悪夢の終わり

「わたしは、わたしなの」

 何を言っているんだ、彼女は。返す言葉も見つからないまま立ち尽くしていると、彼女は自嘲げに口角を引き上げた。

「ちょっと待ってね」

 妖艶な笑みを浮かべながら、彼女は自分の髪を梳くと、何やら編み込み始めた。徐々に形成されていくそれに、僕は既視感があった。


「これでも分からない?」

 目が眩んだ。頬を叩き、目を開くと一階にいた。蝉時雨は止み受付のおばさんももういない。恐る恐る彼女の顔を見る。

「先輩?」

 カフェオレをこぼしてしまったかのような髪色、恐ろしいほど端整な編み込み、そして顔立ちも、どこか大人びて見える。

「そういえば、先輩の妹だって……」

 いつからか、そんなことも忘れてしまっていた。

「そう、だけどわたしは妹じゃない。君の先輩」

「……どういうことですか」

 先輩は彼女だけど今は先輩だと言うことか? どう考えても分かるはずがない。


「やっぱり信じられないよね、こんなこと」

 先輩は難しそうな顔で頬をかく。

 小さな天守閣は、ここからでは藤棚が邪魔で見えない。

「わたしもね、実はよく分からなかったんだ。なんで私がこの世界にいるのか。あの時だってそう、綺麗な庭園で君に出会った時も」


 そういえば、そんなことがあった。なんで忘れてしまっていたのだろう。

 先輩はゆっくりと目を閉じ、話を続けた。

「事故があったあの始業式の日から、わたしは心を失くした。何も考えられないの、明日のこともご飯のことも、友達のことも君のことも。ずっと何もない壁を見ているような感じだった」

 誰もいない和室で、僕達は向かい合って座っていた。外を見ると鬱蒼と生える木々の中、黒い瓦屋根がちらりと顔を見せている。


「だけどね、いつの間にかまた学校に行ってたの。でもそれはわたしじゃなかった。色んなことに驚いたわ。クラスメイトは誰一人知らなかったけど知り合いみたいだったし、わたしの髪色も性格も違った。そして一つ下の学年の子達だと分かった。この状況にも慣れてきた頃、君のことを思い出したの。そして君の姿を見かけて、追いかけてたってわけ」

 それが、あの美少女に会った理由。

「それじゃあなんであの時、妹だなんて言ったんですか?」

「一度はちゃんと声かけたんだよ? わたしだって分かるようにペットボトルの水あげたんだけど、だめだった。君の後ろにいて、名前を聞いたらどんどん君のことを忘れていっちゃったの。そしてその日、わたしはわたしじゃなくなった。何かを失ったのが怖くて、新聞の小さなコラムに投稿して恐怖心を擦り付けたの。それでも全然気が晴れなかったわ。そして、数日もすれば私の記憶は完全に無くなった」

 砂利で靴底をざりざり削りながら話す先輩は、とても不満そうだった。

 広場の真ん中にあるからくり時計は、止まっている。


「先輩は、それをいつ気づいたんですか?」

「それはね……実はあの庭園で会った後、もう一度わたしは君に会ったの」

「え、いつですか。全然分からなかった」

「帰りの新幹線。隣で君が寝てるからドキドキしちゃったなあ。あ、寝顔撮らせてもらったよ」

 くすくすと笑う先輩から目を逸らし、腕で顔を隠す。

「何恥ずかしいことしてるんですか、もう」

「ふふ、でもその時分かったんだよ。写真フォルダ開いたら、今まで何したのか全部」

 あの涙は、それで……。

「ねえ、それよりここ、覚えてる?」

「もちろん覚えてますよ。よく先輩と通って、ここで先輩の妹を名乗る先輩に会って……先輩が、事故で亡くなって」

 最後の一言が、自分の胸を締め付けた。赤信号の紳士が、無言で僕を見下ろす。

「え待って待って、わたし死んでないよ?」

 心底驚いた表情の美少女が目をぱちくりとさせている。

「二学期の始業式、君は私を庇ってくれたでしょう? その時わたしはちゃんと助かったの」

 言葉を失った。

「でも、あの日女子高生が一人亡くなったって……」

「それは……わたしの妹。わたし達のすぐ後ろにいたみたいで、彼女も巻き込まれた。君は長いこと意識無かったもんね、知らなくても不思議ではないかも。わたしもずっと一人で引き篭もってたし」

 何も、知らなかった。

「というか先輩、妹さんいたんですね」

 その言葉に彼女は目を瞠る。あれ、聞いたことあったかな。

「そっか……あの子はもう……これでいいのか」

 一人で何かを呟くと、夏の日差しのように眩しい笑顔で声を上げた。


「早く目を覚ましてね!」


 そして先輩は、手を振りどこかへ去ってしまった。

 どういう意味だ? 目を覚ます? というかここはどこだ? なぜ交差点にいるんだ? さっきまで天守閣にいたはずだ。


 ミンミンと、けたたましい音が頭に響く。

 目を開くと、そこは交差点でもからくり時計の前でも無かった。天守閣の最上階、そこの階段に腰を下ろしていた。

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