2週目:②
帰宅したオレはまたも母さんにからかわれ、逃げるように風呂へと入った。
当然だが、今回はバカな妄想などしない。必死に考えた。この後起こり得る出来事に対して、どう挑むべきかを。
「おやすみ、母さん」
「ん。おやすみなさい、
時刻は、十時半。
自室の電気を消して、暗闇に目を慣らす。
今夜はほぼ満月に近い月が昇っていた。その明かりのおかげで、向かいにある結唯の家の様子が
靴は既に履いてある。ここは二階だが、この程度の高さであれば窓から飛び降りるのも容易い。何かあれば即座に駆けつけてやる。
護身用にと用意した金属製のバットを握りしめる。神聖なるスポーツの道具をこんなことに用いてしまうのは良心が痛むが、緊急事態だ。四の五の言ってられない。
さぁ……来るなら来い。
オレが、アイツを守ってヤるんだ――
◇ ◇
――おかしい。
緊張と興奮状態にあるため眠気は一切ない。結唯の家から目を離したタイミングも、集中力を欠いたタイミングも、瞬刻たりともなかったはずだ。
なのに、一向に何も現れない。時刻ももう六時近く、周りもすっかり明るくなり始めている。
このままでは……もう、日が昇って――
――……チュン、チュン。
そんな小鳥の鳴き声と共に、視界に日の光が差し込んだ。
何も……起こらなかった……?
それならそれで、願ったり叶ったりだ。結唯が無事であるなら、それで良い。
……だが。
オレは靴を脱いだ。部屋を出て、玄関口で再び靴を履き直す。鍵を開けて外へと出て、アパートの階段を一気に駆け下りて行く。
急ぎ結唯の家へと向かい、玄関の前で近所迷惑にならない程度の声を発した。
「おーい。結唯、起きてるか?」
――返事は、ない。
この時間ならば、まだ起きていない可能性がある。むしろそう考えるのが普通かもしれない。
……だが。
オレは徐々に暴れ出し始める心臓に息苦しさを覚えながら、ドアの取っ手に指先で触れ、ゆっくりと握っていく。その手が微かに震えていた。
すぅー……はぁー……。大きく一度、深呼吸をする。
意を決して、手前に引く――
――……ガチャリ。
開いた。……開いて、しまった。
前回と、同じように。
鍵は――既に、開いていたんだ。
ドクン、ドクン……鼓動が、暴走している。破裂してしまいそうだ。
突如、ゆっくりと歩みを進めていたオレの動きが固まった。これ以上は、進んではいけない――そんな警告が下った気がする。
やめろ。進むな。見るな。そんな言葉が頭の中で何度もリフレインされる。この先へと進んだら、オレは絶対に後悔する。ほぼ確信に近い嫌な予感しかしない。
でも――オレの足は、動いてしまっていた。
もう――手遅れだった。気付いてしまった。
……なんだ、この……臭い……
嗅いだことのない臭いが漂っている。熱く煮え
気持ちが悪い。平衡感覚を保っていられない。足取りは
「――――……なんで」
やがて辿り着いたリビング。
目の当りにする――変わり果てた、無残な結唯の姿。
「なんで」
もう一度、呟いた。茫然と。
鼓動に合わせて頭が痛む。ハンマーで頭を幾度も殴打されている気分だった。
結唯の体があった位置は、同じだった。しかし体勢は少し違った。ソファに背中を預けて、床に座っていた。
決定的に違っていたのは、包丁の刺さっている位置。刺され方。
心臓を綺麗に『一突き』されていた前回とは、全くもって違う。
――『滅多刺し』、だった。
結唯の――下腹部の辺りが……幾度も、幾度も。怒りに狂った者が、その
「結唯っ……」
膝から崩れ落ちる。目を見開いたまま、瞬きができない。呼吸が不安定になる。むせ返るような血の臭いに、
前回よりも重い、苦しい衝撃に見舞われる。心が――潰れてしまいそうだ。
「……なんで……だよぉ……ッ!!」
なぜだ? なにが起こった? ここで!
今回はずっと見張っていたんだ。この家を。
いつ? 誰が? どうやって? 結唯に、何の恨みがあって――!
「――こりゃまた、ひっどいことになったもんだねぇ。うっわー、えんがちょ」
割り込んだ呑気な声に、殺意すら籠った視線を向ける。
「オマエ……」
「キミも頭ではわかってたのにねぇ。見ない方がいい、やめろ、って。こういうの――『カリギュラ効果』、っていうんだっけ」
奴は――リオと名乗った『自称・神』は、今にも飛び掛かりそうなオレを制するように「どうどう」と両手を上げた。
「……ああ、そうだな。オマエの目にはさぞかし
オレは不快も露わに言い捨てた。
禁止されるほどにやってみたく心理現象――カリギュラ効果。自身へ『進むな、見るな』と命令が下されるほどに、逆にその歩みは止まらなくなってしまっていた。オレの心と体の動きを
「もー、そう邪険にしないでよね。キミと争うつもりなんて、これっぽっちもないんだから」
「……」
「ほらぁ、ボーっとしてないで警察にでも頼ってみたらどう? なにかわかるかもしれないでしょ。キミが気にしている、死亡推定時刻とか、さ?」
……また、読まれたか? 考えていることを。
「……ほんっとオマエ、性格最悪だよな」
「えぇ~。なんでさ、こんなにも純真無垢だってのにぃ」
「抜かせ」
言いなりになるのは
頼るしか、ないか――
◇ ◇
「君が第一発見者?」
「……はい」
オレの名前。向かいにあるアパートに住んでいること。結唯との関係。警察の人から受けるそんな質問に淡々と答えていく。
「……それは、気の毒だったね」
あらかた聞き終えたのだろうタイミングを見計らって、今度はこちらから質問をしてみた。
「あの」
「うん?」
「オレたち、昨夜……十時頃まで、一緒に勉強してたんです。事件が起こったのって、大体何時頃かわかりますか?」
「んー……そのすぐ後ぐらい、かもね。角膜の状態や死後硬直から見るに」
「……そう、ですか」
となると、まさか――風呂に入ってた頃なのか……? その十分程度の間に、全てが済んでしまっていたのか?
悠長に脳内シミュレーションを繰り広げている場合じゃなかった。くっそ……なんて間抜けなんだ、オレは……。
いや、悔やんでばかりいても仕方がない……もう少し情報が欲しい。
結唯は、なぜ殺された?
その動機は。目的は。
結唯を殺した相手は、誰だ――?
「なんで……結唯は、殺されたんでしょうか……?」
「……殺された?」
こちらとしては最もな質問をしたつもりだったが、キョトンとされる。
「あぁ、あの惨状を見ればそう思っちゃうかもしれないけど――」
「……?」
「彼女は――『自殺』だ。おそらくね」
「…………は?」
この上なく間の抜けた声を発してしまう。
余りにも予想だにしない答えに、頭が理解することを拒否してしまっている。理解はできないが、声だけは聞こえた。右の耳から左の耳へ通り抜けていく感覚に近い。
部屋が荒れてなかったこと。衣服が乱れてなかったこと。包丁による刺し傷以外の外傷が見当たらないこと。……表情がやけに穏やかだったこと。
最後の決め手としては、場数を踏んできた直感。そんなことを根拠に推測したらしい。
「彼女は生きたまま、自らの身体を滅多刺しにしてしまったようだ。……
「……」
「彼女……何か思い詰めてる様子とかなかった?」
「……いえ」
半年ぶりに会ったが、結唯はどこも変わってなかった……ように思えた。そのことに安心してたぐらいだ。
なのに――自殺……?
「あくまでも現状最も高い可能性としては、ってだけの話だから。まだ自殺だと断定はしきれない」
「……」
「また何かわかったら、話せる限りのことは話すよ。こっちから君に話を聞くこともあるかもしれないから、その際はよろしくね」
「はい……ありがとう、ございます」
未だショックの抜けないオレは、茫然と立ち尽くす。
思考が一切働いてくれない。「なんで、なぜ、どうして」……そんな言葉ばかりが脳内をぐるぐると巡り続けている。
「――どうする? このまま警察に調べて貰えば、真相もわかるかもしれないけど」
リオの声にはっとする。最もな意見だった。これ以上オレは頭を痛めることなく、答えだけをくれる。それが一番楽な道だろう。
だが――
「いや……それじゃ、ダメだ……」
――自殺。
確かにそれなら、昨夜オレが怪しい影を見なかったことにも納得ができる。この家には結唯しかいなかった。結唯が死んだのは、彼女自身が自分を殺したから。
しかし……自殺にせよ、他殺にせよ、その原因がさっぱりわからないことの方が、オレにとっては問題だった。
結唯のことなら何でも知っているつもりでいた。それがたったの半年で、なぜこんなにもわからなくなってしまう?
今はただ、後悔しかない。なぜ別々の道を歩んでしまっていたのかと。
昔のように一緒にいられたなら――結唯を襲う苦しみにも、わかってヤれたかもしれないのに。
「オレが、わかってやらなきゃ……ダメなんだ」
「なーに、その謎の使命感。ま、こっちとしては面白そうだからいいけど」
面白そう、か。
いいさ……好きなだけ見世物になってやる。
「戻してくれ」
「どのあたりに?」
「オマエなら、オレの考えを読み取るのも余裕だろ?」
――オマエが本当に、神だって言うならな。
「あー、そうやって人を……いや、神を試そうとしてぇ。罰当たりな子だなぁ」
「いいから早くやれ」
「もうっ、神使いが荒いなぁ。ほんっとー、いつか罰当たるぞ~?」
「こんな目に遭ってんだ。もうとっくに当たってるだろ?」
「ったく……しょーがないなぁ」
結唯。オレはオマエを、必ず助けてやる。幸せにしてやる。
そのためには何度だって……なんだって――
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