1周目:②

「――……ぁ……っん……」


 ……?


「――き……こう、きぃ……っ!」


 誰かがオレの名前を呼ぶ。なまめかしい声色で。

 身体が、重い。まるで何かに乗られているようだ――と思ったら、どうやら正しかったらしいことに気付く。その声の主が、仰向けに寝ているオレの身体にまたがっていた。

 灯りが無く顔は確認できない。長い髪を振り乱しながら、みだらに腰を上下させているシルエットだけが暗闇に浮かぶ。

 何をしているのかは、はっきりとわかった。このぐらいの年頃の男子ならば否応なく妄想してしまう行為であり、たとえ夢でもこんな場面に出くわすことがあれば、当然オレも諸手もろてを挙げて喜んでしまう行為だった。


 なのに――何の感動もない。

 感覚が、感情が酷く曖昧だ。オレの身体であるはずなのに、恐ろしいまでに不明瞭だ。

 一つの想いだけが流れ込んでくる。それが『何』に対して――『誰』に対してなのかは、わからない。


 ――ごめん……ごめん、な……。


 ただ只管ひたすらに、延々と、その台詞だけを心の中で繰り返していた。

 繰り返される度に、また一つ、また一つ、オレという存在が着実にむしばまれていくのを感じる。精神が侵され、二度と這い上がれない漆黒のよどみまで沈んでいってしまう。


 苦しいはずなのに表情が一切ゆがまない。悲しいはずなのに涙が一滴も流れない。

 そこにいたオレの心は……もう、既に――



 死んでいたんだ。




     ◇     ◇




「……最悪だ」


 おぼろげな意識でその世界にいながらも、薄々勘付いていた。

 これは――夢なのだと。

 人生で初めてこんな夢を見てしまった。妙に生々しいのが余計に精神的にクるものがある。身体の感覚は無かったが、自分の身体に跨った女性の影が脳裏から離れてくれない。

 原因は言うまでもない。昨夜の結唯のせい――いや、バカな妄想をしてしまったオレ自身のせいだ。

 その日あった良いことを思い浮かべたりしながら、こういう夢がみたいなどと思って眠りに就いたところで、そう都合よくその夢が見れるはずもない。逆に忘れたいのに忘れられない出来事の方が、現れる頻度ひんどが多い気がする。なんとも皮肉なものだ。

 これで夢に出てきた女性が結唯だったとしたら、それこそオレは再起不能だったかもしれない。……いや、はしてしまう。とは言わない――


「……最悪だ」


 同じセリフをもう一度呟く。これほどまでに最低な下ネタを浮かべてしまった自分にドン引きした。

 もう一度眠ってしまいたい。そして起きた時には何もかも忘れてしまいたい。そういうわけにもいかず、あと五分で目覚まし時計が起動する時間になってしまう。

 なかなか寝付けなかったために睡眠時間も不十分だ。しかし身体が鉛のように重いのは、それ以上に精神的ダメージによるところが大きいのだろうと思う。

 過去最大級に寝覚めの悪い朝だった――。



     ◇     ◇



 顔を洗い、多少は気分も落ち着いてきたところで、改めて考える。

 夢に出てきた女性……あれは、誰だったのだろうか。

 可愛いと思っていたアイドル。魅力的に思った芸能人。初恋だったかもしれない小学校の同級生。そして、結唯。彼女らの容姿を順に思い浮かべるが、どうもしっくりこない。

 暗闇で顔は見えず、とっていた体勢的に背丈も怪しいので、特に判断の基準にしたのは〝髪〟だった。

 たとえば結唯は肩にかかる程度――いわゆるセミロングだ。他の子も同じような長さだったり、暗闇だろうと映えそうな明るい色だったりする。

 しかし夢に出てきた女性は、腰に至るほどの長さの黒髪だったように思う。


 そう、それはまるで――


「ん? どしたの、孝貴こうき。人の顔ジロジロ見ちゃって」

「い、いや。なんでもない」


 母さんは若い。オレは母さんが高校時代につい衝動的にできた子供らしく、現在は(自称)三十代前半だ。一緒に並んで歩いていても、姉弟として見られてばかりで、親子だと思われた試しが無い。

 夢に出てきた女性は――母さんに似ていた気がする。

 あろうことか、無意識に母さんをで見てしまっていたのだろうか。それが夢として現れてしまったのだろうか。

 いくら魅力的に見えたとしても、そんなことあるはずがない。あってはならない。

 あえて言うまでもなく――オレたちは、親子なのだから。

 夢は突拍子とっぴょうしも無い展開になることも多い。きっと今朝のもそのたぐいだろう。くだらないことをいつまでも引きずるのは止めようと、半ば強引に思惟しいすることを切り上げた。


「今日はいつになくボーっとしてるけど、さっさと支度しないと学校に遅れるわよ」

「もうこんな時間か……って」

「どうかした?」

「いや、今日からまた結唯と一緒に登校することになったはずなんだ」

「あら、それは良かったわね。……あっ、でもそれなら――」

「ああ。そうなんだよ」


 母さんもオレの疑問を察してくれたらしい。結唯ならば、早く学校へ行こうとこちらの家まで急かしに来るはずだと。

 小中学校の頃は毎日のように一緒に通っていたが、家を出るのはあと二十分ほど遅くても間に合うだろうって時間にアイツはいつも来ていた。それでいて結唯はビックリするほどのんびりとした足取りで学校へ向かう。それに歩調を合わせていると、丁度チャイムの五分前ぐらいで着くといった具合だった。


「昨夜は『起こしに行きますね』なんて言ってたんだけどな。まさかアイツの方が寝坊してんのかな?」

「んー。久々にアンタと通えるからって、気合入れてでもしてるのかしらね」

「……アイツがぁ?」

「まぁ、ほらほら。たまにはこっちから行ってあげなさいな」

「たまには、っていうか初めてだけど」

「細かいことは気にしないの」


 確かに気にしている場合じゃない。結唯の歩く速度に合わせるなら、もうそろそろ家を出た方が良さそうだ。


「はあ……まあ、行ってくるよ」

「いってらっしゃい、孝貴」


     ◇


 仕方なくこちらから結唯の家の前まで出向き、インターホンを鳴らしてから大声で呼び掛ける。


「おーい。早くしろよ、遅刻すっぞー?」


 ……返事が無い。本当に寝てんのかな。


「ったく。しょうがねえなあ……」


 偶然にも今日から一緒に行くことになってて良かったな。お陰で遅刻はまぬがれるかもしれないぞ――まあ遅刻は不可避だろうが。そう思いつつ、オレは庭の方へ回った。

 万が一こういった状況におちいってしまった際には非常手段があった。しかしこの手段を取るのは、かれこれ……五年ぶりぐらいか。今でもちゃんと残してくれてれば良いのだが。


「おっ。あるある」


 庭にある鉢植えを持ち上げ、その下を確認する。

 そこには――合鍵が置かれていた。

 主には結唯が鍵を失くしてしまったりした時用のものではあるが、母さんの帰りが遅くなってしまった際はこれを使って入っててもいいと、オレ用としても隆則たかのりさんが置いてくれていたものだ。それがこんな形で役に立つ日が来るとは思いも寄らなかった。

 玄関へと戻り、手にしたそれをドアの鍵穴へと挿し込み、ひねる。ガチャリという音がしたのを確認し、取っ手を引いた――


 ――ガチャッ。ガチャ。


「……あれ?」


 おかしい。なぜ開いていない?

 確かにオレは今、鍵を挿し、回した。そして、音が鳴った。一回だけ、ガチャリと。

 そこから導き出される答えは。


 ――まさか…………?


 だとすれば結唯の奴、玄関の鍵も閉めずに寝たのか?

 余りにも不用心じゃないか。アイツも一応は女だろうに。……いや、もうれっきとした女かもしれない。


「おーい」


 中へと上がり込み再度呼び掛けるが、やはり応じる声は無い。いくらなんでもぐっすり寝すぎだろう。今までちゃんと遅刻せず学校に通えていたのかと不安になる。

 寝ているのならばまず自室だろうと思い、階段を登り二階へと上がった。物の配置などは記憶と多少のズレがあるが、部屋の位置には当然変化がない。


「入るぞ、結唯?」


 結唯の部屋の前へと辿り着いたオレは、そう声を掛けながらノックをした。が、返事は待たない。オレも巻き添えで遅刻してしまうかもしれない瀬戸際、火急の事態だ。なのでさっさとお邪魔させて貰う。

 室内の光景を目の当たりにしたオレは、驚愕きょうがくした。

 強盗に入られた――というほどでもないが、酷く散らかっている。菓子のゴミ。床に散らばった本。脱ぎっぱなしの服。目に映る全てが信じられない。

 有り得なかった。結唯はこんな状態で平気でいられる奴じゃない。少なくとも、オレが知る限りでは。

 変わってしまったのだろうか。高校に入って。誰かと出会って。恋をして。……大人の階段を、登ってしまって。

 正直、キツい。胸にぽっかりと穴が空いてしまったようなむなしさがある。寂しい、悔しい……言いようのないもどかしい想いも込み上げてくる。

 だが今は、それ以上に重大な事実があった。


 ――いない。結唯が。


 ベッドは整えられていない。寝て起きたまま、といった具合に掛け布団が乱雑に放り出されている。剥き出しのシーツの上には誰もいなかった。

 未だ衝撃から立ち直ってない中、ひとまず結唯を探す方が先決だとかろうじて頭を切り替える。


「何かしながら、寝落ちでもしたか……?」


 気持ちが急いているのか、無意識に早足で一階へと戻った。何かをしていたというなら、一番有り得るのはリビングだ。もしかしたらオレと別れた後も勉強を続けていて――ともすれば、本当に徹夜で勉強会をしたかったのかもしれない。


「結唯? いないか?」


 パっと見、その姿はないように思えた――が、ソファの陰に人間のものらしき足が見えた。まず間違いなく結唯だろう。

 何をどうしたら直に床へ寝ることになるんだと頭を抱えながらも、ほっと胸を撫で下ろした。


 ……――だって、そうだろう?

 聞きたいことがあった。言ってやりたいこともあった。

 それでもとりあえず、無事にその姿が見れたと思ったのだから。

 安心するだろ、普通。


 結唯が、無事に。……無事……に――



 ――――――ッ!?



 仰向けに倒れた、結唯の身体。

 胸の中央――よりやや左寄り。

 そこに、あってはならない物体が立っていた。

 結唯の――おそらく、心臓に。

 突き刺さっていた。


 ――『』が。


「……は?」


 この上なく間の抜けた声が零れ落ちる。

 こんなのオレのような素人の目でも一目瞭然だ。


 結唯は――死んでいた。


 ――なんだ、これ。


 膝から崩れ落ちる。限界まで目を剥く。呼吸ができない。頭が尋常じゃないほど痛む。世界が激しく揺れ動く。


 ――死んだ? 結唯が?


 昨日、この家で、この部屋で、オレと話をしていた。一番付き合いの長い、一番仲の良い、幼馴染。

 そいつが今、目の前にいる。眠ってるように穏やかなのに、血を流していて。冷たくなっていて。

 もう二度とその声は聞こえない。もう二度とその顔は笑わない。


 ――なんだ、それ。


 ふざけんな。

 結唯がなぜ、殺されなければならない……?

 ……ダメだ。限界だ。

 身体の感覚が薄れる。意識が朦朧もうろうとしている。あらゆる全ての感覚が遠くなっていく。

 そうして、オレの心も……壊――



「――お困りのようだね?」



 突如割り込んだその声が、わずかにオレを現実へと引き戻す。しかし心も身体も動かず、全くの無反応だった。


「……聞いてる?」


 眼前で手をひらひらと動かされる。オレはほとんど無意識に、恐ろしいまでのスローモーションで振り向いた。

 目が合うと、ソイツは腹立たしいまでの満面の笑みを浮かべる。


「やーやー、はじめましてっ!」


 この状況に全くもってそぐわない、ハイテンションな声を上げる。

 ウザい、うるせえ、鬱陶しい、消えろ。普段のオレならばそのように感じたはずだが、感情が麻痺してしまっている。


「……なんだ、オマエは」

「なんに見える?」


 感情が正常に機能していれば毒を吐いただろうし、身体がまともに動けば盛大に舌打ちをしただろう。

 当然クイズに付き合う気分ではない。会話すらも煩わしいというのに。


「神か」


 吐き捨てるように適当なことを言った。


「わー、すっごーい! 限りなーく正解に近いと思うよぉ、うんうんっ」

「……」


 まさかのニアピンだったらしいが、何の感慨もない。


「えぇぇ……なーにその目。まさか疑ってる?」

「ああ」

「即答とかひっどいなぁ。まっ、ボクはキミが思った通りの存在だよ。別に好きに思ってくれても構わない」


 ソイツは背中に羽を生やしていた。誰がどう見ても『天使』のものかと思ってしまうような、真っ白で立派な羽だった。

 その見た目から言えば『天使』だが、あいにくオレはそんな存在を信じる性質たちではない。どちらかと言えば悪しき存在の方がまだ有り得ると思っている。

 ゆえに、コイツは『悪魔』なのだろう。『神』とは言っても『邪神』や『死神』の方だろう。コイツの話に耳を傾けるべきではない。決して心を許してはならない。オレの中では即座にそうと決まった。

 そして正体に関してはもうこれ以上考えてても仕方がない、むしろどうでもいい。

 目的は、何だ……? オレは敵意もあらわに問い掛ける。


「神なんぞがなぜオレの前に現れた?」

「とーっても困ってる人の……波動? を感じたからねぇ~」


 うさん臭さが青天井にも程がある。いい加減にしてくれ、頭痛がぶり返しそうだ。


「もー、ほんっとーに信用しないなぁ。――のにぃ」


 ピクリ、と反射的にソイツの顔を見てしまう。

 乗せられてしまった。まんまと。


「……『なんでも』?」

「そ。例えば――ことだって。……ねぇ?」

「……っ!」


 にっこりと悪戯な笑みを向けてくる。オレの目に映ったそれは正に、悪魔の微笑みでしかない。

 くそっ……人の心でも読めんのか、コイツは。確かにオレが今すぐに何かを願うなら、『それ』だった。

 もしその場にいられたなら――守ってヤれたかもしれない。助けてヤれたかもしれない。

 オレならそうしたはずだと。オレになら、それが可能だったはずだと。信じて疑わなかった。


 これは悪魔との取引なのかもしれない。魂を売り渡すことになるのかもしれない。

 だがそれでも、オレは――


「……戻してくれ。時間を」

「よしきたっ、お安い御用だよ!」


 結唯を助けられるなら、コイツの目的が何であろうと構わない。悪魔だろうと何だろうと構わない。

 なんでもしてヤるよ。オレだってな。


「ボクのことは――『リオ』とでも呼んでね。よろしくねぇ、『』」

「……短い付き合いだろうが、よろしくな」


 ――なぜ、オレの名を知っている。

 一瞬驚いてしまったが、神だと言うならば名前を知るぐらい容易たやすいのだろう。すぐにその興味は失せた。


 待ってろ、結唯。


 オレが、オマエを、必ず――

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