き込まれてたのか。それで濡れたから、風呂に入った……と。
「……あれ? ってことは、結唯も帰ってきてからそう経ってないのか?」
拓海と一緒に、ずいぶん前に学校を出たと思ったんだが。雨が降ってくる前に家まで到着できそうな時刻だった気がする。
不思議に思っていると、脱衣所の扉が開く音がした。着替え終えた結唯が出てきたらしい。
「ちょと本屋さんに寄り道しちゃってましたので。気付いたらもー、外は雨がざーざーでした。脱獄困難な天然の牢獄と化していました」
「そこへ駆けつけたヒーロー、アタシ」
「まさに京子さん様様なのでした。きっと私の目はハートになってたと思います」
「よせやい、照れちまうぜ」
「きゃー!」
……脱獄の手引きをした者は、果たしてヒーローなのだろうか。この二人のノリには一生ついていける気がしない。
「――で、アンタどう落とし前つける?」
「……は?」
「結唯ちゃんを
穢した……? 見てしまったことか? ……結唯の、裸を。
「お、おいなんだよそれ? 教えてくれなかった母さんが悪いんじゃ……」
「口答えすんな! いいかいアンタ、嫁入り前の女の裸を見るなんざぁ許されざる行為だぁ。市中引き回しの上、打ち首獄門されちめえよ」
「うっ、うっ……。もうお嫁にいけないのです……」
やけに芝居がかった口調だった。絶対にコイツら面白がってやがる。
「んな、大げさな……そもそも昔は一緒に――」
「わー、わーっ!」
突如結唯が大声を上げて、発言が
「とにかくっ、これはもう責任を取って頂くしかありません! 五年間の交際を経て結婚して、ゆくゆくは子供を
いくらなんでも妄想力
――って、いま……結唯の奴、なんて言った?
「……『りお』?」
「ええ。『りおくん』、『りおちゃん』。男の子でも女の子でも通ずる、とってもステキなお名前だと思うのです。いつか子供ができたら、絶対そう名付けたいと常々思っていたのですよ」
「そ、そう……なのか」
例の性悪悪魔と同じ名前だが……偶然、だよな?
「あらあら。結唯ちゃんってばすっかりその気ねぇ」
他人事のように母さんがしみじみと呟いた。その様子を見るに、結婚に反対する気は毛頭ないらしい。
「なあ、母さん。これ、どうすればいい……?」
「そんなの、結唯ちゃん本人に聞くしかないでしょ」
確かにそれが手っ取り早いのだろうが、全てを結唯に
正直聞くのが怖い――のに。
「ねえ結唯ちゃん。孝貴がね、何でも言うこと聞いてあげるってさ」
……おいバカやめろ。実の親にバカなんて言いたくねえのに、このバカ親は――!
「な、なんでもっ!?」
「……責任を取る、以外でならな」
結婚はまだできる歳じゃないにしても、こんな形で交際させられる羽目になるのは……なんか、嫌だ。初めて付き合う相手とは、ちゃんとお互いに向き合って――
――こんなだから、『ヘタレ』た
「それじゃ~、ですねぇ~。デート、してくださいっ」
「……デートぉ?」
「はいっ。二人っきりで、お出かけ。です」
軽く首を傾け、にっこりと微笑んでくる。
「あら、いいわねぇ。よっしお金ならアタシが出すわよ。――何泊分欲しい?」
「…………」
『バカ野郎』と危うく口に出しかけ、歯を食いしばって何とか耐え切った。
いやでも、ホントにバカ野郎だろ母さん。息子がそういう目的で泊まるホテル代を出そうとする親が一体どこにいんだよ。
「あぁ、いえっ! お気持ちは嬉しいのですが、大丈夫なのです。お金とかは要らない場所へ行きたいので」
「……そう。ざーんねん」
なあ、そこまでしょんぼりする必要あるか? マジでどんだけ必死なんだ……そのうち親子の縁切っちまうかもしれないぞ?
「まっ。変なとこじゃなきゃ付き合ってやるよ」
「そうよ、変なとこ行って危ない目に遭ったり、ぼったくられたりしても困るわ。アタシが知ってるトコなら安心だから、やっぱりそこに――」
「……母さん、そろそろ黙ってくれ」
「……ハイ」
いい加減その発想からは離れて欲しい。なんでこの親から生まれておいて、息子はヘタレになってしまったんだろう。謎過ぎる。
……母さん、オレぐらいの年齢の時にはもう子供作ってんだもんな。ホント信じらんねえ。
「じゃー、こーちゃん、はいっ」
「……なんだ?」
「見てわかんないですか? 『指切り』ですよ、ゆびきり~」
言われてみれば確かに納得する。小指だけを立てた右手を、こちらへ差し出していたのだから。
しっかしこの歳にもなって、そんなことをしたがるとは……と苦笑しつつも、おとなしく同様に右手の小指を差し出す。
「ほら」
「んっ。――ゆーびきーりげーんまーん、うーそつーいたーら、はーりせーんぼーん、のーますっ! ゆーびきーったーっ♪」
元気よく歌い上げ、満面の笑みを浮かべる。
「今度のお休み、ですからね?」
「ああ、わかったよ」
「んっふふー。今からとーってもたのしみですっ」
◇ ◇
「いやー、賑やかだったねぇ」
さあ寝ようと布団へ潜った途端、耳障りな声がする。……見られてたのか、あのやり取り。屈辱だ。
「来んな。睡眠妨害だ」
「そう冷たいこと言わないでよぉ、久々におしゃべりしようよぉ」
こうなるとコイツは絶対に引いてくれない。オレの枕元で延々と恨み言を呟き続ける。
某10円硬貨を使用した有名な占いの際、『お帰り下さい』とお願いしても絶対に『いいえ』にしか行ってくれないような奴だ。どうにか満足してもらって自分の意思で帰って頂くしかないのだ。チクショウ面倒くせえ。
「そういえば……聞いてたか? 結唯の奴、子供ができたら『リオ』って名前にしたいっての」
喜んでくれそうな話題からチョイスしてみる。さっさと満足して帰ってくれないかと切に願いながら。
それを聞いたリオは、初耳だと言わんばかりに目を見張る。
「へぇ、そりゃいい名前だ。とっても優しくて可愛くて、まるで天使のような子になってくれるだろうね」
「……はいはい」
そこを聞いてなかったということは、全部は見ていなかったのだろうか。
ならば比較的傷が浅い場面しか見られてなければ良いのだが。
「さっきの、一体どっから聞いてたんだよ?」
「んにゃ、賑やかだなーとは思ってたんだけど、その内容はほとんど聞いてなかったの」
「……そうか」
「キミと結唯ちゃんが絶叫してた場面だけはバッチリ見てたよ」
「……」
一番ダメな場面じゃねえか。
「キミ、けっこームッツリだよね」
「うるせえ黙れ
これ以上のコミュニケーションを拒否するよう布団を頭から被り直す。バリアー張った、オレ無敵。
……オレは今何を思った。結唯の『指切り』にあてられて、オレまで童心に返ってしまったか? ……単に疲れているだけか。
「お疲れみたいだねぇ」
「……そりゃ、あの二人を敵に回したらな」
あそこまで大げさにしなくてもいいんじゃないかと思う。
事故なんだし。むしろオレだって被害者なんだし。……まぁ正直、結唯の裸を見れたのは
――やっぱオレ、疲れてんな。
「しょうがないよ。裸を見られたら、神だってめっちゃ怒るんだからさ」
「そうなのか?」
「うん。見たその人を動物に変化させた上で、八つ裂きにしたりもするし」
「こええな、神」
結唯が人間で良かった。
「こわいっていうけど、人間だってなかなかじゃない?」
「……どういう意味だ?」
「たとえばさっき結唯ちゃんが言ってたやつ、『指切り
「あ、あのな。それは――」
「他にも、『煮え湯』を飲ませたりするんでしょ? しかもあれってば、騙された側が『煮え湯を飲まされる』んだよね? 騙した側への罰としてならともかくさ。おかしいじゃない、あべこべじゃない? 追い打ちとか残酷じゃない? 『泣きっ面に蜂』ってやつなの、『死体蹴り』ってやつなの?」
「いや、それも……ただの例えというか、なんというか……」
確か……信頼してた相手に飲み頃だと言われ、いざ飲んでみたらめっちゃ熱かった。っていうような話だったか?
つまり信じていた奴に騙されること、裏切られること――だったような。
「え〜?」
「だからお前が言ってるようなことは、本当にはやらないんだよ。……少なくとも、現代では」
一応小声で付け足しておく。
『指切り』の方は、昔はどうだったのかは
本当にやってたとしたなら……確かに、なかなか――かもしれない。
「なーんだぁ、つまんないのー」
「面白いかどうかの話じゃない気がするんだが……というか、仮にもオマエは神だろう。優しさやら慈愛やらはどうした、おい」
「……や、やだなぁ。ちゃーんと満ち溢れてるよ」
少しの間と、冷や汗と、口笛を吹く
……と思ったが、コイツの存在自体が
「そういえばさぁ、話は少し戻るんだけど」
「なんだ?」
「神はねぇ、特に『
「……これまた、急にきたな」
そこも……見ていたか。先ほどは結唯と洗面所で鉢合わせしてしまったことを『一番ダメな場面』と称してしまったが、こっちの方が断然上だった。
「あんまりふらふらしないでよね。神にだって幸せにできる人数は限られてるの。まして人間ならなおさらだ。大事なものは、ちゃんと見極めようね」
「わかってるさ」
力強く、頷く。
「オレが守りたいのは、結唯だけだ」
それが原点であり、最も優先すべき想いだ。
そこは絶対にブレてはいけない。今一度、胸に刻み込む。
「わかってるんならいいんだよ。ちゃーんと、最初の想いを貫いてよね」
「ああ……もちろん」
――――……ちゃーんと、ねぇ……?
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