第8話 原点にして頂点③

「あの、ライル……私……」


 先に口を開いたのはシイナの方だった。ライルとシイナの距離は息がかかる程近い。ライルに向けられたシイナのか細い声が、ライルの頬をくすぐった。ライルはついそれで顔を赤くしてしまう。


「な、何?」


 ライルは思わず、上ずった声を出してしまう。ライルはシイナ相手にこれだけ緊張するとは思いもしなかった。昔だったらこんな事があったとしても、何も思いはしなかっただろう。


 今やシイナはすっかり垢ぬけてしまって、顔を合わせるのも恥ずかしい。当時の事を考えると、こんな成長をするとは思いもしなかった。


 美しい銀髪と眼鼻立ちがはっきりした整った顔。やや小さい身長で、手足は細く、身体の要所には適度に肉が付いている。見れば見る程、過去に共にしていた彼女とは別物に見えてしまう。


 この後、一体どうなってしまうのだろう。ライルが思ったその時に、ぼすりとライルの胸にシイナの頭が沈み込んできた。シイナはそのままライルに身体を預ける様にして身を寄せ、ライルの袖を握る。どうしたどうしたと思っていると、ライルの胸じんわりと広がる様に、熱が染み込んできた。


「……ううっ……うぅ」


 見ればシイナは嗚咽を漏らしながら泣き出していた。ぐりぐりと頭を押し付けて、髪を乱して、まるでライルの胸の中で溺れようとしている様だった。ライルはその様子を見て驚いてしまう。


「ど、どうしたどうした! 落ち着きなって!」


 しかし、シイナはライルの言葉など気にせずに、ライルの胸に顔を押し付ける事を止めなかった。そして絞り出すような声で、こんな事を告げる。


「恐かったよ……寂しかったよ……!」


 シイナが告げる事の詳しいことは良く分からない。どんなつもりでこうなったかは良く分からない。ただ、ライルはそんな事はどうでも良いと思うようになっていた。


「……昔っからシイナは泣き虫だよな」


「うるさい……」


 前から変わらないシイナの様子を見て、ライルは何だか心が落ち着いていた。シイナは人一倍気が弱くて、人一倍甘えん坊だった。小さい頃はよくグズっては、ライルのところへ泣きつきに来たものであった。それはこうして今も変わっていないと思うと、少し安心してしまう。


 シイナも、もしかすればライルと同じ気持ちになっているのかもしれない。昔を思い出して、同じく気を楽にしてもらえればなとライルは考えた。するとシイナは少し気持ちが落ち着いて来たのか、ライルの方へ顔を向けた。


「……ゴメン……私は卑怯者だった。今までライルから逃げて、フィリップの後ろに隠れてた」


「いいさ、ボクだって同じ境遇なら、そうするだろう。それに、そんな事は今更だ」


「ライル……」


 シイナはより強くライルの袖を握り締める。一方でライルは、一番気になっている事をシイナに問い掛ける事にした。


「……ただ、どうしてフィリップと付き合った。ボクがいじめられるようになったからか?」


「ち、違うの……! そんな事はないの……」


「なら、どうして……」


「ライルたちと今まで通りに居られなくなったから」


「……分からない。ボクたちと、今まで通り一緒に居ればいいじゃないか」


「私だって、私だってそうしたかった! それができたらこんな事にはならなかった! けど……人って、圧倒的な戦力差を見せつけられたとき、諦めて逃げ出してしまうものなの……」


 次々と吐き出されるシイナの言葉を聞いても、ライルには何のことか分かりかねた。そしてその気持ちが届かないでいるシイナは余計に苦しそうでいた。そしてシイナの言葉は次第に熱を帯びるようになる。


「ライルはいつも優しいよね……誰かが困った時に駆け付けてくれる」


「優しいかどうかは分からない。困っている誰かを見過ごせるほど器用に生きていないだけだ」


 ライルはぶっきらぼうに答えた。しかしそれは、嬉しかった事を隠す意図もあった。


「それがライルのいいところなんだよ。誰にでも優しくしてくれるところ。一方で私はライルに何もできなかった」


「できなくてもいいさ。その人が安心できるようになったなら、ボクはそれでいい」


「……でも、それができている人の方が、そばに居たいって気持ちが強くなるものだと思う」


「でも、できない事は仕方のない事だろう。そばに居たいのは、みんな同じだ」


「でもっ! アリスちゃんも、セリアちゃんも、メイスさんも……あんなにかわいくて、才能があって、ライルに想いを返せている。だからあれだけ今も寄り添っていられる。泣きわめくだけの私は何もできてなくて……何もしていないだけライルとの距離は離れてしまって……!」


「そんな事ない。今こうして一緒に話せているじゃないか。そもそも、シイナだっていい奴だし、劣るとかはないさ。距離も離れただなんて感じたこともなかった」


 ライルの言葉を聞いている間、シイナは俯いて、黙ったままで、身体は震えていた。何故か悔しそうな表情をしていた。しかしライルはそれを気に留めることなどなく、言葉を続ける。


「大体、フィリップと付き合う理由と一緒に居られなくなったことの何の関係が……」


 その言葉は途中で遮られた。


 なぜそうなったのか、初めのうちは理解することもできなかった。ただ、自身の唇に感情が押し当てられていることに気が付いて、それがライルの言葉を奪ったのだと知った。


 衝撃だった。ライルは思わず息を止めてしまう。そして、強引に押し付けられたそれは、次の刹那には感覚を残したまま離れていた。


「こういうことだよ……ばか」


 そう告げて、シイナは涙を拭った。その言葉の後に、ライルは言葉を返す勇気はなかった。その理解に至っていなかった自分を、ただ恥じた。


「知ってる。私が一方的に今まで通りで居たくなくなってしまっただけだって……そして、私がライルをどう思ったって、私は皆に敵わないことだって……!」


 ライルは皆に優劣を付ける気はなかった。ただ、皆と一緒に居たいと言った、漠然とした想いで生きていた。しかし、それが成り立つのは遠い昔の話で、今となってはできない事だとライルは今更ながら知る。シイナは、ボクたちが今のままでいられなくなったその理由ワケを教えてくれたような気がした。


「……だから私は声を掛けてきたフィリップと一緒になってしまった。ライルから逃げるようになった」


 シイナは一度息を呑んで、再び口を開く。


「けれど、その結果、私のせいでライルがフィリップに目を付けられるようになってしまったの」


「それは、どういう事だ……?」


 シイナはライルから目をチラチラと向けたり外したりしていた。ずいぶん心苦しそうにしている。


 するとシイナは息を飲み込んでから、腹の中でつかえていたものを吐瀉としゃするように、言葉が流れ出てきた。


「……私はね、フィリップと付き合ってなお、ライル達といたことを忘れられなかった……それを見かねたフィリップはライルに目を付けるようになった。私が中途半端だからこんな事になってしまった……!」


 それは聞いていて、心が痛かった。掛ける言葉も見つからなかった。喉の奥が乾いて、胸が焼けるような気持ちがした。


「私は最低なのっ……!」


 クギを刺すようなその言葉で、ライルは完全に沈黙してしまった。シイナがいくらライルによがっても、指一本動かせずにいた。誰が悪いとかなどは関係なく、どうしてシイナをここまで知らず知らずのうちに傷つけてしまったのだろうと、ひどく自身を嫌悪した。


「私ね……ライルに憧れてあの部活に入ったんだ」


 また、話が変わった。このままシイナのペースに飲まれるのはまずいと思いながらも、シイナから溢れる言葉にライルは飲み込まれていく。


「なのにさ、私……弱くて……何もできなくて、言われるがままで……!」


 自分が思っていた以上に、自分は自分の世界の中で生きていたと、ライルは考える。そして誰かに影響を与え、迷惑をかけ続けていたと知った。


 だからなのか、誰かへ何かをしなければならないと思う正義感からか、自分の弱さからなのか、また、こんな都合のいい言葉をライルは吐いてしまう。


「……ボクに……できることはあるだろうか?」


 すると、ライルの言葉でシイナの勢いはぴたりと止んだ。そして顔を上げると、真っ直ぐ、痛いほどの視線をライルへ向ける。


 そして、シイナはライルが考えるそれ以上の事を考えていた。


「私を……彼女にして……」


「え……?」


 ライルは思わず固まってしまった。シイナが望むことは、今までつのらせた自身の願いを叶える事だった。


「問題無いよね? ライルは私も大切だって思っているんでしょ?」


 期待するシイナの瞳。しかし、その奥には輝きが見えなかった。昔に、ライルへ向けていた瞳の純粋さは失われ、一方的に何かを得ようとする粘っこい想いが堆積している。


 だからこそ、この言葉を真剣に受け止めなければならない。意を決したライルはぐっと腹に力を入れる。そしてシイナの両肩を掴み、


「確かに大切だけれども……それだけは……ダメだ……」


 苦しそうにだが、ライルは言葉を返したのであった。この言葉を返した理由は、ライルの頭の中にある約束の言葉が響いたからだった。


『ライルは居なくならないでね』


 それはライルのいつも側にいてくれる、アリスの言葉だった。その気持ちに嘘を吐きながら、シイナの気持ちに答えることなど、どうしてもライルにはできなかった。


「どうして……」


 かすれる声でシイナは言葉を口にした。


 すると、その言葉の後、シイナの瞳が一気に濁った気がした。そこには生気が感じられなかった。次に、つうと無機質に涙が流れ出した。無表情のままで行われたその生理現象は、何故か病的に感じられた。


 そして、不器用なライルは、これ以上に不誠実でありたくないと思い、本当の想いをシイナに告げてしまう。


「これだけの事をしておいて、ボクにはそんな資格は無いよ……それにボクは……好きな人がいる……かもしれない」


 その煮え切らないライルの台詞を聞いて、シイナは口をパクパクさせた。声にならない声を出して、瞳からは涙をボロボロと流し始めた。


「だからシイナ……申し訳ないけれど……」


「――さっき、何でもするって言ったよね!」


 シイナは突然、ライルの両肩を掴んだ。そしてそのまま強く壁に押し付けると、もの凄い剣幕でライルに詰め寄る。


「……私さ、ライルの為に何だってやってきたよ? フィリップの言いなりになって、擬似戦闘装置シミュレータをライルが使う事を何度も見逃してもらったんだよ? その為に、何だってしたのよッ……!」


 するとシイナは、今度はライルを抱き寄せて、身体を押し付けた。ライルは急な出来事で抵抗できず、シイナの勢いに流されてしまう。そしてシイナは顔を一気に寄せて、ライルを貪るようにキスをする。


 ライルはそれをとても恐ろしく感じた。しかし一方で、とろけるような甘さを感じた。麻薬的な快感もあった。シイナの鼻息が当たって自分の鼻がそれを吸い込むので息が苦しい。口からは色々なものが送り込まれて息ができない。しかし窒息してもいいと思った。それだけ、この瞬間が甘美であった。


 シイナは一度、唇を離す。僅かに唾液が糸を引いていた。


 身体は密着したままで、ふわりと柔らかい四肢が身体に重なる。夏の暑さか体温か、二人の汗が身体を蒸らす。ライルは胸の動悸が早くなり過ぎて、脳には快感物質が溢れすぎて、最早どうにかなりそうだった。


 するとシイナはライルにしがみ付きながらこんな事を口にする。


「……こんな事をフィリップだけじゃないわ……その取り巻きとだってさせられた……! その気持ちが分かるの……?」


 えげつない話だ。しかしその話を聞いて、酷い罪悪感と同時、今こんな事をして興奮してしまっている自分がいる。強烈な背徳感がライルを襲った。


「私をどうにかしてよっ……どうしたらいいのよ……」


 その言葉にライルは心が揺らいでしまった。あの、普段大人しくて物静かなシイナが、目の前で顔を紅潮させて、自分を求めている姿を見てしまっては、自制がきかなくなる。


 気が付けば視線はシイナの身体に向いていた。胸はバクバクしている。そして、ライルは、はやる気持ちで、自分の手をシイナの身体にあてようとしたとき、ふと我に返る。


 そんな事をして何が良くなるわけでもないのだ。こうしてでしかお互いの存在を確かめ合えないのは、こんな事で慰め合う事しか出来ないのは、少しだけ寂しい気さえする。


 もっと何かあるはずなのに、もっとしてあげられることがあるはずなのに、どうしてこうなってしまったのだろう。


 このままの関係になれば、きっといつかおかしくなる。ライルは意を決してあることを口にした。


「……どうしてボクたちから離れて、ボクにあんな事を言ったんだ……!」


『ライル……もう、私に関わらないで……』


 フィリップ達と過ごすことになったことも、過ごしていたシイナの気持ちも、そしてシイナがライルに告げたこの言葉も、未だにライルには理解できないでいる。一方でそれに対してシイナはこんな事を言う。


「もうライルは私には届かない存在だって知ったから……! だったら……ライルに嫌われたって、ライルに影響が出ない様にフィリップに従う他に無かったの……!」


「思ってもいない言葉なら、言わないでくれよっ!」


 だからライルはシイナから身を引いたのに、シイナの言葉でシイナと一緒に居る事を諦めたのに、そんな事を今更聞かされて、今更まだ通りの関係になれる気がしなかった。


「……親の顔も知らないボクたちは、共に助け合って家族のように暮らしてきたじゃないか! ……いや、家族そのものだった。なのにもう関わるなと言われて、関係も希薄になって……ボクだって寂しかったんだ!」


「だって……だって……!」


 シイナのその素ぶりは、ワガママに見えて仕方がなかった。そう思えてしまう自分が情けなくて仕方がなかった。そんな風に大切な人を見たくなかった。しかし、シイナがフィリップに好き勝手されている姿を思い浮かべると胸の奥が焼ける感覚がして、怒りで罪悪感が和らいだ。


「……ねぇ、何でなの、何で私じゃダメなのッ! ライルの嘘吐きッ……!」


 どうしてだ。どうしてそんな事が言えるんだ。今更ボクを悪者にできるのだ。ライルの胸の奥底で、怒りがふつふつと湧き上がってきたのだが、


「……ごめん」


 ライルはなんとか心を殺して謝った。俯いて、誠意を見せた。


「ごめんじゃないよ……好きなのに、堪らなく好きなのにどうして!」


 それなのに、こんな返事が飛んできた。ライルはこれ以上、マトモにシイナと取り合える程、心に余裕が無かった。


 それに、ライルにはまだ心の拠り所がある。


 ――『GEN』


 頭の中に浮かんだその三文字は、ライルの心をぐっと闇に引き込んだ。もう、全てがどうでも良くなった気がした。


 ボクの夢はもう叶う。メイス姉が叶えてくれる。だからもう、こんな事でボクは縛られる必要など無いのだ。


 そんな事を考えてしまったから、ライルは自分が今まで告げられて、最も傷付いた言葉を添えることにした。


「…………シイナは変わったよ」


 するとシイナは呆然としてしまった。それを見て、ライルは淡々とシイナを強く押し退けると、個室トイレの鍵を開けて出て行ってしまった。ここまでやらなければ情が移ると思っていた。


「待って……一緒にいたいだけなのにッ……!」


「ごめんシイナ。ボクも、一緒に居たかった。でもそれ以上の事は……許してくれ」


 その後に言葉は続かなかった。聞こえてきたのはせせり泣く声だけだった。


 ライルは振り返る事もなく、その場を後にした。振り返ればきっと、また一緒に居たいと思ってしまうから。シイナを傷付けることになるから。


「……最低ね」


 その言葉を聞いてライルは少し驚いた。女子トイレを出たその脇に、何故かセリアが待ち構えていたからだ。ちなみに他には誰もいない。


「聞いていたのか……?」


「一部始終ね。アリスちゃんには言わないでおくけど……アンタ、アレは酷いわ」


 そんな事は言われなくても知っていた。それどころか自分の行いを全て見られたことは酷く恥ずかしく、憤りも覚えた。だからこそ、黙ったままで居て欲しかった。


「……ほっといてくれよ」


「ほっとけないからここにいるんだけど?」


 ガラにもない事をするものだと思った。今朝からこんな様子では調子が狂ってしまう。しかし、今となってはそんな言葉も苛立ちにしかならない。


「そうか、ありがとうよ」


 ライルはいつも通りに素っ気なく返事を返す。


「先生のお達しだからね」


 セリアは言葉を付け加えた。そう言われて、ライルは少しだけ笑って見せる。何だかいつもの調子が出てきたようで少しだけ安心した。


「逆にそれなら安心したよ。善意で来て貰っちゃぁ、こんな夏でも雪が降る」


 そう告げると、ライルはそっとセリアの前を取り抜けて、脇の会談へ向かい、下っていった。


「……そっち教室と逆だけど。帰るの?」


 セリアは黙々と階段を降りるライルの後ろ姿を見ながらこう告げた。今日はヤケに突っかかって来る。


「あぁ……そうだよ」


「ふぅん。まぁ止めはしないけれど……一つだけ良いかな」


「……何だよ」


 ライルは思わず足を止めた。急にセリアの声が真面目になったからだ。そうしてセリアは一呼吸置いてから、意を決した様にこんな言葉を口にした。


「私はもう逃げないわ。だから、ライルも逃げないで」


 理解しかねるその言葉の意味は、理解できないが故に、理解できる者しか理解できない様な、複雑な意味を孕んでいる気がした。何の意味も分からなかったがライルには、それが何故か、始まりの合図を告げる号令のようにさえ思えてしまった。

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