楽しかったです

 約束の金曜日、午前六時半。僕は連発する欠伸を噛み殺し、駅前のベンチで彼女を待っていた。しかしながら、僕が指示されたのはこれくらいで、どこに行くかとか、何を持って行くかとかは一切教えられていない。某わがままお嬢様曰く、『秘密にしておいた方がワクワクするでしょ!』だそうだ。全く迷惑なことだが、少しばかりは高揚感を感じている。


「お待たせ」

 凛然とした声は、彼女からのものだ。

 目をやると、白ワンピースを纏った黒髪の美少女がはにかみながら立っていた。

「似合う、かな」

 似合わないわけがなかった。口を開かなければ学級長にも並ぶ清楚な彼女だ。

「うん、とても」

「じゃあ、行きましょ」

 ふわりとワンピースを翻し、彼女は駅に向かって歩く。慌てて追ったが、隣を歩くのは億劫だった。

「なんでずっと後ろにいるの」

「気が後れれば、身も後れるんだよ」

「どういうこと?」

「いや、特に意味は無い」

 自分でもよく分からないことを言ったと自覚している。どうも平然としていられない。


「さあ乗るわよ」

 僕の迷言なんて気にも留めず、彼女は先へ先へと歩いていく。

 切符を買えば行き先の目処がつきそうだったが、ICカードですんなり入ってしまった。

「ねえ、そろそろどこ行くか教えて欲しいんだけど」

 早朝だからだろう、スムーズに乗れた電車の中で、一番の疑問を訊いた。

「まだ教えない。でもそうね、新幹線の中で教えることにするわ」

 まだだめなのか……。

「……新幹線?」

「知らないの? 日本で最も速い鉄道で、北は北海道から……」

「いや、そういうことじゃなくて……乗るの?」

「ええ乗るわ」

「小旅行だって言ってたじゃないか」

「そうね。日帰りで国内だから、小旅行。間違ってるかしら」

 彼女は不思議そうに首を傾げる。冗談では無いようだ。小旅行というのは県内だったり遠くても隣の県くらいじゃないのか?

「ああ、そういえば君の家もなかなかの豪邸だったね」

「君の家もってどういうこと?」

「ほら、君のクラスの学級長。一回行ったことがあるんだけど、圧巻だったよ」

 目の前の美少女は、行ったことあるんだ、そう窓に向かって呟いていた。

「ていうか、あんた私の家来たことあったの?」

 なぜか感傷的になっていると思えば、目を丸くして訊いてきた。

「何回かあるよ。でも君はいつもいなかったと思う」

「ああ、そうだったの。部活だったのかしら。残念、だわ」

 窓の外には浅緑に染まる稲が流れている。まだ黄金色には早いようだ。

 彼女は可愛らしい深紅のポシェットからハンカチを取り出して、額に当てた。

「暑い? カーテン閉めるか」

 しかしそれは僕の思い違いで、少しひんやりとした手で制止された。

 がたごと電車が揺れる中、車内アナウンスだけが響いた。もうすぐ我が県の誇る、大きなテーマパークの無い日本三大都市の一つに着くそうだ。

 すっかり高層ビルが立ち並ぶ車窓を、僕は見る気にならなかった。


 新幹線に乗ると、大体の目星はついてきた。この新幹線は新大阪行き、そして日帰りということからは中国地方以西に乗り継ぎは無いだろう。そして新大阪と言えば東京に並ぶテーマパークがある。しかも隣で鼻歌に興じている美少女だって、見た目は清楚でもこのように結構可愛いところがあるのだ。まあそれも、彼女に見るなと釘を刺されて渡された切符を見れば分かるのだけれど。

「もうそろそろ教えてくれないか? 行き先」

「そうね、じゃあ予想は?」

 彼女はにやりと口角を上げる。こちらも勝算は充分にあるのだ。

「大きな地球儀がある所」

「あはははっ! 残念不正解!」

 高らかに笑う姿が可愛かったから、気分は悪くなかった。

「そこも考えてはいたんだけどね」

「考えてたんならなんでそんなに笑うの」

「いやあ、息が合うなあって」

「……こんな簡単なことで息が合うことになるなら、僕と君は熟年夫婦だね」

 それでいいんじゃない? と笑顔で言われては調子が狂う。

「それで、結局どこへ?」

「そうだった、そうだった。忘れるところだったよ」

 目尻に溜まった涙を指で拭い、ポシェットからスマホを取り出す。

「ここ行きたいの」


 僕らが降りたのは、新大阪ではなかった。駅構内で朝ごはんと称してにしんそばに舌鼓を打ち、独特な構造をしたこの駅をろくに見るまもなく、ろうそく型のタワーを横目に地下へ降りた。地下鉄の中、僕は微睡まどろみに負けて眠った。終着駅で彼女に叩き起こされ、地上に上がる。左手には鬱蒼とした森の奥に、幾何学的な建物が見える。ここの駅名にもなっている国立の会館だろう。

「このバスね」

 ベージュ色に包まれた、目に優しいデザインのバスがロータリーに入ってきた。これもまた終点まで乗るらしい。

 じんわりと身体中から汗が出てきた。やはり盆地は蒸し暑い。

「君はなんでそのお寺に行きたいの?」

 彼女が選んだ行き先は山奥のお寺だった。名前から、三千ものお寺がある所かと驚愕していたが、もちろんそれは間違いのようだ。スマホで調べたところ、とても風情のある名所らしい。行きたくない、というわけでは全くないのだが、高校生が日帰りで行くには渋いなと、少しばかり思った。

「なんとなくよ。何か惹かれるものがあったの」

 なんとなくで片付けてしまってはいけない気はする。彼女は艶やかな前髪をくるりと指に巻き付けた。


 午前十時過ぎ。峠道に揺さぶられ、やっとの思いでバスを降りると、先ほどの駅前よりかは幾分涼しくなった気がした。

「よし、登るわよ」

 ここから約一キロメートル。距離としては短いが、部活を三ヶ月も前に引退した身にはつらそうだ。しかもずっと登り坂。意気揚々と歩き出した吹奏楽部員を名乗る彼女は大丈夫なのだろか。

 しかしながら、僕の心配は無用だった。参道は家々に挟まれに影になっているし、横には小川が流れ、数件並ぶ屋台では冷やしきゅうりを売っていた。僕らはそれを二本買い、歩きながら物を食べるのはなぜいけないのかというのを食べ終わるまで話した。人の少ない静かな小路。暑くもなければ疲れも感じない。


 歩き始めてどのくらい経ったのだろう、まるで城門かのような風格のある御殿門に辿り着いた。参道とは打って変わって、門の向かいにあるお食事処を含めて、たくさんの人で賑わっていた。

「やっと着いたわね!」

 なんとも晴れやかな笑顔の彼女、一瞬憧れのあの人に見えた。

「写真撮りましょ! 写真!」

 そう言って人の間を縫うように、お寺の名前が書いてある所まで連れて行かれた。石段で引っ張るのはやめて欲しい、こけたら痛い。

「はい、にっこり笑って!」

 彼女が高々と掲げるスマホに目をやり、少し笑ってみせた。

「これじゃあ、ここに来た! って感じがしないわね」

 構図に文句を言っている彼女をよそに、周りを少し見渡すと、行き交う人がこちらをちらちらと見ていた。早くどかないかな、とかそんな感じだと思っていたが、耳をそばだてると「あの女の子可愛い」だとか「カップルなのかな」だとか言われ、挙句の果てに、二人組のおばあさんから「画になるねえ」と言って眺められているのが分かった。

 見世物になるのは嫌だ、早々に中に入ろう、と提案しようとしたところ、彼女はぴょこぴょこと石段を下り、先ほどのおばあさん達に話しかけていた。彼女が僕を指さし、おばあさん達がにっこりと笑顔で頷いた。嫌な予感がする。

「下からおばあちゃんが撮ってくれるって!」

 無邪気なお嬢様は石段を駆け上り、スマホを持ったおばあさんに笑ってみせる。

「赤い丸を押せばいいのよねー?」

「そうですー!」

「ほら、隣の子も笑って笑って」

 この世の万物を包み込まんばかりの優しい笑み、応えるしかないだろう。

「よし、撮るわよー。はい、チーズ」

 彼女とのツーショット。カシャカシャ、というシャター音が少し心地よかった。

 彼女はまた階段を下り、苦笑いで謝っているおばあさんを諭し、ぺこりと頭を下げた。おばあさんは今度はにっこりと笑い、僕にも手を振ってくれた。彼女に倣って会釈をする。彼女も、まるでおばあさんの孫かのように笑い、二人と別れた。

「いいおばあちゃん達だったなあ」

 容姿は清楚そのもののような感じだが、中身はそれとは違う。それでも僕は、いやそれだから僕は、彼女のことが……。

 そこまで思い浮かんだところで、唾を飲み込んだ。心臓が早鐘を鳴らした。

「そ、そういえばさっき、おばあさんは何を謝ってたの?」

 額に浮かんだ汗を拭き取りながら訊いた。

「あー、なんかね、間違えて連写しちゃったからって。別にいいのにね」

 気楽そうに歩く彼女を見てほっとする。平常心平常心。


 人の流れに促されるまま殿中に入ると、おみくじを見つけた。何やらここがおみくじのルーツのようだ。引いてみると、僕と彼女、二人とも吉だった。

「ふふ、一緒だね。なんて書いてあるかよく分かんないけど」

 確かにこのおみくじ、漢文や古文で書かれている。なるほど古典の授業はこのためにあったのか。

 お互い数分かかって読み終わった。僕はまずまず、といったところだった。待ち人はまだ現れないけど、病気はすぐに治る……らしい。その後の文は難しくて読み取れなかった。

「はあ、『生死は十に八九死すべし』って何よ」

「それほんとに吉なの?」

 脱力した手には、確かに吉と書かれたおみくじがあった。

「ほ、ほらあそこ、お茶飲めるみたいだよ。行こう」

 行く、と呟いて僕の後をついてきた。落ち込む彼女は初めてだったが、案外可愛かった。


 言葉を飲むほどの美しい庭園を眺めながら抹茶を味わった僕らは、順路に従って散策できる庭園に出た。様々な種類の樹木が葉を茂らせ、地面には整然と若々しい苔が敷き詰められる中、小路の先にぽつんと小さな御堂が建っていた。

「ここ、極楽浄土ってこと?」

「それを垣間見てるって感じじゃないのかな。あとで調べてみるよ」

 思いの外、中は広かったことにも驚いたが、真ん中に如来像、左右に菩薩像の阿弥陀三尊像を見いてると、何かに心を濯がれたような気持ちになった。

 彼女もかなり感心した面持ちをしていたが、出る際に階段で躓き、不吉だなんだとぼやいていた。

 少し歩くと、視界が開けた。見上げると首が痛くなるような背の高い木々が文字通り林立している。

「なんだろうあれ」

 浅緑のカーペットの上に、小さな石像がある。

 小走りで向かった彼女を追って見ると、それは二人並んだお地蔵さまだった。しゃがみこんでよく見てみる。なんとも奥ゆかしい笑顔。しかしこんな顔をどこかで見た気がする。まるで世界中のありとあらゆるものを受け入れてくれるような……。

「「さっきのおばあさん達だ!」」

 僕と彼女、目を丸くして顔を合わせる。不思議と笑いがこみ上げてきて、二人で笑った。


 楽しい。


 一度笑いが収まったところで、彼女はすくっと立ち上がり、弾けんばかりの笑顔を見せた。心音が高まり、口角が自然に持ち上がる。

 あはははっと声を上げながら苔を踏み荒らすのではないかと不安になるほど辺りを駆け回った。一歩、また一歩進む度に、長い黒髪がウェーブを描き、純白のワンピースをひらひらと舞う。

 このまま背景に溶け込んでしまいそうだ。

「ねえ、上見て、上」

 少し離れた所で天を仰ぐ彼女に言われるがまま、僕は空を見上げる。

 壮観だった。今まで見てきた何よりも。天を支えるようにそびえ立つ高木。存分に茂る葉の隙間から、眩い太陽の光が射し込む。葉という葉はきらめき、まるで天女の羽衣を被せたようだった。

 世界中探せばたくさんこのような光景はあるのかもしれない……いやそれは間違いだ。この情景はここだから見える。今だから見える。彼女といるから見えるのだ。


 風が吹いた。木々をなびかせ、葉が騒ぐ。ちらつく真夏の太陽が、僕の目を眩ませた。そして、一粒の熱い涙が僕の頬を伝う。

 彼女を見ると、スマホで何枚も写真を撮り、飛び跳ねたりくるくる回ったりしていた。やっぱり子供みたいだ。それでも、安心する。あの人とは違うけど。


 また風が吹いた。今度は強い風が。

 僕のは目を疑った。

 彼女のいた場所に、カフェオレ色の髪をした女性が立っている。

「先輩……?」

 声をかけると、その女性はくるりと振り返り、僕を見つめる。間違いない、先輩だ。先輩は僕に気づくと、目を大きく開き、手で口元を覆った。音にもならないような悲鳴を上げ、こちらに走り寄ってくる。

「また、会えたね」

 大粒の涙をぼろぽろと流しながら僕の肩に震える手を置く。

 うれしいです……心の底から。喉の奥にこみ上げてくる塊が、一音一音をかき消す。

 こんな姿、誰にも見られたくないと思ったが、周りを見ると、偶然にも僕と先輩しかいなかった。

「もう……どこにも行かないでください」

 先輩は笑いながら泣いていた。涙でぼやけながらも、彼女の双眸は僕をしっかりと捉えていた。

「うん、行かない。君のそばにいるよ」

 無邪気な笑顔でそう言うと、視界が全て真っ白に光った。眩しい。

「……え」

 恐る恐る目を開けると、そこには彼女が眉を八の字にして何やら叫んでいた。

「どう、したの?」

「ああ……良かった目が覚めたのね!」

 なんだ、何が起こっている。なんで彼女がいる。なんで彼女の太ももに頭を載せている。なんで。今さっきまで僕は、あの人と一緒にいたはずだ。

 周りには、数名の人が僕らを囲んでいる。

「……何があったの」

「さっき、あんたが空を見上げてると思ったら、ふらふらってなってそのまま……」

「ほんとに?」

「本当に決まってるでしょう! 私がどれだけ心配したか分かってるの!?」

「ごめん……」

 バカ、と漏らした彼女は僕を起こし、手の甲で力強く目元をこすった。すくりと立ち上がり、周りに立つ一人一人に頭を下げた。

 ざりざりと音を立てて、袈裟を着たお坊さんがペットボトルの水を持って走ってきた。なんとも不釣り合いな姿に、胸が温かくなる。彼女が早口で、事を説明してくれた。水はもういらないと言ったのだが、優しい手つきで僕に持たせてくれた。周りの人は労いの言葉をかけてくれた。

 僕は、人に迷惑をかけたのだと分かった。

 すみませんでした。生まれて初めて心から人に謝るというのはどういうものなのかが分かった。


 騒動は収まり、僕は彼女にもう一度謝った。

「そんなに謝らないでほしいんだけど、じゃあ一つだけ願いを叶えてもらおうかしら」

 徒に笑う彼女、なんでもしよう。

「……させて」

「え?」

「あと半日、ずっと甘えさせて!」

 開いた口が塞がらなかった。鏡を見なくても分かる、いつぞやの彼女と同じく腑抜けた顔をしているだろう。

「なによ。ちょっと恥ずかしいのよこれ」

 紅く染まる頬をポシェットで隠す。その姿が、とても愛おしかった。

「もちろんいいですよ、お嬢様」

 おどけてみせると、彼女は吹き出して笑った。それにつられて僕も笑う。

 二人の笑い声は、空の彼方まで届いただろう。

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