4週目:①

「担任の神志名かしなだ。あー、お前らに一つ言っておく」


 この挨拶だけは聞き覚えがある。が、その後に何を言っていたかは全く聞いていなかった。反省しつつ、今回は聞き逃すまいと耳を傾ける。


「コイツは俺の持論だが、学校ってのは勉強するためにくる場所じゃない」


 ……勉強を教えるのが仕事な教師が、そんなこと言っていいのだろうか。

 のっけから何とも心配になる発言だったが、ひとまず引き続き傾聴する。


「お前らだって勘付いてるだろ? 教科書に載ってるお勉強が真に役立つ時なんて、入試の時ぐらいなもんだって。学校ってのはそれよりもっと大事なもんを学ぶべき場所だと俺は思っている。――、な」


 『実体験上』――その言葉だけは妙にはっきりと、重く響いた。他の連中も同様だったのか、急にしんと静まり返る。


「信じられないかもしれないが、学生時代の俺は勉強に全てを賭けていた。決して大げさなんかじゃなく、命すら捧げるレベルでな。他の奴らが仲間とつるんだり、趣味にいそしんだりしてんのを見て、『青臭いことしてんなぁ』って見下しすらしてた。

 俺はやりたいことを全部我慢して、ひたっすらに勉強ばっかしてた。結果、目指していた大学には入れた。――だが、だった」


 それまで力強い口調で語っていたはずが、一転して弱弱しくなる。


「ふと気づいてみりゃー、なんも無かったんだよ。友達も、思い出も……夢すら無かった。一体今まで何のために必死こいてやってきたんだろうって、ただただ絶望しちまったよ。要するに『学校のお勉強だけができるバカ』だったんだよな、俺は」


 自らを恥じるような、嘲笑あざわらっているような口ぶりだった。

 あの時にオレにだけ向けて話してくれた内容と、当然ながら似通っていた。それでもまた聞き入ってしまう。

 中でも特に……『学校のお勉強だけができるバカ』――その言葉を今一度、反芻はんすうした。

 ここで先生に気付かされなかったら、たぶんオレも――


「どうかお前ら、俺のような後悔はしてくれんなよ。そのことを一番に伝えたくて、俺は教師になったんだ」


 どうせくだらない御託と思って聞き流してしまったことを、いたく反省した。

 担任となった先生が、こんなにも立派な人だったなんて、知りもしなかった。

 ……本当に、狭かったな。視野。


「あー、つまりなにが言いたいかってーとな。野球部に入れ、お前ら。人生一度きりしかない高校生活の青春を、俺と一緒に謳歌おうかしようぜ?」


 打って変わった明るい口調――いや、馴れ馴れしいほどに砕けた口調で身を乗り出してくる。そのあまりの変貌へんぼうっぷりに、思わずずっこけてしまいそうだった。


「絶対に大事なもん学べっから! な、おまえら! 廃部寸前なんだよ、ずっと野球がやってみたかったんだよ、俺にも青春をやり直すチャンスをくれよ。先生を助けると思って……な? 頼む、このとーり!」


 ……早くも前言撤回したくなる。見直して損したかもしれない。感動を返せ。


「なんかいい話っぽかったけど、結局自分が野球やりたいだけだよね?」「あっぶね、騙されるとこだった」「大丈夫かな、うちの担任」などというひそひそ話も聞こえてくる。

 それには激しく同意であり、おそらくクラスの心が早くもそのように一致していたはずだ。その一点だけは評価に値する。


 教室内が一気にざわめきだし、神志名先生と一部の生徒が変な問答を始めてしまった。その内容としては、「何歳なんですか?」といった先生のプライベートに関することや、「野球部に入ったらいくらくれますか?」といったウケ狙いの質問だった。

 ちなみに野球で先生との勝負に勝てば缶ジュースぐらいくれるらしく、年齢は二十八歳らしい。正直アラフォーかと思ってた。大分老けて見える。


 そんな中、オレはふと結唯ゆいのいる方を見る。何やら前の席の奴と喋ってたようで、互いに笑顔を見せていた。

 早くも友達ができたようで、自分のことのように嬉しくなる。完全に無意識の親心だった。どうもオレの『子離れ』は先が長そうだと苦笑していると……その視界の手前に見えた奴――オレの隣の席の奴も、なぜかそちらを見ていたようだった。どうやら結唯と喋っている相手のことを見てたらしい。

 前回は六月になってようやく自己紹介をした間柄だったが、今回はちゃんと済ませておこう。確か、名前は――


「よう。佐久間さくま拓海たくみ、って言ったっけか?」

「ああ、うん。君は浅井あさい……孝貴こうきくん、だったよね」

「孝貴でいい。オレも拓海って呼んでいいか?」

「構わないよ。よろしくね、孝貴くん」


 こうして一言二言会話しただけでもその人柄がわかるような、見るからにおとなしく温厚そうな奴だ。


「なあ拓海。今あの子のこと見てたけど、知り合いか?」

「ち……、中学の頃の同級生、かな」


 まさかそのことを聞かれるとは思ってなかったのだろう。あからさまに動揺し、口調もしどろもどろになってしまった。

 この反応の意味はオレごときでもわかる。素直で隠し事も苦手な奴なのだろう。


「ほぉーう……? なるほどなぁ」

「な、なに?」

「いんやぁ。なんでも」


 なるほどなるほど、母さんや隆則たかのりさんの気持ちが少しわかってしまった。人の色恋沙汰をからかうという行為は、なかなかに楽しいようだ。


「き、君はどうも意地悪な奴みたいだね……」

「オマエは見るからに良い奴そうだな」


 そう返すと、拓海は首を傾げる。


「ぼくが? どうして?」

「ろくに言葉を交わしたことのない相手にすら、ありがたい助言とかしてくれそうだなって」

「……そうかな?」

「深くは気にしないでくれ」


 冗談めかして、笑って誤魔化ごまかした。


「――ああ、悪い。ちょっといいか」


 すっかりその存在を忘れかけていたが、神志名先生が唐突に手を叩き、私語を止めるよううながした。


「せっかく暇だし、今のうちに委員会ぐらい決めときたいんだ」

「今からですか?」

「決められるとこまででいい、少しでもやっときゃ後々楽になっから。んじゃまず、学級委員からなー。男女一名づつ、できれば立候補で頼む。切実に頼む」


 切実に、と付け足したくなる気持ちはよくわかる。立候補など滅多に現れない役職の最たるものだろう。

 しかし――


「っとまあ、誰もいないよな。んじゃ恒例の推薦――」


 その声をさえぎるように手が上がった。それも、二人同時に。


「あ、オレ立候補で」

「右に同じ」


 一人はオレ。もう一人は――先ほど結唯と話していた奴であり、拓海の中学の頃の同級生でもある女子だった。名前は……わからん。


 立候補しようと思った理由としては――『視野を広げる』為だ。

 神志名先生に言われてハっとした部分もあったし、リオの口ぶりから察するにオレは何かを見落としていたのかもしれない。

 思えば前回は結唯のことしか見ていなかった。そのせいで逆に見えなくなってしまったものがあったのかもしれない。

 リオがわざわざこの日からやり直させているのも――その辺りの思惑があるのではないか。そう思った。

 具体的にどうすればいいかはさっぱりなので、ひとまず本来のオレらしい学園生活を送ることにしてみる。この立候補は、そこに更に若干の積極性を盛ってみた結果だ。


「おお、マジかお前ら、ホント助かるわ。んじゃ、後は任せた」


 そう言って先生は、椅子を片手に教室の隅まで移動した。「どっこいしょ」とオッサン丸出しの声と共に座ったかと思うと、足を組んで背もたれにどっぷりと寄りかかった。あれはどう見てもリラックスモードに入ってる。

 ……なあ先生、アンタ自分が楽したいが為に早めに決めさせたのか? また一つそんな不信感がつのる。

 オッサンは放っておいて、共に壇上へ上がった女子へ目配せで「どっちから?」と問うと、「当然あんたが先でしょ?」と言わんばかりの視線が返ってきた。

 順番は別に先でも構わないんだが、そこまで冷たい目を向けなくてもよくねえかな……? 一応オレなりの紳士的気遣いのつもりだったんだが、不正解なのか。女心って奴は永遠の謎だ。


「えー、不肖ふしょうながら立候補させて貰いました。浅井孝貴っていいます」


 ぱちぱち、とまばらな拍手が聞こえる。よくわからん奴に対するものとしては妥当だろう。


「オレはこの学級をより良く、素晴らしく、日本中にすら誇れるクラスにしたいです」


 拍手がピタリと止んだ。動じることなく、屈託のない笑顔で続ける。


「……なーんてこと思うような、真面目な人間なわけないんで。基本は適度にゆるーく、窮屈しないように。でもやるとこは、キチっとやる。――丁度、神志名先生の人柄をまんま表したようなクラスになってくれたらいいかなって思ってる」

「――あ? なんだ、呼んだか?」


 完全に油断しきっていたらしい。その様子にクスクスと微かな笑いが起こった。さすが先生だ、良いダシになってくれる。


「こういう何かを決める話し合いの場も、これから先結構あると思う。みんな覚えがあると思うけど、だらだらと長引いたりするのって嫌だろ? なるべくならオレは、ちゃっちゃと終わらせられるようにしたい。そのためにみんなも協力して欲しいんだ。どうかよろしく頼むよ」


 少しの間の後……誰かが二、三度、手を打つ。それを皮切りに、大きな拍手となってくれた。どうやら受け入れて貰えたらしいと、ホっと胸を撫で下ろす。

 後ろに控えてた女子と目を合わせ、軽く頷いて見せると……ソイツは女王様さながらの動作で教壇の中央に立った。


星野ほしの小夜子さよこ


 前置きも何も無しに、名前だけを端的に名乗る。驚くほど乱暴な自己紹介の仕方だった。それに続けて顎先あごさきでオレのことを示しながら、毅然きぜんとした態度で言い放つ。


「そこのおちゃらけた奴とおおむね同意見ね。ただし、私は別に協力とかは求めてない。あんまりうだうだ言ってたら、こっちで勝手に決めるから。そのつもりでよろしくね」


 それを受けて「横暴だー」「独裁者ー」などという男子からの野次が飛んでくるが、どうにもあれは不満な様子ではない。彼女の冷徹な表情を何とか変えさせようと、からかっているようだった。


「私をそんな独裁者にさせないよう、快くお力添え頂けたら幸いだわ」


 そんなものどこ吹く風といった具合に、打って変わった柔らかい微笑みを見せる。騒いでいた男子はこぞって黙ってしまった。おそらくアイツら、完全に心を撃ち抜かれている。

 内心、舌を巻いた。たったこれだけのやり取りで、おそらくこの教室の大半が彼女により掌握しょうあくされてしまったことだろう。それを狙ってやっていたのだとしたら大した策士だ。


 ……結論から言うと、どうも策士ではなかったらしい。単に彼女の素だったようだ。

 その後他の委員会を決める話し合いとなったが、星野は「誰もいないの? じゃ、そこのあなた。やりなさい」と言った具合に命令していった。それを渋れば氷のような眼差しにより射抜かれる。ただひたすらに横暴であり、完全に暴君だった。

 誰かがこそっと『女帝』と呟いていたが、言い得て妙だと思った。おそらく近いうちに、彼女のあだ名はそのようなもの決まっていることだろう。


     ◇


「あたしのお陰ね」

「……そうですかい」


 意外にもすんなりと話し合いが終わり、星野はご満悦のようだった。

 今は先生に頼まれた配り物を運ぶため、二人で廊下を歩いている。


「みんなをなだめるオレの身にもなってくれ」

「あら。あなたなら〝そう〟すると思ったからこそ、〝ああ〟したのよ」

「……どういうこった?」

「例えば、あたしが先に横暴な発言をする。それこそ『そんなの無理、嫌』って間違いなく拒否されるようなことでいい。その後であなたが、妥協案や折衷せっちゅう案を提示する。そうするとあら不思議、『そっちならまだマシか、それはいいな』って心が生まれやすいの」

「ああ。それって確か似たようなのが……『ゲインロス効果』、とか言ったっけか?」

「そ、よく知ってるじゃない。良いサポートだったわ、ありがと」

「……」


 再度訂正する。どうもオレの想像の更に上を行く策士だったらしい。

 コイツ……マジもんの食えねえ奴だ。ヤバい奴と組まされることになった。早くも先が思いやられる。


「自ら悪役を買って出てくれるのはありがたいんだが、大丈夫か?」

「何が?」

「そのやり方だと無闇に敵を作りそうだからな」

「生理的に無理なのよね。愛想良く振る舞うのって」

「……ほどほどにしとけよ?」

「余計なお世話よ」


 そう言って彼女は――微かに、笑った気がした。

 その表情に、ふと何かの記憶が胸をかすめる。


「なあ」

「今度は何?」

「オレたち……どこかで会ったことあるか?」

「何よそれ。神聖な校内でナンパしないでくれる?」


 眉一つ動かさず、呆れ果てた口調で返されてしまった。


「いや、そういうつもりじゃないんだが……」


 ――微かに微笑んだ表情。高い位置で結んだ長い黒髪。豊満な胸、くびれた腰に、小股の切れ上がったその女性は、孝貴の目に魅力的に映った。

 そしてその中でも特筆すべきは、黒のサイハイソックス。それとプリーツスカートの間からチラリと覗かせる――『絶対領域』。それはまさしく黄金比と呼ぶに相応しく――


(――おい、リオ)

(あ、うん。なになに、今いいところだったのにぃ)

(勝手に妙なモノローグ捏造ねつぞうしてんじゃねえよ。おまけに変態っぽい言い回ししてくれやがって)


 念のため、オレの名誉のため断っておくが、さっきのはオレにりついてる性悪しょうわる悪魔のバカ野郎がほざいてただけだ。お陰で星野に弁明する機を完全に失ってしまった、くそったれ。

 それにしてもコイツ、相変わらずどうでもいいこと知ってんな。『絶対領域』なんてどういう経緯で知るんだ……?


(あははっ。いいじゃない、気になってたのは事実なんだし)

(だから、オマエの勝手な捏造――)

(――じゃ、ないだろう? 好意とは別にしても、キミは確かに彼女のことが気になっていた)

(……)

(素直に認めなよ。ボク相手にしらばっくれても無駄なんだからさ)

(……ほんっと可愛くねえな、オマエって)

(えー。かわいくない?)

(オレの知る限り最上級に憎たらしい生き物だな)

(ぶぅ~……キミの方こそかわいくないなぁ、もうっ)


 くだらない奴とくだらないやり取りをしてしまったせいで、大分遅れを取ってしまった。やや早足で、先を行く星野を追いかける。

 オレがなぜ星野に見覚えがあった気がしたのか、結局それはわからず終いだった。

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