3週目:③

 コンビニで買ってきた差し入れを渡すと、結唯ゆいは大げさに感謝してきた。神でもあがめるかのようにひれ伏してきた。どうやらコイツの心はワンコインで買えるらしい。

 菓子を摘まみつつ、時折談笑も交えながら勉学に励む。そうしてしばらく立つと、ガチャリと玄関のドアが開く音がした。

 結唯はこの家に二人で暮らしている。となれば必然的に、誰が入ってきたのかは明白だった。


「やあ孝貴こうきくん、来ていたのか。久しぶりだね」

「あ、隆則たかのりさん。お久しぶりです」


 やはり結唯の父親である隆則さんだった。座ったまま会釈えしゃくをする。


「また勉強を見てくれていたのかい? いつも済まないね、不出来な娘が」

「いえ、他人に教えるのってオレ自身の勉強にもなりますんで。それに、結唯は教えれば割と覚えはいいんですよ。――要するに普段はやる気がないだけで」

「ひ、ひどいですっ、二人して! そんなことありませんのにー!」


 心外そうにぷりぷりと怒り出す結唯。オレはこれっぽっちも聞く耳を持ってやらない。


「なら孝貴くんと一緒だとやる気を出すってことか? それは、つまり――」

「きゃぁーーーっ!?」


 今度は唐突に絶叫し出した。


「な、なんだよ……いきなり叫んだりして」

「のっ、飲み物が終わっちゃいましたねー、おかわり持ってきますねー!」


 ばたばたと慌ただしく台所へ向かう。そんなに喉が渇いていたのだろうか。


「で、どうなんだい?」

「はい?」


 隆則さんが何やらニヤつきながら近づいてくる。


「結唯をそろそろ君の嫁に――」

「――ぶっ!?」


 嫌な予感はしていたが……その台詞は予想外もいいところだった。


「いやいや、オレはまだ結婚できる歳じゃ……」

「まぁいいじゃないか、細かいことは気にしない」

「……」


 うちの母さんといい、なぜオレたちの親はこうもお節介をしたがるのだろう。

 どうしてもオレたちにくっついて欲しい理由でもあるのだろうか……。


「ま、嫁にもらうかどうかはともかく」


 ポンとオレの肩を叩いてくる。その表情を見てみれば、先ほどまでとは打って変わった、柔らかい微笑になっていた。


「これからもよろしく頼むよ、結唯のこと」

「……はい。もちろんです」


 ゆっくり、深く頷きながら答えた。


「頼もしい限りだね。僕はあんまり一緒にいられないから、孝貴くんがいてくれて本当に助かるよ」

「隆則さんがびっくりしてくれるような成績が取れるよう鍛え上げときますよ。なんなら、一流大学でも狙えるレベルの」

「……それは……いくら孝貴くんでも、難しいんじゃないかな……」

「は、はは……」


 我が娘の可能性を信じてやらないとは、何とも薄情な人だった。いや、冷静で現実的なだけかもしれない。言っておいてなんだが、正直オレも達成できる未来がさっぱり見えない。

 まぁ……オレが本当に成し遂げたいのは、そんなことではないから別に構わないのだが。


 ――隆則さんに言われるまでもない。

 結唯には……必ず生きて、幸せな未来を歩んで貰う。

 その為にオレは、こうして過去へと戻ってきたのだから。



     ◇     ◇



 孝貴こうきくんは、良い子だ。

 結唯ゆいも慕い、頼りにしている。

 きっとあの二人なら……うまくいく。


 そう――僕たちのようにはならないはずだ。


 どうか、幸せになってくれよ……二人とも。




 仕事帰り。すっかり薄暗くなった街中を、隆則たかのりは一人歩いていた。

 本来ならば真っ直ぐ家に帰るべきなのだろう。事実、昔ならば迷わずそうしていた。

 しかし最近は――家に帰るのが、少し憂鬱だった。……少し、怖かった。

 この頃すっかり亡き妻に似てきた、我が娘の姿を見ることが。

 その何とも言い表せない……けれど確実に危うい感情が生じてしまうのが何故なのか。この感情が膨らんでしまった時、自分はどうなってしまうのか。不安でたまらなかった。

 『結唯を、孝貴くんの嫁に』――それは半分は冗談であっても、半分は本気だった。

 結唯には幸せになって欲しい。それも、自分ではない誰かの傍で、出来る限り早くそうなって欲しい。

 そうすれば――自分は解放されるのだから。この正体不明の、恐怖から。

 それが『逃げ』だという自覚も、妻や娘への罪悪感も、痛いほどにあった。しかし他に良い解決策が見当たらない。無意識に零れる溜息の数が、日に日に増えていく。


「はぁ……」


 もう何度目かわからない溜息。呼吸を行う度に、溜息となって零れ落ちている気がする。

 そんな中、ふと――前方を歩く女性の後ろ姿が目に留まった。

 髪の長さ、色、背丈や服装に至るまで……何もかもが、懐かしい。

 何かにりつかれたかのように足早になり、追いかけてしまう。近づけば近づくほど、それは確信めいてくる。

 まるで……妻のような――


「……咲希さき?」


 思わず、声を上げてしまった。……妻の名を、口にしてしまった。

 不意に背後から掛かった声に、その女性はいぶかな表情で振り返る。


「す、すみません……妻に似ていた気がして……」


 ――そんなこと、あるはずがないのに。

 けれど……振り向いたその表情すらも、よく似ていた。

 まるで、生き写しのような……生まれ変わりのような――


「『ナンパ』……では、無いのですよね?」

「はい。単なる人違い、と言いますか……本当に申し訳ない」

「こんな真面目そうな方が、そのような真似をなさるはずもないですものね」


 クスリと笑った顔さえ、瓜二つだった。

 夢でも見ている気分だった。神が与えてくれた僥倖ぎょうこうかとも思った。

 目の前に――亡くなったはずの、最愛の妻がいる。

 瞠目どうもくしたまま固まってしまった隆則に何を思ったのか、その女性は悠然と微笑みかける。


「もしこの後、お時間があるようでしたら……少し、お話して頂けませんか? ――『逆ナン』、というやつです」

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