第5話 **Ruuku's memory**

ずいぶん昔の夢を見た。森に棲み、『西の森の獣人』と呼ばれる前のこと。ルゥクはロイド王国の貴族の家に生まれ育った。多くの使用人と優しい両親、上品で穏やかな兄弟に囲まれた、幸せな次男だった。

 状況が変わったのは俺が六歳の時だ。ある朝、俺を起こしに来たメイドが俺の姿を見て目を見開き、悲鳴を上げた。俺はメイドに悲鳴をあげられたことに傷つき、泣きながら食卓に向かったのだが。

 「キャアアアア」

 「に、兄さん……なの?」

 母も弟も俺を見てメイドと同じ反応を示した。さすがに何かがおかしいと思い、鏡の前に行くと、鏡にはふさふさの黒い尻尾と黒い耳をはやした俺が立っていた。何かの間違いだと思って触ってみたが、たしかにそれらはあった。俺は俺に絶望し、混乱し、部屋に引きこもった。

 それから三日間、眠り続けた。不思議とお腹は空かなかった。誰も会いに来なくて、寂しくて、もう死んでしまいたいと願うも、そんな勇気はなかった。

 もう永遠に眠っていたいと願ったころ、父が扉越しに話しかけてきた。

 「レイラ、そんなところに引きこもってないで、出ておいで。誰もお前を怖がらないよ。ほら、いつものように散歩に行こう。今日は少し遠くまで行こうか」

 その声はゆっくりじっくり、でも確かに俺の心に染み込んでいった。今思えばバカなことだと思う。こんな自分を「受け入れる」ひとなどいないはずなのに。でも、このころの俺はまだ純粋で、人の言葉をそのまま受け取るような子供だった。だから言うとおりにした。

 父は俺を見て少しビクッとしたけれど、取り繕っていつもの父の笑顔を見せた。俺は安心して父に抱きついたっけ。

 「これをかぶっておきなさい。お前が人間と形が違うとばれてしまうと、人間たちは排除しようとするからね」

 「はいじょ?」

 「そう、排除。殺そうとするんだ。そうならないために、これをかぶっておきなさい」

 父がくれたのは尻尾すべてが隠れるほど長い。フード付きのコートだった。俺はうれしくて、父のくれたコートを羽織って一回転したりして遊んだ。

 「さあ、散歩に行こう。行ってきます、は?」

 「行ってきます」

 「いってらっしゃい」

 母も、兄も、弟も、笑って俺を見送ってくれた。俺はその時、みんなの笑顔がどこか引き攣っていることにうすうす感づいていたが、「気のせいだ」と自分に言い聞かせて家を出た。

 父は約束通り、少し遠い森に連れて行ってくれた。鳥がさえずり、野生動物たちが恋の相手を探して彷徨う、美しい森だった。

 「パパ、この先行っていい?」

 「ああ、いいよ。パパは疲れたからここで休んでるよ。暗くなる前に戻っておいで」

 「うん!」

 俺が見つけたのは小さな洞窟だ。なにせ俺は子供だったから、いろいろなことに興味深々だったのだ。

 そこから先は予想できるだろう。

 言われた通り暗くなる前に戻ったとき、洞窟の出口は岩で塞がれていた。出口の前には小さな紙が一枚置いてあり、そこには『帰ってくるな』と一言、父の字で書かれていた。この時の俺の絶望と悲しみはルゥクの心を支配した。実の親に捨てられ、裏切られた。これほど心をえぐられることは後にも先にもこれだけだ。

 俺はそれから五日、洞窟で暮らした。暗闇にももう慣れた。空腹は相変わらずだったが、いつしか空腹の感覚はなくなり、冬眠状態に陥った。自分の体はだんだんと人間ではなくなり、狼そのものになっていった。そして五日後、やっと救い出された。軍人が岩をどけてくれたのだ。

 「おーい、レイラくん。大丈夫か?」

 レイラとは俺の元の名前だ。軍人は俺のことを知っていたらしく、衰弱状態だった俺にご飯をくれたうえ、体を丁寧に診てくれた。俺は安心して、油断していた。手枷をされかけたのだ。俺は反射的に飛び起き、軍人たちを威嚇して怯んだ隙に逃げだした。片腕にされた手枷は重く、走りにくかったが、必死で逃げた。右も左も判断がつかず、とりあえず必死で逃げた。その末に着いたのが、ロイド王国の敵国、クレタス王国の森だ。そこはとても静かで、穏やかで、それでいて少し不気味な雰囲気があった。その森をあまり音を立てずに歩いていたら森の中の草原に辿り着いた。そこには隔離されたように一軒のプレハブ小屋が建っていて、そこだけ別世界のように美しかった。木漏れ日が木々に反射して輝き、色とりどりの花が咲き乱れる。一瞬、天国かと思ったほどだ。

 「こんなところにプレハブ小屋……?」

 恐る恐る開けてみるが、誰もいない。というか、それより先にずいぶんと綺麗だった。まるでつい最近まで人が住んでいたか、新築のような綺麗さだ。

 「もう帰る場所もない。しばらくここに住もう」

 疲労のせいか、はたまたショックのせいか、決断は早かった。狼の手では何もできない。仕方がないので猪や鹿を狩って貪り食べた。そして満腹になったら眠りにつく。そんな生活をしばらく続けていた。ラオと出会ったのは俺が十三の時だった。当時、ラオは五歳だった。

 いつものように狩りをしてたらふく食べ、家に戻ったとき、家の前に一人の少年が傷だらけで倒れていた。それがラオだ。狼の口でラオの服を引っ張り家に入れたはいいものの、手当てができずにオロオロしていたらラオが目を覚ました。ラオは狼姿の俺を見てひどく怯えていた。その目は昔、俺が狼になってしまったときに両親に向けられていた恐怖を思い出させた。そのせいか、俺は久しぶりに人間の姿に戻った。ラオは俺の姿が変わったのを見て驚いていたが、そのあとなぜか笑ってくれた。

 「君、名前は?」

 「なまえ?ラオ!」

 ラオは思った以上にしっかりとした子供で、自分の名前、出身場所、なぜここにいるのか、などをしっかりと教えてくれた。

 「なるほど。君はロイド王国の東の森の出身で、人間と生活していたのに妖怪とばれて追われていたんだね?それで、君の正体は九尾の狐、と」

 ラオは可愛らしく頷いた。俺が自己紹介をしようとしたその時、木の影がざわついた。

 「まったく、どこに行ったんだ?」

 軍人らしき人間の声が複数する。俺は人間が嫌いになっていたから、身を縮めて息をひそめていた。

 「あれ?こんなところにプレハブ小屋なんてあったか?」

 まずい。こちらに近づいてくる。俺の体は人間に対して拒否反応を起こすがごとく震えていた。ラオがそれに気づいて笑いかけ、人差し指を口元に当てて囁く。

 「任せて」

 そう言ってラオは家から出て行った。俺は気が気じゃなくてドアに耳を当てて外の声を聴いていた。

 「おや、ここに人が住んでいたのですか。あなた、お名前は?」

 「ルゥクです。軍人さん、ここになにか用事がありましたか?」

 「ルゥク?ああ、あなたが最近行方不明だというルゥクさんでしたか。ルゥクさん、ここは違法建築です。今すぐに出て行っていただけますか?」

 「嫌だと言ったら?」

 「あなたを拘束します」

 「女性でも?」

 「当たり前です。あなたはいい売り物になる」

 それを聞いた瞬間、俺は無意識に飛び出していた。自分でも驚いた。こんな行動的なところがあったなんて知らなかった。

 「俺がルゥクだ!」

 その時、俺は目を疑った。先ほどまで少年だった男の子の姿はなく、そこにいたのはスタイルの良い、思わず目を奪われてしまうほどの女性だった。だが、雰囲気がラオのそれと似ているからすぐにわかる。同じように、ラオも飛び出した俺を見て驚いていた。

 半人半獣。その時の俺はかなり醜い恰好だっただろう。

 『グルルルル』

 のどの奥から溢れ出す唸り声。そこには人間への強い怒りと両親に対する憎しみ、哀しみが含まれていた。軍人たちは俺の唸り声に気圧されたのか、顔を真っ青にして口を噤む。

 「綺麗だ……」

 軍人の一人がつぶやくと同時に、ほかの軍人も血を吐いて死んだ。それが俺の最初の人殺しだった。

 それから俺は住む場所がレクタス王国の西森であること、また人を殺した人狼ということから『西の森の獣人』と呼ばれた。ラオの目の前で人殺しをしてしまった俺をラオは労り、これまで受けてきた傷を治し、一緒に住まないか、と誘ってくれた。俺は行き場所もなく、もう一人になるのも嫌だったからラオと共存生活を始めたのだった。それが「ルゥク」と呼ばれるようになったきっかけだった。つまり、レイラだった俺が自分を「ルゥク」だと名乗ってしまったがために、俺の名がルゥクになってしまったのだ。この名前、嫌いではないけれど。

 とはいえ、今思えば危ない賭けだった。もしラオが軍人どもの手先だったらラオと共存をした時点で殺されるかも知れなかったのだから。そういうことは一切なかったけれど。

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