振り返ればあの時ヤれたかも

紺野咲良

1周目:①

 人生には後悔というものが付き物だ。

 それ自体が悪いものというわけではない。あやまちを犯さない者など存在しないだろうし、失敗したことで学べることがある。後悔を反省へと変え、更にいましめや教訓へと変えていく。それを重ねていくことで人は成長し、未来へと繋げていくことができる。


 ……そう、思っていたんだ。

 失敗した経験など無かったオレは、そんな歯の浮くような綺麗事を本気で信じていた。

 そして、こんなことも思っていたんだ。

 過去をもう一度やり直すことができるなら、その時は絶対に失敗などせず、必ず望んだ通りの未来を紡ぐことができるはずだと。

 オレにならそれが可能だと。本気で、信じてしまっていた。


 振り返れば、あの時――ヤれたかもしれない。


 なぜオレは……こんなにも浅はかで、愚かなことを……思ってしまったのだろう――。




     ◇     ◇




「お弁当、ちゃんと持った?」

「ああ。いつもありがとう、母さん」


 高校生ともなれば、親の手作りの弁当を持参してくる生徒というのは少ない方かもしれない。最悪周りにからかわれる要因ともなってしまうだろうが、それをオレは恥じたりもせず、素直に感謝している。

 母は女手一つでオレを育ててくれた。決して裕福とは言えないが、何一つ不自由ない生活を送らせて貰っている。本人だって仕事があるというのに、今日も欠かさず弁当を作ってくれる。そんな母は自慢であり、誇りでもあった。


「じゃ、行ってくる」

「ん。行ってらっしゃい、孝貴こうき


 この母に恥じぬよう生きようと心に決めていたオレは、県内でも有数の進学校にとどこおりなく合格し、その入学後も順風満帆な生活を送っていた。

 成績は常にトップクラスを維持しており、教師はもちろん母の心証もすこぶる良い。

 部活動の野球も、レギュラー確定とまでは怪しいが、ベンチ入りならば問題無くできるであろう実力は備えている。

 コミュニケーション能力も長けている方だと自負しているので、友人関係も十二分に恵まれている。

 この先も何事も起きず、欲しいままの人生を歩んでいける。そう思っていた。


 ――今日、この日までは。


「……あっ」

「ん?」


 住んでいるアパートの敷地内を出た辺りで、正面から誰かの声がした。

 それは向かいの家に住む、小・中学校時代の同級生の女子。その当時は何をするにも常に一緒にいた、仲の良い幼馴染――

 高校が別々になってからは一気に疎遠そえんになってしまった。こんなにも近くに住んでいるのに、こうして顔を合わせるのは……かれこれもう半年ぶりぐらいか。


「よう。久しぶりだな、結唯ゆい。元気にしてたか?」


 オレは以前のように声を掛ける。空白の時間など物ともしない、自然過ぎて逆に不自然なぐらいの口調と表情で。

 彼女は一瞬面を食らったようだったが、すぐに顔をほころばせる。下手したら母さんよりも多く見てきた、結唯の笑顔。


「うん。こーちゃんは――元気ですよね、どーせ」

「おい、なんだそれ。オレが病気や悩みに縁がみたいな言い草は」

「でも間違ってないですよね?」

「間違ってないな」


 確かにオレは至って健康なもんだし、悩みなんて生まれてこの方持った覚えすらない。結唯は多少抜けているところもあるが、バカではない。ちゃんと鋭いところは鋭い奴だった。


「どうだ? そっちの学校での生活は」

「んー、なんかそのセリフ、親みたいです」

「オレはオマエの保護者みたいなもんだからな。まあどうせ、勉強にはついていけてないだろ」

「あはは~。さっすがお父様、御見通しなのです」

「結唯だと聖煉せいれんはギリギリだもんな。なんでまたあそこにしたんだ?」


 『聖煉学園』――結唯が通っていたのは、オレも第二志望にしていたぐらい偏差値が高い高校だ。正直コイツが受かったのは、奇跡なんじゃないかと思ってしまうレベルに。

 聖煉を受験をする、と聞いた時から気になってはいた。何かしらの動機がなければ、死に物狂いの努力をしてまで狙う場所じゃない。

 こちらとしては何気ない質問のつもりだったが、結唯が返答するまでに少し間があった。


「……なんで、でしょうかね」

「……?」


 オレが首を傾げていると、結唯は「あはは」と困ったように笑う。


「ほら。私って、物事をあまり深く考えないタイプじゃないですか?」

「まあそうだな」

「忘れちゃったんですよ。たぶん衝動的になーんかあったんでしょーけど……うーん、なんででしたかねぇ」

「オマエなあ……」


 コイツは相変わらずだな、と苦笑する。

 そんな彼女らしい言い草に心配にもなるが、同時に安心もしていた。しばらく会わずにいても、結唯は結唯のままだと。


 また以前のように、こんな風に過ごすのも――悪くないかもしれない。


「なあ、また勉強を教えてやろうか?」

「わっ。久々出ちゃいました、こーちゃんの上から目線。なっつかしーです」

「なんだよ。実際、頭の良さはオレの方が上なんだから別にいいだろうが」

「それは仰る通りで」

「これまで何度、赤点や補修の地獄から救ってやったと思ってんだ? んん?」

「……返す言葉もございません」


 しおしおと小さくなる結唯。うつむいて人差し指をちょんちょんと突っつき合わせる仕草がこれまた懐かしく、思わず吹き出してしまいそうになる。


「じゃ……早速今日、お願いしちゃいましょっか」

「おう。学校終わったら適当にオマエん家行くわ」

「えっ、ええ……うち、ですかぁ……っ?」

「……? なんだよ。オレらが何かする時は大体オマエの家だったろ?」


 オレの住居は2LDKのアパート、対して結唯の家は一戸建てだ。当然部屋は広いし、テレビも大きく、おまけに軽くキャッチボールぐらいならできる庭まである。何をするにしたって結唯の家の方が都合がいい。一緒に何かする、となれば必然的に結唯の家にオレが行く習わしとなっていたはずだ。

 それをなぜ今になって驚く必要があるんだ……?


「ま、まぁ……そですね、はい。私の家でよいです」

「ああ。じゃ、またな」


 最寄り駅に着けば、ここからは乗る路線が違う。結唯とは別の方角へ進もうとしたオレに、尚も後ろから元気な声が飛んできた。


「忘れ物ないです? 大丈夫です? 気を付けてくださいね?」

「これまた急にオカンになったな」

「さっきの〝お父様〟に張り合ってみました!」

「心配してくれるのはありがたいが、オマエは大丈夫なんだろうな?」

「だいじょーぶです! ……おそらく、きっと」


 小声で付け足されたセリフは聞かなかったことにしておこう。これ以上しょうもないやり取りを繰り広げては電車に乗り遅れてしまう。

 笑顔で手を振る結唯に釣られてか、こちらも頬を緩ませ、軽く手を上げて別れた。



     ◇     ◇



 いつものように平和に学校での全てを終えたオレは、帰宅するなり母さんに今朝の結唯とのやり取りを軽く説明した。晩御飯を作りながらも時折「へー」や「ふーん」といった反応をされる。しかし興味がないという雰囲気ではなく、感心してくれてるような印象だった。

 話が一区切りしたところで、ふと良い匂いが漂ってくる。どうやらカレーを作ってくれていたらしい。そして匂いがするということは、既にルーが投入済みということ。あと少し煮込めば完成するのだろう。リビングのソファに座ったオレの傍まで来て、優しい笑みを浮かべてくれた――が、心なしか生暖かい目をしている気がする。


「もうできるから、食べてから行く?」

「ああ。そうするよ」

「あ、でも」

「……?」

「カレーじゃ、結唯ちゃんに悪いかしら……」

「何が悪いんだ?」


 さっぱり意味がわからない。


「……孝貴にはまだ、そういうのは早いのかねぇ」

「お、おい? なんだよ母さん、なんでそんな哀れむような目で見るんだよ……」

「まっ、いいわ。失敗して学ぶこともあるでしょう。ほら、とっとと食べて行ってあげなさいな」


 脳内を疑問符でいっぱいに埋め尽くしたオレは、促されるままに少し早い夕飯を頂いた。

 母さんの作るカレーは、面白い。

 作る度にその姿が全く違うのだ。ご飯に染み込むほど緩いスープカレーになったり、逆にペースト状で完全にご飯に乗っかるほどになったりする。いつも同じだと飽きるかもしれないと意図的に変えてるのか、単にルーの量が毎回適当なのかは定かではない。

 今日はその中間ぐらいの、オーソドックスな感じだった。しかしどんな姿であろうと、母さんの作るカレーはやはり美味い。自然とがっついてしまい、しょっちゅう「そんな食べ方してたら死ぬわよ」などと叱られた。

 今もいつもと変わらぬ食べ方をしていたはずだが、なぜだか何も言われなかった。それどころか「流し込め」と言わんばかりに牛乳を差し出してくれる。調子が狂うが、逆らわずに急ぎ食すことにした。


「ごちそうさま」

「お皿、水につけとくだけでいいからね」


 普段なら洗い物ぐらいオレがするのだが、気を遣ってくれたらしい。しかしその対象はオレではなく、結唯にだろう。「ほら行け、はよ行け」と、その目がくどいぐらいに訴えかけてくる。


「ありがとう、母さん。行ってくる」

「上手くやるのよ」

「……? あ、ああ」


 どうも先ほどから母さんの意図がわからない。首を傾げつつも、最低限の筆記用具とノートだけを手に、オレは結唯の家まで向かった。



     ◇     ◇



「あれ? 隆則たかのりさんは?」

「……今日は、たぶん帰ってきませんよ」

「仕事か? 大変だな」


 『隆則さん』というのは結唯の親父さんの名前だ。結唯とは違い、長らく会わないでいたらさすがに少し緊張してしまう。どんな風に挨拶しようかと身構えていたが――今日のところは無用だったらしい。

 勝手知ったる足取りでリビングまで上がり込むと、ふと窓の外に見える庭へと目を向けた。幼い頃、この庭で隆則さんがキャッチボールをして遊んでくれたなと、ふと懐かしい気持ちになる。そんな過去があったからこそ、中学では迷わず野球部に入り、高校に入った今でも続けている。

 オレたちはお互いに片親だった。オレは母親だけ、結唯は父親だけ。なので父親のいないオレにとって、隆則さんは父親のような存在だった。どうせなら母さんとくっついてくれても良いと思っていた時期もある。


 なのに……いつからだったろうか。家族ぐるみの付き合いがなくなったのは……。


「どうかしましたか、こーちゃん?」

「あ、ああ。悪い」


 結構な時間、考えにふけってしまったらしい。飲み物を用意してくれていた結唯が戻ってきた。両手に持ったお盆の上には、なぜかちゃっかり菓子も見える。それもかなりの量がどっさりと。


「結唯、まさかそれが夕飯か?」

「いえいえ。下校途中に軽く食べてきたので平気だと思うのですが、これは予備といいますか」

「……予備ってなんだよ」

「こーちゃんはもうお家で済ませてきましたよね?」

「よくわかったな」

「カレーのとっても良い匂いがしてましたので。そのせいでお腹が空いちゃった気がするのですよ、だからこーちゃんが悪いのですよ」

「……」


 母さんが危惧きぐしていたのは、こういうことか? 確かにこれではオレが悪いかもしれないと納得しそうになる。

 そこまではまあよかったのだが、あろうことか奴は流れるようにテレビまで付けやがった。……まさか結唯の奴、オレが遊びに来たと勘違いしてるのではあるまいか。

 まあ試験目前というわけでもないので、今のところはとがめずにいよう。そっちに夢中になってしまい、全く手につかなくなったら、容赦なく菓子とリモコンを没収するが。


「よっし。じゃ、早速始めるか」

「はい。よろしくおねがいしますっ、せんせー!」


     ◇


 どうやらオレの杞憂きゆうだったようで、結唯はテレビにほとんど見向きもせずに勉強に集中している。ならばなぜ付けたんだと思うが、BGM代わりなのだろうか。


「――ここは……こうして……」

「お~……? ほう、ほう……なるほどぉ」


 結唯はちゃんとわかってるのか怪しい、軽い相槌あいづちを打つ。だがコイツは教えたことならばちゃんと身に付ける、割りかしヤればデキる子だった。


「やっぱり教えるの上手いですよねぇ。私の専属の家庭教師になって欲しいものです」

「オレだってそんな暇じゃねえ」


 そう言うと結唯は不機嫌もあらわに「ぷぅー」と頬を膨らませる。高校生にもなってそんなことすんな、と内心突っ込みを入れる。

 単に子供っぽさを演じようとしているのなら〝あざとい奴〟ぐらいの感想で済むのだが、おそらく素でやってるのだから末恐すえおそろしい。本当にコイツは何も変わらないな。

 ……そんな結唯の姿に安心しているオレもオレだが。


「でも、ま。たまになら構わないぞ」

「ほんとですか? ありがとです! こーちゃんの優しさってば底なし沼級ですねっ、湯水のように利用しても問題なさそーです!」

「よくわかんねえ例え方すんな、茶化すな。撤回するぞ」

「ごめんなさいでした」


 人に教えるというのもまた勉強になることだし、何より良い気分転換になった。お互いのためになる有意義な時間であったことは疑いの余地がない。


 ――それに。

 あまりかんばしくない。独り部屋に閉じこもり、ろくに食事も睡眠もとらず、延々と黙々と机に向き合ってばかりいては――。


 ……? いや、オレ自身はそんなことをした経験などない。

 それなのに――なんだろうか。妙に真に迫る……気がした。


「――っと。こんな時間か」


 ふと時計を見れば、十時近くになってしまっていた。風呂に入る時間なども考慮すれば、少々長居し過ぎたかもしれない。


「ねぇ、こーちゃん」

「ん?」


 呼び掛けられ、結唯の方を向くと――なにやらもじもじと頬を赤らめている。上目遣いでちらちらとオレの顔色を伺っている。

 その表情は仲の良い幼馴染が見せるものではなく……紛れもない、〝女〟の――


「今日……泊まっていきます……?」


「……は?」


 ――コイツは何を言い出してやがるんだ。


「泊りがけで、徹夜で勉強会か? やる気があるのは大いに結構だが、オレたちは明日も学校だろう。別に試験が近いってわけでもないんだ、続きはまた今度な」


 なるべく平然をよそおい、やや早口でもっともらしい言葉を並べて拒否をする。……が、オレの心臓は過去まれに見るほどの早鐘はやがねを打っていた。


「……そ、そですよね。はい……わかり、ました……」


 酷く悲し気な結唯の反応にも、気遣える余裕が微塵みじんたりとも無い。


 コイツ――久々に会えたからって、いきなりに及ぼうとする奴だったのか……?


 いや、オレの勘違いかもしれない。この上なく恥ずかしい奴かもしれない。だがしかし、歩いて五秒の家にわざわざ泊まる必要性が他に思い当たらないのだ。

 結唯は一体どういうつもりで言ったんだ。脳細胞を総動員させるが、残念ながらオレは〝未経験〟だ。故にそういう方面にはうといため、酷く錯乱してしまう。

 くそっ、ダメだ、意識をするな。今は何も考えるな、この場は逃げろ、ただそれだけに全力で集中しろ――必死で自分にそのように言い聞かせながら、広げていたノートを閉じ、筆記用具を片付ける。空になったコップや、菓子のゴミはここでいいか? などと聞きながら、可能な限り無心で身体を動かした。


 気づけばオレは、玄関へ立てていた。

 どうやら人生最大の危機は無事に去ってくれそうだと、ほっと胸を撫で下ろす。


「じゃ、また明日な」

「はい。またです」


 未だにやや元気がないように見える結唯の様子に、危うくまたあらぬ発想に及びかけるが――内心かぶりをめちゃくちゃに振り、かろうじて抑え込んだ。

 生じてしまっている罪悪感からか、お詫びにとこんな提案が口から零れる。


「明日も途中まで一緒に登校するか? 昔みたいに」

「……はいっ!」


 たったそれだけで、打って変わった明るい笑顔が咲いた。どうやら大変お気に召して頂けたようだ。


「あっ、じゃー起こしに行きますね!」

「バカ。そこまですんな」

「ふぁーい……」


 今度はしょんぼりと項垂うなだれてしまう。感情の変化が慌ただしい奴だと苦笑するが、このぐらいの結唯の反応ならばさほど珍しくもない。オレは慣れた手つきでその頭を撫でる。


「む、むぅっ。またそうやって子供扱いするぅ……」


 不満げに口をとがらせてはいるが、その表情は明らかに嬉しそうだ。なんともちょろく、なんとも愛らしい。胸にほっこりと温かいものを感じる。


「今度こそ、じゃあな。おやすみ」

「んっ、おやすみなさいです。ばいばい、こーちゃん」



     ◇     ◇



「ただいま」

「あら、早かったわね」

「早い……? 今何時だと思ってるんだよ、母さん。十時過ぎだぞ」


 他の家の一般的な門限が何時だかは知らないが、『早い』と称する時間帯ではないはずだ。だったらいつまでかかると思ってたんだという疑問を抱えるが、口に出さずとも母さんがその答えをくれた。


「てっきりになるかと思ってたから」

「……は?」


 頓狂とんきょうな声が出た。なんだか結唯の家でも似たような反応をした気がする。


「だってアンタたち、もう高校生でしょ? 昔っから良い雰囲気ではあったんだし、そろそろがあっても良い頃合いでしょう。むしろ遅いぐらいじゃない?」

「いっ、いやいやいや……何言ってんだ母さん、結唯は妹みたいなもんで……」

「アンタはともかく、結唯ちゃんの方は気があると思ってたけどなぁ?」

「……」


 母さんもそう思ってたなら……オレの勘違いではなかったのかもしれない。

 『今日……泊まっていきます……?』――そう言った時の結唯の表情が浮かんでしまう。顔が熱を持ち始めてしまう。

 視線を感じてはっと我に返れば、母さんがこの上なく楽しそうにニヤニヤしていた。


「ほーう? 何か思い当たる節があったみたいねぇ。よっし今からでも遅くないわ、さぁ結唯ちゃん家へ引き返すのよ!」

「ばっ……、だ、だから何言ってんだよ!? ふ、風呂はいってくるからな!」


 オレは無様にも逃げ出した。


     ◇


「……はあ」


 湯船に浸かると、溜息が零れる。割と自然な現象だと思うが、今のそれはかなり重く深いものだった。

 『今日……泊まっていきます……?』――再び結唯の顔が浮かんでしまう。声が脳内でリピートされてしまう。すっかり目に、記憶に焼き付いてしまっていた。

 その台詞は『彼女ができたら言われてみたいこと』の上位に確実に食い込む台詞だ。あろうことか結唯に言われてしまうとは想定の範囲外で、不意打ちが過ぎた。

 それも――あんなにも魅力的な表情で、声色で。

 まるで別人にしか見えなかった。今思い返しても疑ってしまう。結唯の奴、いつからあんなに大人っぽい……つやっぽい顔ができるようになったんだ? このたったの半年間で、そこまでアイツを変えたものとはなんなんだ?

 オレのあずかり知らない高校生活で何があったのだろう。恋愛か? 交際か? ……それともまさか、済ませやがったのか?


 ――『初体験』を。


 妹のように思ってたはずの結唯に、先を越されてしまったのか? 大人の階段、というものを登ってしまったのか。誰とヤったのか知らんが、もしやその味を占めて――?


 ――あの時、泊まると頷いていれば……のかもしれない。……〝卒業〟できたのかもしれない。

 そう思い至ってしまえば自ずと頭にちらついてしまう。過去に洋画で見てしまった濡れ場の女性が、よく見慣れた顔に変換される。よく聞きなれた声になって再生される。

 結唯と……が、妄想により生み出されてしまう。


 そう長く湯に浸かっていたつもりはない。感じる火照りは風呂によるものでは断じてない。

 唐突に立ち上がり、湯船から出る。そして頭から冷水のシャワーを浴びた。

 それらは立ちくらみや心筋しんきん梗塞こうそくの恐れのある危険な行為だが、今は構ってられない。強引に思考のリセットをしたかった。そうでもしないと頭がどうにかなってしまいそうだった。

 そこに更に追い打ちをかけるように、両頬を思いっきり引っぱたく。我ながら素晴らしい音が響き渡った。……しかしどれも効き目が薄かったようで、未だに先ほどの映像が頭をよぎってしまう。がしっかり反応してしまっている。


「……今日、寝られるか……これ」


 誠に残念なことに、その予感が見事に的中してしまった。しばらく悶々もんもんとしてしまい、なかなか寝付けなかった。

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