おそらく最初に彼が現れたのは月曜日に行われたテスト中だ。てっきり寝ぼけて書いたと思っていたあの回答は彼が書いたものなのだろう。そして次は火曜日を飛ばして水曜日、昨日。空澄奏に廊下で声をかけられた時である。そして今日、登校中に彼は現れた。


「なぜ彼が現れたのか、心当たりはあるかしら」

 朝比奈剣にそう聞かれて僕は思った。もしかしたら本当に彼は、長年閉じ込められていたこの体の主なのかもしれない。


「そもそも、自分の体が本当に自分のものかなんて、誰もわからないんじゃないかしら」

 

彼女はしばらくしてからそう言った。

「もしかしたら私だって、人格を閉じ込めているかもしれないでしょ」


 大事なのは自分がどうしたいかであると朝比奈剣は言う。なるほどと僕は納得したが、そこで朝比奈剣に確かめたいことができた。朝比奈剣が、一体どのようにして僕に助力しようとしてくれているのかだ。


「彼を消すのよ」

 あたりまえだと言わんばかりに彼女は言うが、僕としては、彼に居なくなってほしいとは思っていない。これまでのことを踏まえると、彼の方が僕よりも優れているのだから。テストで満点を取ることは僕にはできなかっただろうし、字も比べ物にならないほどきれいである。そして何より、彼の方が彼女、空澄奏を楽しませることができるだろう。

「じゃああなたは消えてもいいっていうの?」

 朝比奈剣にすごまれた。僕も消えたいとは思っていないけれど――その時、彼の現れる時間が、徐々に長くなっていることに気が付いた。もしかしたらこのまま手を打たなければ、僕は消えてしまうのかもしれない。


「私があなたを消させはしない」

 不意に朝比奈剣が言ったその言葉に、胸を打たれる。


 彼女いわく人格が新たに現れる原因として、強い精神的なストレスが考えられるそうだ。そしてそれを解消すれば解決するらしい。そのストレスが何かを考えて一分ほど経ち、朝比奈剣が口を開く。

「あなた振られたでしょ」

 僕は驚いて彼女を見る。あの事件を、なぜか朝比奈剣は知っているようだった。もちろん僕は誰にも言っていないし、まさか空澄さんがそんなことをするはずもない。

「たまたま見ただけ」


 きっと、彼が現れた原因はあの失恋だ。それ以外心当たりがない。とすれば僕は、成就しなかった恋を成就させれば、彼を消すことができるのかもしれない。幸運にも僕が告白したのは空澄さんだったので、理由を説明すれば偽装恋愛が可能だろう。


「それ意味あるのかしら」


 朝比奈剣は言うが、きっと意味はある。本心から来た好意ではないとしても、僕の心の傷は簡単に癒えるはずだ。それもそうだ、失恋一つでここまで大事にできるのだから、たとえ偽装だったとしても問題はない、多分。


「やめておきなさい、今のあなたにとって、空澄奏は危険人物だから」


 朝比奈剣の口から衝撃的な発言がされた。空澄奏が危険人物、という言葉に動揺する。

「彼女が彼と話しているのを見たけれど、怪しかった」

 空澄奏は信用しないほうがいいと朝比奈剣は言った。


「それに合言葉がある今、なにもしてくれないと思う」

 合言葉――そういえばそんなものもあったと思い出す。確かに合言葉がわからない以上、空澄奏どころか生徒全員が話を聞いてくれないのだ。しかし、僕の目の前には朝比奈剣という頼もしい協力者が居るのだった。

「知ったところで、偽物だとばらすのだから意味ないでしょ」


 恋を成就させる方法がとれないようなので、他の方法を模索するがなかなかいい案が浮かばず時が流れる。

「彼はあなたが振られたとき、つまり否定されたときに現れたのよね」


 そんな時、静寂を破るように朝比奈剣が口を開く。

「じゃあ、逆に肯定してあげればいいと私は思うの」

 僕はなるほどと感心する。すると彼女は僕の前に立ち、僕の両肩をがしりと掴むと、まっすぐに僕の目を見て言ったのだった。


「あなたは勉強ができなくて、生活態度が悪い上に、字も汚いしおまけに体力も無い」

 朝比奈剣は続ける。

「でもそんなあなたが私は好きなの。あんな偽物なんかに負けちゃだめ」

 僕は感動した。


 彼女が言った言葉の余韻に浸りながら、彼女の居なくなった教室で考え事をしていた時、視界の隅でカーテンが揺れる。見ると、なんとカーテンが回転しており、その下には人間の足があった。


「話は聞かせてもらったよ」


 ジャジャーンとばかりに中から出てきたのは空澄奏だった。朝比奈剣の信用してはいけないという言葉を思い出す。彼女は教室のドアまで歩いていくと、振り返り僕を見て言った。


「私から言えることは一つだけ」

「次が最後、ってね」

 そう意味深な台詞を言い放ち教室を去る彼女の顔は、少し笑っているように見えた。


 考え事というのは、なぜ彼がわざわざ目立つようなことをしたのかというものだ。彼が何をせずとも、きっと僕は消えている。それなのに僕に存在を知らせてしまえば、何らかの対策を講じられてしまうのだから、彼にとっての最善は何もしないことなのではないだろうか。


 五分ほど考えていると、突然、周りの景色が変わった。教室の中が明るくなり、僕の周りに人が現れ、そして時計の針が三時を指す。どうやらまた、僕は彼と入れ替わったらしい。話しかけてくる生徒たちを制止させ、今日が何曜日なのかを尋ねる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る